とんびの視点

まとはづれなことばかり

国を考え、理解しよう

2016年06月23日 | 雑文
「俺のこと(あたしのこと)を愛せ、とにかく愛せ。何も考えなくてもよい愛してくれ」と言われたらどうだろう。あるいは「あなたのこと(お前のこと)を愛している。とにかく愛してる」と言われたらどうだろう。暑苦しいと思う。僕ならば、僕のことを考えて理解して欲しい。相手のことを考えて理解したい。

「愛」という言葉にはいろいろな意味がある。私たちが最初に思い浮かべるのは異性間(同性間でも構わない)での恋愛感情だろう。一般に肯定的な感情のように幻想されているが、ちょっとした拍子に憎しみに変わったりするので、それほど安定した感情ではない。

「愛」が肯定的な方に引き寄せられるのは、キリスト教の「愛」の影響だろう。辞書には「神が、みずからを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと」とある。「あまねく、限りなく」というところがポイントだろう。何か特定のものに限定しないということだ。一方、仏教で「愛」というのは、盲目的な執着のことである。相手のことを考えも理解もせず、とにかく愛する、ということだ。

で、「愛国心」である。多くの人が知っていると思うが、安倍政権が行おうとしている憲法変更には「愛国心」的な要素が入っている。この「愛国心」という言葉はなかなか厄介だ。それは「愛」という言葉の持っている両義性のせいかもしれない。

「愛国心」という言葉に肯定的な印象を受ける人は、「自分が生まれた土地、伝統、文化などを大切に思う心」というふうに考えているのだろう。否定的な印象を受ける人は、「個人よりも国家を大切に思う心。国家に忠誠を誓う心」というふうに考えているのではないか。だとすれば、賛成している人と反対している人では、1つの言葉に対して、それぞれべつの意味を見て、それぞれ感情的な反応をしていることになる。

「愛国心」を英語で表すなら、「patriotism」か「nationalism」となる。前者は「郷土愛」のようなもの、後者は「国家主義的」なもの、という説明をよく聞く。どうも「patriotism」は土地、伝統、文化などを愛する方に近そうだし、「nationalism」は国家への忠誠に近そうな気がする。やはり両義性がある。これは人々を混乱させるだろう。どうやら誤解を招きやすい「愛国心」という言葉は避けた方がよさそうだ。

「愛国心」をキリスト教的な「愛」の文脈においても、仏教的な「愛」の文脈においても話はすっきりしない。キリスト教の文脈に置けば、愛のポイントは「あまねく、限りなく」である。だとすれば、愛国心とは「自国」のみを愛するのではなく、「すべての国」をあまねく愛さねばならないことになる。(そういえば、現行憲法の前文に「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」というくだりがある。)また、仏教的な文脈に置けば、盲目的執着の対象に「国」がくることになる。これは国を危うくする。やはり、国に対して「愛」という言葉を使うことに無理があるのだ。

ではどうするか。僕は誰もが「国を考え理解する」ことが大切だと思う。もちろんその中心は「自国」だ。つまり「日本を考え、理解すること」がもっとも大切だ。そのためには、まず世界中の「国」に共通するものを理解することも必要だ。その上で「日本」という国について考え、理解する。私たちに必要なのは国について考える力、「考国力」のようなものだ。

キリスト教的な「愛」であらゆる国をあまねく限りなく「愛」するというなら、ある種の平和主義的で悪くはない。しかしそれでは現実の国家間のやりとりの熾烈さに対応できまい。だからと言って仏教的な「愛」で国民みんなが盲目的に執着したら一億総玉砕みたいな危ういことになる。恋愛感情で国を「愛」する?そんなこと可能なのか?

日本は自分の国です。きちんと「国」を考えて、理解しましょう。選挙というのはそのための良い機会です。よく考えて選挙に行こう。

私たちはどちらの道を捨てるのか?

2016年06月22日 | 雑文
道を歩いている。目の前には別れ道がある。右に行けば山へと続き、左に行けば海へと続く。どちらを選んだとしても、再び戻り、違う道を選びなおすことはできない。山を選べば山の民として生きていかねばならないし、海を選べば海の民として生きていかねばならない。

そんなとき、あなたならどうするだろう。立ち止まることもせず、気分やノリでどちらかの道にふらふらと進んでいくだろうか。あるいは、歩みを止め、山の民の世界はどのようなものか、海の民として生きるとはどういうことか、じっくりと考え、どちらかの道を選ぶだろうか。

誰もが立ち止まって考えるだろう。自分はどちらの道を選ぶのか。いや、どちらの道を捨てるのかと。

そういう選択ができるのは、道が分かれていることが見えているからだ。どちらかを取り、どちらかを捨てる決断をしなければならないとわかっているからだ。別れ道が見えなければ、そこで立ち止まることも、考えることも、選ぶこともできない。ただ、一本の「この道」、今まで通りのばすの、でもどこか違うところに行きそうな「この道」を歩むことになる。

いま、私たちはそのような「分岐点」に立っている。今回の参院選のことだ。安倍政権と野党連合が提示しているのは、別々の道だ。私たちはどちらを取り、どちらを捨てるのかを選ばねばならない。経済政策に焦点を当てれば、経済成長という一本の道の歩み方の違いのように見えるかもしれない。しかし、今回の選挙で問われているのは、一本道の歩み方の違いではない。どちらの道を捨てるかなのだ。とくに憲法改正はそうである。

現行憲法の13条と、自民党の草案のそれを比べてみよう。憲法学者によっては、13条は日本国憲法でもっとも重要だという。

(現行憲法)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。

(自民党改憲草案)
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

どうだろう。この2つに違いを見出すことができるだろうか。これが大きな別れ道の選択を迫っていると感じられるだろうか。私たち素人にとってはあまり違いは感じられないかもしれない。しかし『「憲法改正」の真実』という本で、日本の憲法学者の大家、樋口陽一氏と小林節氏は、この変更に大きな危機感を持っていた。

具体的には、現行憲法の「個人」が改憲草案では「人」、「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公の秩序に反しない限り」と変わっている。「個人」であれ、「人」であれ、その後には「尊重される」と書いてあるから何も違わないのではないか、そう思うかもしれない。このわずかな違いが、何かを決定的に捨てることにつながる。大きな別れ道なのだ。

わかりやすく、僕なりにこの違いを書いてみたい。

自民党の言う「人として尊重する」というのは、こういうことかもしれない。工事現場などで人が10人必要な状況だ。10人いないと仕事ができない。そんなとき、1人が大けがをしてしまう。9人では仕事にならない。現場監督は「この大事な時に1人使い物にならない。大事な人材が1人足りない。困ったものだ。まったくあいつは何で怪我なんてしたんだ。迷惑掛けやがって。とにかく誰か1人連れてきてくれ。怪我したやつ、そんなのは放っておけ。いまは穴を埋められる人の方が大切だ」と言う。

現場監督は、人の重要性をわかっている。そして人を大事だと思っている。しかし、その人は個人ではない。工事を完成させるために必要な10人という意味での人だ。だから、その10人が誰であっても構わない。そして工事中に怪我をするような人間は「迷惑をかけた」人として扱われる。

現行憲法はどうだろう。子どもが小さかったころ、こどもチャレンジを取っていた。「しまじろう」で有名なあれだ。そのときのコピーが「みんないいこだよ」というものだった。糸井重里氏が作ったものだと記憶している。

「みんないいこだよ」というのは、子どもであるだけでみんないいこだ、という意味だそうだ。そこには条件はない。親の言うことを聞くこどもだから、とか、勉強が良くできる子だから、とか、元気ではきはきしているから、とか何の条件もない。さまざまな違いをもった一人ひとりの子どもが、生まれながらにそのままで「いいこ」なのだ。これが、現行憲法の「個人」として尊重するということだ。

端的に言って、自分たちの言うことを聞き、迷惑をかけない「人」は大切にするが、そうでない「人」は大切にしない、というのが自民党の憲法草案がいう「人として尊重される」ということだ。現行憲法でいう「個人として尊重される」というのは、何よりもまず一人ひとりがそのままで大切にされるというものだ。(もちろん公共の福祉に反しない限りとあるので、自由振りかざして好き勝手出来るというものではない。)

国民に対する基本的な考え方が違うのだ。そして、憲法とは国民が国に守らせるべく提示しているものだ。自分たちをこのような存在として認めろと。現行憲法が要求するものと、自民党の憲法草案では、その内容は大きく異なる。

さて、どうだろう。こう書けば、今回の参院選が大きな別れ道の選択だと伝わるだろうか。伝わらないとすれば、それは僕の表現力のなさである。でも、ほんとに別れ道なのだ。どちらを選ぶか。いやどちらを捨てるかをきちんと選ばないと、再び戻ることは出来ないかもしれない。

私たちは選ぶこともできるし、選ぶことを放棄することもできる。そして、その結果は引き受けるしかない。好むと、好まざるとにかかわらず。


彼の言葉を信じるのか?

2016年06月21日 | 雑文
言葉について書く。言葉の機能はいろいろある。僕がちかごろ人に話すのは、言葉のおおきな働きは目の前にないできごとについて語れることだ、というものだ。目の前にないできごと、それは「いま・ここ」以外で起きているできごとだ。

たとえば、過去の戦争で何があったのか、それを話すことができる。あるいは、将来、この社会にどんな出来事が起こるか、それを約束することができる。あるいは、いま地球の裏側で起こっている出来事、それを語ることができる。言葉は「いま・ここ」にない出来事を、あたかも目の前にあるかのように語ることができる。(魔法使いの呪文も、言葉のこういう性質から出てきたものではないかと思う。)

プレゼンテーションとは言葉によってその場に何かを提示することだ。今後、達成されるもの、いずれ作り上げられるものについて、言葉を語ることで「いま・ここ」に現前させる。そもそも英語のpresenceには「現前、存在」という意味があるし、presentには「現在の」という意味がある。またpresentには「贈り物」という意味もある。思い掛けないものを相手の目の前に出し、それを与える。

いずれにせよ、言葉には「いま・ここ」にないものを、あたかも目の前にあるかのように提示する働きがある。しかし語られているものが「いま・ここ」にないならば、嘘をつくことも可能である。過去に起こっていない出来事を起こったかのように語ったり、将来に起こるはずのないことを約束したり、彼方で起こっていることを都合よく語ることもできる。

嘘をつくことで、言葉と現実がズレてくる。すると何が起こるか。言葉によって語られた、過去の悲劇、将来の約束、彼方の現実にリアリティーが感じられなくなる。過去や将来や彼方について語り合い、何かを共有することができなくなる。そして、人は「いま・ここ」のことしか語れず、考えられなくなる。つまりアホウになっていく。

政治家とは言葉で人々に働きかける人たちだ。そして選挙とは言葉によって、過去や将来や彼方について語り、それが目の前にあるかのように提示し、何らかの約束をすることだ。それに対して私たちは投票をする。

約束を破っておきながら、「いままでの皆さんとの約束とは異なる、新しい判断です」などという人間の言葉を信じてはダメだ。そう、この国の首相の言葉だ。僕が現政権に対して危機感を持つのは、言葉にたいする敬意のなさだ。耳障りのよいことを言うが、それらの言葉は守られない。そしてそのことに恥じ入る気配もない。

バカにしてるのだ。国民は「いま・ここ」のことしか考えていないから、すぐに言葉を忘れると思っているのだろう。(安保法を採決したときにも、連休が明ければ空気も落ち着いているだろう、みたいなことを言っていた。)嘘をつかれても国民は怒らない。いや、そもそも言葉を忘れているから怒れない。そう思っているのだろう。だから選挙前に耳障りのいいことを言い、選挙が終わればその言葉など守らない。バカにされているのだ。選挙で試されているのは、私たち主権者なのだ。

先日、東京新聞に安倍首相の言葉がのっていたのでいくつか引用する。

06年12月。原発の全電源喪失について「(日本で海外の事故事例同様の)事故が発生するとは考えられない」と発言。その後、彼が否定した出来事が実際に起こった。事故の発生を想定して対策を考えることもできたはずだ。

07年7月の参院選。消えた年金問題では、首相は「最後の一人まで記録をチェックして年金を支払う」と公約した。かっこいい言葉だ。だが、昨年9月時点で、消えた分の年金名簿は約六割が確認されたにとどまっている。つまり公約は守られていない。

12年12月衆院選の公約。TPPについて「聖域なき関税撤廃を前提にする限り、交渉参加に反対する」と掲げた。しかし、昨年10月の大筋合意の内容では「聖域」の米など重要5項目の594品目うち、約3割で関税が撤廃された。

それに対して「私自身はTPP断固反対と言ったことは1回もない」と言い放つ。「国益にかなう最善の結果を得ることができた。国民との約束は守ることができた」と言った。支離滅裂である。

13年9月、福島原発事故による高濃度汚染水問題について「状況はコントロールされている。」「汚染水の影響は福島第一原発の港湾内0.3平方キロメートルの範囲で完全にブロックされている」と言う。東電側は「いまの状態はコントロール出来ているとは思わない」と否定。

14年11月。「18ヶ月後さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここでみなさんにはっきりとそう断言いたします。(中略)景気判断条項を付すことなく確実に実施します」。一度目の増税延期を決めたときの言葉だ。そして翌月の総選挙に臨み勝利し、安保法を強行採決した。そして「新しい判断」により、さらに消費増税をさらに延期した。

細かく拾えばもっとあるだろう。でもそんなことをやっている時間が惜しい。彼の言葉を信じられるか。彼の将来の約束を信じられるか。僕には不可能だ。では信じないだけでよいのか。いや、約束を守らないことにたいして怒らないといけない。なぜなら、過去や将来や彼方についての言葉が機能しない社会では、いま・ここしか考えられなくなるからだ。手元のことしか考えられない国民ばかりの国家。それはけっして幸せな社会ではないだろう。

約束がまもられる社会にするのか、約束がやぶられる社会にするのか、私たちはそのどちらを選ぶのか迫られている。私たちはどちらを選ぶこともできるのだ。みんな、彼の言葉を思い出せ。そしてその言葉と現実に起こったことの違いを考えよう。そして、選挙に行こうよ!







不断の努力

2016年06月20日 | 雑文
今朝、新聞を開いたら1面トップに「安倍首相 次の国会から改憲議論 参院選後 具体的に条文審査」とあった。どうやらこれで憲法改正が選挙の争点であることが明確になった。あとは、私たちがそれにどのように答えるかだ。

昨日も書いたように、今回の選挙は、考える時間を稼ぐために野党に勝ってほしい。多くの国民が腰を据えて自分自身で憲法を読み直し、何が問題なのかを自分の頭で考える時間のため。とくに子どもの将来を考える人は真剣にとらえるべきだ。ちょっと目を離したスキに、子どもがいなくなる。そんな危うい逢う魔が時かもしれない。

あるいは多くの人たちが、自民党にも満足していないが、野党の方はもっと頼りない、そう感じているかも知れない。しかし、今回の選挙は参院選である。衆院選であれば、それは政権与党の選択だから、野党が勝てば政権交代が起こる。しかし参院選では野党が勝っても政権交代は起こらない。安倍政権が退陣するだけで自公政権は続く。時間稼ぎのために「今回ばかりは野党に投票」しても、国家的な損失はそれほどないだろう。

今回の選挙、投票率が60%を超えれば野党が勝利できるそうだ。前回はたしか40%くらいなのでかなりの上積みが必要だ。しかし見方をかえれば、60%のうち20%を増やせばよいだけだ。前回、選挙に行かなかった人の3人に1人が行けばよいだけだ。決して無理な数字ではない。

『永続敗戦論』の白井聡氏に言わせれば、今回の選挙はまっとうな民主主義の下での「最後の選挙」になるかもしれないそうだ。自民党の憲法草案が目指す国家像は、民主主義国家とは言えないのだろう。(そういう読み比べをための時間確保でもある。)

また、現在、日本の報道の自由度は世界ランキングで72位だ。上と下はたしかアフリカ諸国だ。メディアが舛添都知事をあれだけ叩いているのだから、そんなことはないと思うかも知れない。しかし報道の自由がなくなるというのは、そういうことではない。自分が何を知らないのか知ることができない、ということだ。実際、内田樹のブログ(http://blog.tatsuru.com/)によれば、フランスのルモンド紙は今回の舛添問題を、タックスヘイブン問題(400に上るパナマ文書の日本企業や個人名)、オリンピックの不正問題、参院選についての報道を減らすために周到に用意されたもの、と書いている。(甘利問題や高市問題も含まれるかも知れない。)

少なくとも、安倍首相を中心とする人たちは本気でこの国を変えようとしている。そう主張すること自体に反対するつもりはない。表現、思想・信条の自由がある。ただ、主権者である私たちがきちんと学び、考え、判断するための時間の確保が、いま必要なのだ。何を知らないのかを知るための時間が必要なのだ。何となく気がついていたら変わっていた、というのは成熟した市民のあり方とは言えない。

法律や憲法が変わっても、そのときはたんなる言葉の変更でしかない。その効力は時間をかけてじわじわと現れる。そして気づいた時には、それは違法や違憲ではなく、合法や合憲なものとなる。それに反対をするものこそ、違法で違憲な存在となる。そうなってからでは遅いのだ。

憲法を読むようになり、もっとも心を打たれ、力づけられたのは12条だ。

第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

そう、私たちは国にサービスを求め、気に入らなければクレームを言うお客ではないのだ。主権者なのだ。自分たちや子どもたちの自由と権利を守るために、不断の努力をしなければならない。


選挙に行こうよ!

2016年06月19日 | 雑文
参院選まで3週間となった。今日の午前中、市民連合(http://shiminrengo.com/)が有楽町で開催した街宣活動に、相方と2人で行った。

政治に関することを書くのにはためらいがある。1つには、自分が政治のことをあまり知らないからだ。僕は知りもしないで偉そうなことをしゃべる人間を見ると腹が立つ。自分はそういうことはしたくない。だから口をつぐむ。もう1つは、上手く語る技術がないからだ。自分の理解や意見を書こうと思うとやたらと長くなり、文章が読みにくくなる。知らないことが多いからだろう。だとすると、技術というより知識の問題だ。じゃあ、知識が身に付くまで黙っているかというと、そうも言ってられない。あと3週間で参院選、僕の感じる大枠としての問題点をざっくり書く。

今回の参院選はとにかく重要だ。おそらく戦後70年続いた日本社会の大きな転換点となるだろう。(個人的には戦後70年にもいろいろ問題があったと思う。)端的に言って、今回の選挙は憲法改正に賛成か反対かの意見表明をすることになる。それぞれの人が自覚していようと、自覚していまいと、そんなことは関係ない。自分は経済政策で投票したのだ、と思っていてもそんなことも関係ない。今回、与党を勝たせることは、憲法改正に賛成したことになる。なぜか。

前々回の選挙で、安倍政権は経済を争点に選挙を戦った。選挙に勝利して強行したのは「特定秘密保護法」だ。前回の選挙も経済を争点にした。しかし勝利して行ったのは憲法学者の多くが違憲だとする「安保法」の強行採決。学習能力のある人間であれば(あるいは人工知能であれば)、次回は「憲法改正」を行うと判断するだろう。

そもそも政治家としての安倍氏は憲法改正を自分の使命だと明言しているし、自民党自体が自主憲法制定を党是としている。だから、彼らが「憲法改正」を言い出すことは別に不思議ではない。(まあ、選挙前にどうどうと主張しないのはかっこ悪いし、子どもに勧められない。)

現行の日本憲法には問題がある(部分がある)と思うので、まったく変えるな、とは言わない。ただ、変えるならきちんとしたプロセスを踏むことが必要だ。プロセスには2つある。1つは憲法改正のための手続き的な正当性である。国会議員の3分の2以上が発議して、……国民投票を行う、というような、憲法にある改憲規定に則るということだ。自民党もさすがにここは突破できないとふんで今回の選挙に臨んでいる。(まあ、安保法のときはそれをやったけど。)

きちんとしたプロセスにはもうひとつある。これは明文化されていないが、ある種の社会の成熟度が試されるものだ。すなわち、主権者である国民がきちんと憲法を理解し、その上で自分で判断して、憲法改正に賛成や反対を表明できる状態を経ることである。

端的に書く。憲法を自分で読んだこともないのであれば、成熟した主権者の判断はできない。メディアや団体のバイアスのかかった見方を自分の判断だと思い込んでいるだけだ。(安保法のときにも、「北朝鮮がミサイルを撃ってくるから賛成」とかいう人をテレビで観た。風吹きゃ桶屋か、と思った。)

少なくとも日本が西欧的な近代の枠組みの国際社会で、そのルールを遵守するプレーヤーとして活躍していくことを望むなら、私たちは、憲法を主権者国民が政府が暴走しないように縛るための大切なものとして扱わねばならない。

おそらく憲法をきちんと読んでいる人はそれほど多くないだろう。僕自身、読み始めたのは安倍政権になってからだ。読めば読むほど、問題点にも気づくし、それほど簡単にクリアカットな意見は出せないと思う。だからこそ、慌てて今回の参院選で変える選択をする必要はない。いまはいったん時間を確保して、みんながしっかり憲法を読み込み、考え、意見を出しあう。その上で、守る部分は守ればよいし、変える部分は変えればよい。自分たちが生きる国のありようを変えること、それは非常に大切なことだ。下手をすれば、子どもたちの世代に大きな影響を残すかも知れない。(原発事故のように。)

自分で憲法を読み、理解し、考え、意見を交換する。それには時間とエネルギーが必要だろう。でもそれは、自分の国を考えることであるし、自分たちの生活を考えることだ。まさにきちんと自分のことを考えることにほかならない。時間がなくて自分のことを考えられない。では、いったい何を考えるのだ。金儲け?

今回の街宣でもコールをした。とてもよいコールがあった。「今回ばかりは野党を応援」というものだ。そう、いま必要なのは時間稼ぎなのだ。とにかく立ち止まって憲法について、この国について考える時間が必要なのだ。メディアのあおりに乗せられてはいけない。そのためには、今回の選挙で与党を勝たせることはまずい。

同じことを言う。今回の選挙は、自分の意図がどうあれ、憲法改正についての賛美を表明したことになる。投票に行かないことも賛否の表明になる。日本国で生きる限り、逃げ場はないのだ。逃げ場がないというのは、無関係ではいられないということだ。

安保法が強行採決された真夜中、国会前で起こったコールが今日も有楽町で響いた。「選挙に行こうよ!」「選挙に行こうよ!」。そう、この選挙で問われているのは私たち国民の側なのだ。あなたたちは主権者であることを放棄するのか、と。そう、今回ばかりは「選挙に行こうよ!」。







「大むかで競走」と「組体操」

2016年06月08日 | 雑文
6月が1週間が過ぎた。東京も梅雨に入り、汗かきには苦手な季節となった。
梅雨に入る少し前、先週の土曜日、中学校の運動会を見に行った。
長男は今年から高校、次男は小学6年生なので、自分の子ども運動会ではない。
小学校のPTA会長として見に行ったのだ。

中学校の運動会は見ていて面白い。
小学校の運動会は見ていてある種のほほえましさを感じるのだが、
中学校の運動会となると、生徒たちの真剣さが前面に出ていて手に汗握る感じがある。

そんな中でも僕が一番好きなのは、3年生がクラス対抗で行う「大むかで競争」だ。
クラスが男子と女子の2チームに分かれ、それぞれが大縄に足をつなぎむかでを作る。
最初に女子がグラウンドを一周し、男子にたすきをわたし、男子が一周して順位を決める。

先頭の生徒が大縄を両手に持ち、全員が前の生徒の両肩に手を乗せて、ひとつのむかでになる。
そして「ま~え、うしろ、いち、に」とみんなで大きな声をだす。
「いち、に」「いち、に」と声に合わせて足並みをそろえる。
どのクラスもスタートでは足並みはそろう。でも前に進むうちに、歩幅の違いや、
リズムのちょっとしたズレから足並みが乱れてくる。

ある部分では縄がたるみ、ある部分では縄が張り、むかでがストップする。
場合によっては、みんなが転んでしまうこともある。
他のクラスが順調に進んでいるのを気にしながら、なんとか体勢立て直す。
そしてもう一度、「ま~え、うしろ、いち、に」と声と出して、前に進む。

リードしているチームは少しでもリードを広げようと、
遅れているチームは少しでも順位を上げようと、
はやる気持ちをおさえながら歩みを進める。
みんなで声と足並みを合わせながら、チームが必死に一つになろうとする。

毎回のことだが、素直に感動する。
あれは、長男が中学2年の時だから、一昨年の運動会だ。

あるクラスの女子がコケてしまい、その後もうまく立て直せなくなった。
他のクラスが次々に男子にたすきを渡しても、まだグラウンドの半分しか進んでいない。
彼女らがたすきを渡すころには、他のクラスの男子も次々とゴールしようとしている。

たすきを受けた男子たちは、たった一匹のむかででグラウンドを一周した。
最下位が決まっていても、競う相手がいなくても、レースをやめるわけにはいかない。
気を抜くわけにもいかない。そんなことをすれば、足並みがみだれ、むかでは崩れてしまう。

「ま~え、うしろ、いち、に」「いち、に」「いち、に」。生徒たちは大きな声で、真剣に全力で歩む。
勝ち負けはもう関係ない。自分たちが力を合わせて、一つのことをきちんとやり遂げようとする。
そんな気持ちがグラウンド全体に伝わる。他の生徒たちも、保護者達も彼らを見守っている。

たまらず、同じクラスの女子たちが男子たちの方に駆け寄る。
本来ならばルール違反なのだろう。でも、それを止める人はいない。
「いち、に」「いち、に」の掛け声でゴールを目指す男子たちを女子たちが囲む。
そして、一緒に声を出しながら、横を歩いていく。
涙を流しながら応援している女の子もいる。そしてクラスみんなでゴールをする。
最下位だが、どのクラスよりもひとつになっていた。

とても感動的だった。今年はそれほどのドラマはなかったが、それでも心が動いた。
次男も3年後には同じように大むかで競争をすることになる。どんなドラマが待っているのか。

中学の運動会で同じくらい感動的なのが「組体操」だが、
僕はどうしても組体操を見ながら、感動している自分に対して自制を求めてしまう。
「無邪気に感動するな」と。

今年は事故の影響で組体操は中止になり、代わりに体操をすることになった。
組体操のような大掛かりな感動はないが、それでもあれだけの人数の生徒たちが、
みんなで気持ちを合わせながら、一つのことを成しとげようとする姿は無条件で心に響く。
今年も見ながら、何度も心が動かされた。

でも、動かされながら、どこかで動かされるなと自分に言い聞かせていた。
理由は簡単だ。あの手の集団行動が地続きで軍隊的なものにつながるからだ。

みんなが力を合わせて一つのことを達成しようとしてるという意味では、
「大むかで競争」も「組体操」も同じだ。
それなのになぜ、大むかでは無条件で感動できて、組体操には感動を自制するのか。
この違和感は何なのだろう。ちょっと考えてみた。

わかった。組体操には段上で指示を出す人がいるから嫌なのだ。
大むかでは、それに参加している人間たちだけで成り立っている。
誰もが一つのことを達成しようと、等しく汗をかきながら、心をひとつにしようとする。
みんなが、みんなに声をかけている。

しかし、組体操は違う。現場には参加しない人間からの指示に従って、みんなが動く。
それが受け入れられないのだ。だから感動しつつ、それを自制してしまう。
でも、受け入れられないというのは、組体操そのものではない。
受け入れられないのは、僕自身の中にあるある種の欲望だ。

組体操はすばらしい、そんな組体操をやらせるべく指示を出す側になりたい。
自分の指示ひとつで人々が思い通りに動くようにしたい、
そういう欲望が僕の中にはわずであるがあるのだろう。

そしておそらく、そういう欲望は多くの人が共有するところだろう。
自分は指示を出す側に回って、人々を思い通りに動かしたい。
それは権力欲であり、支配欲である。これは危険だ。

僕が神のような正しさのみを備えているならば、そういう欲望も悪くはあるまい。
残念ながら、僕は自分では正しいと思いながら、間違ったことをする人間だ。
そういう人間は権力欲や支配欲は持たぬほうが良いに決まっている。
組体操は僕の中のそういう欲望に火をつけかねない。
他の人の欲望にも火をつけてしまうかもしれない。

無邪気に感動して、その欲望に気づけなくなることが僕は嫌なのだ。
だから、組体操に違和感があったのだ。