とんびの視点

まとはづれなことばかり

野菜も食べる、農薬も食べる

2015年02月13日 | 雑文
2月10日の東京新聞のこちら特報部に「ネオニコ農薬 厚労省、無視?さらに緩和案」という記事があった。ネオニコチノイド系農薬といえば、世界中でミツバチが大量失踪している原因ではないかとされているものだ。世界的にもネオニコ系農薬追放の世論が高まっているし、EUでは13年に3種類のネオニコ系農薬の使用を禁止している。ところが日本は、ネオニコ系農薬の使用基準を緩和しようとしているそうだ。日本のミツバチも大変である。

大変なのはミツバチだけではない。人間もその影響をこうむる。ミツバチがいなくなれば植物の受粉に影響が出るからだ。でも、それ以上にまずいのは、野菜などに残留する農薬が増えることだ。私たちはより多くの農薬を食することになる。

ネオニコ系農薬を緩和するということは、残留農薬基準を緩和することである。13年6月にはネオニコ系農薬の一種、殺虫剤クロチアニジンの残留基準を約40項目で緩和する方針を示した。食品1㌔あたりの限度量を、ホウレンソウは従来の13倍、シュンギクは50倍にした。また昨年の新緩和基準では、対象品目を10項目以上増やし、ゴボウを従来の10倍、シイタケを2.5倍にした。

ビデオニュースドットコム(http://www.videonews.com/)1月17日の放送で、フードプロデューサーの南清貴氏も類することを述べていた。それによると、主要国の農薬使用量は、アメリカとドイツは1haあたり2㌔前後、フランスは4㌔、イギリスは6㌔、イタリアは約7~8㌔、韓国は12~13㌔で推移している。日本は2000年まで20㌔前後で推移して、その後も約16㌔と主要国の中で突出しているそうだ。その理由は、日本の農家は農協を通して出荷をしており、その農協は肥料や農薬を売ることも仕事にしているからだそうだ。

また、化学肥料を使い、短い時間で農作物を育てることは栄養面にも影響するそうだ。最近の安価な野菜は栄養価が非常に落ちているらしい。「日本標準食品成分表」によると、ほうれん草100gあたり、1963年はカルシウムが98mgであったのが、2000年には49mgと半減した。ビタミンCは100mgから35mg、鉄分も3.3mgから2.2mg。他の野菜にしても同様で、大根はカルシウムが3分の2、ビタミンCが3分の1、鉄分も3分の2となった。かりに野菜の値段が3分の2になっても、栄養価が3分の2ではべつに安くないことになる。

僕は野菜がかなり好きだ。体に良いとも聞いていた。かなりの量を食べているだろう。僕だけでなく家族も同じだ。しかし欧米と比べて、日本の野菜に多量の農薬が使われているとは知らなかった。食べれば食べるほど農薬を摂取することになるわけだ。ただちには影響はないということなのか。

おそらくこういったやり方によって利益を得ている人たちがいるはずだ。利権を確保するためなら、人々の健康や生活は問題ではない。そういう考え方がこの国には広がっているし、日本人自身がそれを認めてしまっている雰囲気すらある。専門家の言うことを鵜呑みにせず、自分自身で客観的なデータを検証したり、諸外国と比較しないと、現状を見誤ることになるだろう。
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「愛国心」のむずかしさ

2015年02月09日 | 雑文
2月5日の東京新聞に『難しい心の評価 道徳「読む」から「考える」に』という記事があった。道徳の教科化にあたって指導要領が改定される。その案が公表された、というものだ。教科となれば評価をしなければならない。そして評価にあたっては明確な基準が必要となる。そこで問題となるのが「愛国心」となる。

「愛国心」という言葉はなかなか難しい。一方では、かつての戦前・戦中の軍国支配につながるという考えがある。その一方では、自分の住んでいる土地や制度について関心を持つのは当然だという考えがある。

改訂案を見てみる。たとえば小3、4年は「わが国や郷土の伝統と文化を大切にし、国や郷土を愛する心をもつ」とある。また中学校では「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家および社会の形成者として、その発展に努める」とある。

小3、4年では前半の「わが国の郷土の伝統と文化をたいせつにし」という部分と、中学校では後半の「国家および社会の形成者として、その発展に努める」という部分はとくに問題はない。ただし、「国や郷土を『愛する心』をもつ」とか、「日本人としての自覚をもって『国を愛し』」という部分は危うい。

「愛」という言葉がもつ危ういからだ。日本に生まれ育ち、生活する人が、その郷土や国の制度について関心を持つのは良いことだ。その関心は、郷土や制度を維持しよう、あるいはより良くしようという肯定的な関心であるべきだ。僕はそう思っている。しかしその肯定的な関心に「愛」という言葉を当てようとは思わない。

「愛」という言葉はいっけん素晴らしい。しかしそれは観念的なレベルにおいてだ。現実の世界における「愛」はなかなか困難である。多くの日本人が「愛」という言葉を実感するのは、恋愛感情を持ったときだろう。恋愛感情は体験に先立つもので、たいていが観念的で美しいものとなってしまう。しかし経験を通して、恋愛の現実が観念とは異なることを知る。

このとき、自分の「愛」という観念を疑わず、相手にそれを押し付けようとするとき、「憎しみ」が生まれる。「愛憎劇」とはよく言ったもので、「愛」が簡単に「憎」に変わることを私たちは経験的に知っている。昨今のストーカー事件などでも、そこに「愛」が不在であったケースなどあるはずがない。

「それは本当の愛ではない」とか、「国を愛する心は別である」というかもしれない。なるほどその通りだろう。僕が「愛」という言葉を避けたほうが良いと思うのもまさにその点である。一つの言葉を巡って「本当の」とか「真実の」という言い方が出てくるような不安定な言葉を、評価が絡む教科には用いないほうが良いと思うのだ。

そんなことをすると、かえって「愛」という言葉の内容を恣意的に変えようとする人間が出てくる。自分が望んでいる態度を他の人が取ることが「愛の証明」となる。そうしない人間を憎みさえする。不要な愛憎劇を作り出すことになる。

自分が生まれ育ち、生活する土地や制度を肯定的に受け入れることは必要だ。それらを維持したり、より良くして次の世代にきちんと渡す。それが「保守」ということだ。そのためには「愛」という観念的で不安定な言葉を教科に持ち込むことはよくない。個人的な心情の表明に使えば良い。

僕としては「愛」という言葉を「きちんと考える」に変えれば良いと思う。小3、4年では「我が国の郷土と伝統と文化をたいせつにし、国や郷土をきちんと考える心をもつ」となり、中学校では「日本人としての自覚をもって国をきちんと考え、国家および社会の形成者として、その発展に努める」となる。

そのほうが、福島の汚染地域や、沖縄の辺野古などをはじめとする郷土や、憲法や法制度などの国の仕組みをきちんと考え、それを良くしようとする次世代の日本人をより多く育てることができるように思う。
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