とんびの視点

まとはづれなことばかり

あとは自分で判断

2018年04月21日 | 雑文
「あとは国民の判断」という安倍首相の言葉に、すでに何回か触れた。その後いろんなラジオ番組で、たとえば元文科相の前川喜平氏、経済学者の金子勝氏、自民党の石破茂氏などが、いまの政治状況(あるいは日本社会)をよくする方法を問われたとき、そろって「国民の次第」と答えていた。

「あとは国民の判断」という安倍首相の言葉は、案外、いまの日本の課題の核心を突いていそうだ。国民は何らかの判断をし、その態度表明をしなければならない。世界的にも今までのシステムが持たなくなりつつあるし、日本もここ数年、戦後システムを大きく変えようとしている。こういう時期、たしかに「国民の判断」は必要だろう。

選挙のときに投票所に行くことだけが政治参加で、あとは任せっぱなし、気に入らなければブーたれる。日本人の民度はその程度だ、とは社会学者の宮台真司氏の言葉だ。

その通りだと思う。自分のことを振り返っても、震災前はそんなもんだった。新聞などで政治状況は把握していたが、とくに何をすることもなく、選挙で投票に行くくらいだった。そしてそれを不自然と思っていなかった。

ひとつには、政治が日常生活と切り離されたものだったからだろう。政治とは、政治家が国会などで行うものであり、日常生活とのダイレクトな接点はない。(たんに個人的に知識がなかっただけとも言える。)また、そのころ政治家以外で政治に係わるのは、思想的な組織や宗教的な組織に属している人という印象だった。(あくまで勝手な印象だ。)

とくに接点をもつきっかけがない人にとって、政治は日常生活からちょっと離れたところにあった。政治に関心のある人は投票に行くが、無関心な人は投票すらしない。投票所に脚を運ぶかいなかが、政治的関心の基準にすらなっていた。

経済成長が維持され、大きな問題が起っていないなら、国民の政治関心はその程度でも問題ない。しかし冷戦が終結し、バブルが崩壊し、経済は停滞した。東日本大震災ではこの国のシステムがかなり脆弱であることが明らかになった。

まじめに働いていても貧乏から抜け出せなかったり、生まれ育った土地でふたたび暮らせないようなことが起る。そのフレームを作っているのが政治だ。政治が日常生活と大きく関わっていることを実感する人たちが、少しずつ増えてきた。

僕自身はそんな1人だ。本当なら政治のことであまり時間を取られたくない。政治関係の本を読むくらいなら、楽器のひとつでも習いに行きたい。でも、自分の日常生活に関わるのであれば、政治ことも考えねばならない。結局は自分のことだからだ。
そんなふうに安倍首相の「あとは国民の判断」という言葉を考えていると、「自分のことを自分で考え判断したらどうですか?」という問いに思えてくる。それはとても大切な問いだ。真剣に考えるに値する。

安倍首相の支持率が落ちてきた。調査によっては25%くらいだそうだ。その理由で一番多いのが「人柄が信頼できない」だそうだ。

人柄ってそんな簡単に変わるだろうか?変わらないと思う。状況が異なればちがった人柄のように見えることもあるだろう。しかしそれは人柄が変わったということではない。多様な状況でどう振る舞うか、それら総体の構造と振る舞いの傾向性が人柄だろう。

子どもならいざ知らず、それなりの年齢の人間の人柄は簡単には変わらない。第二次安倍政権発足時と現在で人柄が変わったとは思えない。

だとすれば、問題は安倍首相の人柄ではない(それは本人が問題視すればよい)。信頼できない人柄の人を信頼してしまった私たちの問題だ。実際には信頼できない人柄の人がいる。それを信頼した私は裏切られた気がする。それは端的に、私の思い違いである。

相手は最初から信頼できない人だったのだ。それを私が思い違いをして信頼していたのだ。そこにはおそらく不安があったのだろう。冷戦が終結し、バブルがはじけた。経済的に停滞し、この先よくなる感じがしない。自民党はぼろぼろになり、民主党政権となるが、空回り。そこに東日本大震災。どうしていいかわからない不安から、誰かに任せたくなったのだろう。そこにアベノミクスを掲げて安倍さんが出てきた。多くの人がおもわず飛びついた。そして日本はいまのような状況になっている。
人は見たくない現実よりも、欲する幻を見る。そして、幻を欲する自分を反省するのではなく、幻を見せてくれなかった相手を責める。

「あとは国民の判断」と安倍首相は言った。一方では、実際に彼がこの数年、どのような言葉を口にし、どのようなことを行ってきたかを知り、きちんと評価することが必要だ。その一方、この数年間の自分たちの判断を振り返ることも必要だ。

起ったことは、善いことも、悪いことも、すべて受け入れるしかない。次回に活かすためだ。次の世代によいものを残すためだ。べつに強い政治的な関心を持つ必要はない。過剰に期待したり、あきらめたりせず、自分の日常のさまざまな場面で判断すればよい。日常と政治がすでに繋がっている状況だからこそ、日常での判断が大切になる。詰まる所、それは自分を大切にすることでもある。
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さまざまな鉄柵を乗り越えて(国会前抗議行動4.14)

2018年04月15日 | 雑文
まだ腰痛はよくならないが、3km程度のジョギングを再開した。(ランニングとはとても言えない。)ほぼ2週間ぶりだ。走ってみると、太陽の光や気温や風の感じが変わっている。木々の葉がだいぶ茂りだし、街がだいぶ緑色になっていた。あっという間に、汗ばむような暑さが来て、夏のようだとか言いながら、もっと暑い本当の夏を迎え・・というように、繰り返すように月日は流れていくのだろう。

繰り返さない出来事もある。昨日は国会前の抗議行動に行ってきた。強風と雨が予報されていたが、風もそれほど強くなく、雨もほとんど降らずにすんだ。(雨のことを考え、国会前にいく前にモンベルに寄りポンチョを買った。ポンチョは以前から欲しかったので、今回のことに「かこつけて」という感じだ。)

抗議行動の始る14時少し前に国会前に着いた。霞が関駅から多くの人が国会を目指していたので、人数はそこそこ集まると思った。着いてみれば、すでに人も多く、大音量で音楽がかかりラップ調のコールが起っていた。(国会前はけっこうな広さなので、それぞれの場所でいろんな形の抗議が行われている。足を止めたのは一番ノリのよいところだった。)

かなりの人出だが安保法の時ほどではない。国会前に来ることだけが意思表示だとは思わないが、疑問を持っている人たちは何らかの形で自分の意志を表示してるのだろうか。かなり心配だ。

心の中では反対している。声には出さないが怒っている。それでは人に伝わらない。言わずに理解して欲しいと思う心が「忖度」の社会を作り出す。異なる意見を、目くじらを立てずに、みんなが言えるのがいい。社会にはそのくらいの余裕があったほうがよい。

国会前に着いたときに、今日は確実に車道に人があふれると思った。車道に機動隊の車両がなかったからだ。機動隊が本気で人々を押さえ込むなら、歩道の脇にカマボコと呼ばれるバスのような車両をずらっと並べる。(そしてアイドリングをし続けるといういやがらせをする。)その車両がない。もちろん、歩道と車道の境目には鉄柵がずらっと並べられている。しかし、その鉄柵は安保法の時に破られている。だから、鉄柵ぐらいでは防げないことは機動隊もわかっている。

抗議する人たちに「はいどうぞ」と簡単に車道を開放するつもりはないが、絶対に「破らせまい」ともしていない。そんな印象を受ける。国民が本気で乗り越えようとすれば、勝ち取ることはできる。多少意味は違うが、安倍首相が「後は国民の判断」と言ったことと通じる。

国家の中枢に権力が集中することは避けられない。しかし集中した権力がどのように機能するかは、国民と権力の関係によって決まる。国民が権力に無関心になり、何の関与もしなければ、権力は自らの欲望にしたがって動く。その意味で、権力の姿は国民の姿そのものだ。(私は選んでいないが、)私たちが選んだ政権なのだ。時の政権を批判することは大切だが、糾弾するだけではダメだ。(抗議の口調はそうならざるを得ないけど。)

安倍政権になって日本もだいぶひどいことになった。(もっともひどいのは言葉の劣化だ。言葉が機能しない社会になってきた。)それでも日本はまだ民主主義国家だと思った。国民が本気で乗り越えようとすれば、乗り越えられる鉄柵を設けているからだ。(誰かが意図しているのか、たんなる僥倖なのか。)

戦後、憲法がアメリカから与えられたように、民主主義もアメリカから与えられた。日本人は自分たちで民主主義を勝ち取っていない。戦争の悲惨さを覚えていた人たち、何らかのきっかけで民主主義を考えることになった人たち以外は、民主主義はとくに意識する対象ではなかったのだろう。

だから、民主主義が攻め込まれていても気付かない。だから、民主主義をどこかで勝ち取らなければならない。安倍首相の「後は国民の判断」という言葉は、そういう意味を持っていると思う。「民主主義を勝ち取りますか」と。(安倍首相って能力的なスペックは高くないと思うが、けっこう恐ろしい存在だと思う。真剣に向き合っておいたほうがよいと思う。)だから、国民はきちんと自らの判断を示したほうがよい。問いかけられたら、答えるのが礼儀というものだ。

そういうわけで5万人の人が国会前に集まり、鉄柵を破って車道で声を上げた。何というのか、こういうのも自分たちで民主主義を勝ちとることだと思う。すごく小さな勝ち取りだけど。独裁国家ならこんな簡単に鉄柵は破れないだろう。放水もされない、警棒で打たれることもない、ゴム弾を撃たれることもない。声をあげれば、けっこう簡単にいろいろな鉄柵を乗り越えることはできる。乗り越えられるうちに、乗り越えておくべきなのだ。そうしないと、いずれたくさんの血を流さないと乗り越えられないような鉄柵が目の前に立ちはだかることになる。

すでにさまざまな鉄柵が日本社会にはある。(どの社会にもある。)それぞれの鉄柵に対して、いろんな乗り越え方があるだろう。さまざまな鉄柵を乗り越える私たちの作法のひとつひとつが、この社会を成り立たせるひとつひとつとなる。個々人が気楽に異なる意見を表せるのがよいように、鉄柵の乗り越え方もさまざまであってよい。

昨日の国会前でも、いろんな形の抗議の仕方があった。正しい抗議仕方があって、みんながその通りに抗議するなど、堅苦しくて気持ち悪い。社会を変えていくには時間がかかる。いや、時間をかけねばならない。いろんな形でそれぞれが鉄柵を乗り越えている時に社会は多様に生成している。

昨日、たぶん、日本の社会でいままでにない抗議の形が生まれた。こういうのもありだし、とてもよいと思った。
80過ぎのおばあちゃんが気持ちよさそうに踊ってた。おかしいものはおかしいと声を上げながら。もちろん僕も。
言葉で説明するよりも映像で。
https://www.youtube.com/watch?v=wFy8U5gmbsc&app=desktop
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腰痛悪化

2018年04月06日 | 雑文
この1週間、ランニングができていない。腰を痛めたせいだ。先週の土曜日(3月31日)、次男のバレー部で3年生の追い出し試合があった。保護者もチームを作り参加することになり、いい気になってぴょんぴょん飛び跳ねた。そしたら腰に負担がかかったようで、家に帰ったときにはひどい腰痛になっていた。参ったものだ。

年頭に決めたことが2つあった。ひとつはランニング。もうひとつがブログだ。震災以前はけっこう定期的に書いていたのだが、震災で自分の言葉の軽さを実感し、書けなくなっていた。書こうと思っても考え込み、手が止まってしまう。深く考えるのは悪くないが、書くことを止めると漠然とした思いを言葉に変える力が落ちる。また言葉にすることで物事に始末をつけることができなくなり、結局、もやもやしたものが残る。けっこう悪循環が起っていた。

そこで、内容はともかく定期的に書こうと決めた。あまり無理しちゃいけないと週に1回と決めた。そしてここまで、週に1回は書いてきた。しかし、週に1回というのはちょっと失敗だった。書くたびに妙にきついのだ。

ランニングに喩えるなら、走ることを習慣化させために、毎週日曜日に15キロ走るようなものだ。走る前には気が重くなるし、走っているときはきついし、走り終ったら疲れが残る。それなら、1回5キロを週3回走ったほうがよい。

週に1回だから週末にきちんと書こう。そう思うことでかえってやりにくくなっていたのかも知れない。平日に毎朝15分ジョギングをするように、平日にも軽く書いていこう。ジョギングが週末の長距離を楽にするように、軽く書くことが、週末に長く書くことをきっと楽にするだろう。

というわけで、年が明けて3ヵ月が過ぎ、ランニングとブログの続け方に調整が必要になってきたわけだ。(これも続けていたからわかること。何であれ続けることは大切だ。)

今回はここで軽めに終える。明日、明後日の土日は1泊で合気道の合宿がある。九十九里の海岸の近くだ。まあ、腰を痛めないようにしながら、うまく稽古をしてこよう。
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あとは国民の判断

2018年04月01日 | 雑文
4月1日だ。あっという間に今年も3ヵ月が過ぎた。1月、2月はわりと良い感じで過ごせたが、3月に入り少し雲行きが怪しくなってきた。

まずは花粉症に攻め込まれた。これまで、秋には軽いアレルギー反応が出ていたが、春の花粉症とはほぼ無縁だった。しかし今年の春は、目と鼻がやられた。寝ているあいだに鼻が詰まり口を開け、喉が渇き詰まり、苦しくて飛び起きることが何度もあった。仕事中、何かを考えようとするが、いつの間にかぼーっとしていたことも何度かあった。考える力が3低空飛行している感じだった。

ランニングも月目標の150kmを下回り127km止まりだった。休日に天気が崩れ距離が稼げなかった。そして脚を痛めて走れない日があった。(さらに腰を再び痛めてしまった。4月のランニングも黄色信号だ。)しかし言い訳にはならない。経験に照らせば、悪天候や体調不良があっても目標達成できないようではランナーではない。その意味では、4月が今年のランニングを左右する分水嶺となるだろう。

もうひとつ想定外のことが起った。森友問題の文書改ざんを巡っての官邸前や国会前での抗議行動が始まったことだ。憲法改正問題で秋以降に何らかの行動が起るとは思っていたが、この時期とは思っていなかった。その結果、何度か官邸前に脚を運んだ。率直に言えば、こういうことにあまり時間を取られたくない。しかし、こういう時にはきちんと態度を示しておかねばならないとも思う。(憲法12条 この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力をもってこれを保持しなければならない)

僕は一貫して安倍政権には批判的だ。ひとつは言葉の使い方が無茶苦茶だからだ。もうひとつは公正なプロセスを無視して物事を進めるからだ。(この2つは同じコインの裏表だ。)きちんと言葉で考え、丁寧にそれを形にしてく。そういうことをないがしろにすると、人の心はすさみ、人々は分断され、社会は劣化する。経済さえよければ何でもよいとはいかない。実際、よいといわれる経済だって、デフレ脱却は道半ばだし、庶民レベルでは豊かになった実感はない。頼みの綱の株価もそろそろ限界だ。

「あとは国民の判断」。佐川さんの証人喚問を受け、安倍首相はそう言った。この言葉はとても重いものだと思う。国民の皆さんが辞めろと言えば私は辞めますが、辞めろと言わなければ辞めません。いや、それどころか、辞めろと言わないのであれば、私が正しかったことが証明されます。そういう意味を持ってると思う。自分を倒したければきちんと態度で示せ、そういう言葉なのだ。その意味では、安倍首相はきちんと国民に問いかけているのだ。国民は無視してはいけない。

安倍政権に批判的だと書いたが、安倍首相やその周辺の人間を批判したいのではない。特定秘密保護法、安保法、共謀罪など、問題のある法案をつぎつぎと提出してきた。また、森友問題や加計学園問題、南スーダンPKOの日報隠しなどの問題もあった。その間には選挙があったにもかかわらず、安倍政権は続いてきた。結局は国民が安倍政権を認めてきたのだ。小選挙区制、実際の得票数が少ないなどの問題もあるが、それは言い訳にはならない。結局は民度なのだ。

人は自分を基準にしてものを判断してしまう。ある出来事に自分と同じような反応をしない人を見ると、批判的になってしまう。たとえば、このところ毎週金曜日夜の官邸前には1万人を超える人たちが集まり、思い思いに抗議の態度を示している。スピーチをする人、コールすると、だまって立っている人、写真をりとSNSで拡散する人。個人が自分の意志を態度で示すのは良いことだと思う。べつに暴動を起こそうというわけではないのだ。しかし人数が少ない。これだけのことがあったのに、なぜ1万人しか集まらないのだろうと思う。毎週10万人集まれば事態はすぐにでも変わる。みんないったい何をしているのだろう。そんな風に感じてしまう。

しかし全く反対の立場の人たちもいる。彼らからすれば抗議している人たちは反日、売国奴であるらしい。

僕が気になるのは、そのどちらでもないような人たちだ。多くの人たちが、森友問題と文書改ざんを知り「ひどいことだ」と言う。そして「さすがに安倍政権ももたないだろう」などと言う。いろんな意見や批判や正論めいたことを言う。でも、そこで終わりだ。ひどいことを何とかしようという当事者意識が感じられない。自分のことではない、遠くの出来事を語っているかのようだ。

多くの人たちが内心、安倍政権に疑問を感じている。しかし、それに対して自分から態度を示そうとはしない。太平洋戦争後、日本の指導部の多くの人たちが「内心では戦争には反対だったが、それを言い出せる空気ではなかった」と述べた。人によっては今の状況が戦前と似ているという。そうなのかもしれない。きっと日本人は敗戦から大事なことを学ばなかったのだろう。

一部の人たちは押し付け憲法だという。たしかに憲法は日本人が自分たちで勝ち取ったものではない。それは民主主義も同じだ。自分たちで勝ち取ったものではなく、たなぼたのように転がり込んだものだ。人は手に入れるのに苦労したものは大切にする。でも簡単に手に入ったものは邪険に扱う。民主主義と口では言いながら、戦後日本は経済発展のみに力を注いでいたのではないか。

国民主権も基本的人権も平和主義も、多くの人たちにとっては当たり前にあるものだった。必死で守る必要も感じず、それらについて考える時間も取らなかったのだろう。僕自身、教育の過程でそれらについて深く考えさせられることはなかった。試験に出るから、用語と簡単な内容を覚えた程度だ。

いま、旧優生保護法に基づく強制不妊手術が問題になっている。法律が出来たのは1948年だ。憲法はすでに手にしている。なぜ基本的人権という観点が働かなかったのか。憲法9条を掲げ平和主義を唱える。でもそれは沖縄に基地を過剰に集中させ、自衛隊に負担をかけこることで成り立っていた、本土の表面的な平和でしかなかったのかもしれない。

そして「あとは国民の判断」と安倍首相は言った。これは国民に「主権」を問うているのだ。あなたたちは主権者としてどう判断するのか、と。賛成であれ、反対であれ、国民は自らの考えを態度を示さねばならないだろう。問われているのだから、答えねばならない。黙っていたら、誰も忖度などしてくれない。このまま安倍政権が続けば、おそらく彼は憲法改正まで突き進むだろう。彼はそのために政治家をやってるのだから。そして憲法改正された社会では、主権も人権も平和も制約されるだろう。自民党の改憲案を読めばわかる。

憲法改正された社会と憲法改正されない社会、どちらの社会になっても日本は続く。そこで人は生まれ、生活し、死んでいく。日本はなくならない。しかし実現するのはどちらかひとつだ。それが唯一の現実の社会となる。自分が生き、生活する社会のありようを自分で選ぶ。人としてごく当たり前のことではないかと思う。選ぶことを放棄するのであれば、自由や権利がなくなるのも仕方がない。
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