とんびの視点

まとはづれなことばかり

「なっている」のではありません

2017年02月25日 | 時事
「なる」という言葉が嫌いだ。べつに「なる」という言葉自体を嫌っているのではない。日常での使われ方がとても気になる。「なります」「なっています」「なりました」。いろんな出来事が、これらの言葉で説明されている。「なっている」って、べつに自然現象じゃないでしょ。誰かがそう「決めた」んだし、あなたがそう「行って」いるんでしょ。そう言いたくなることがある。

「なる」。広辞苑にはこうある。現象や物事が自然に変化していき、そのものの完成されたすがたをあらわす。

ポイントはふたつだ。人の手が加わっていないこと。そして、完成されたすがたであること。「なります」は、これから物事が変化して自然と完成したすがたになること。「なっています」は、物事が変化して自然と完成したすがたになりつつあること、あるいはすでにそうなっていること。「なりました」は、物事が自然に変化し完成した姿にすでになったこと。

いずれにせよ「なる」という言葉は、人が事象や物事の変化には関われないこと、そして、それが完成したすがたであることを示す。

だから、出来事を「なります」「なっています」「なりました」と説明されると、そのプロセスにも関与できないし、その完成したすがたを決めることもできない。私たちはそんな無力感を持つことになる。もちろん、ふたたび巡ってきた春に咲いた桜や、夏の雨降りの後のアスファルトのにおいを語るとき、「なる」という言葉を使うのはよい。しかし、いつ、誰が決めたのかわからない無意味なルールや、目の前の行動の根拠を尋ねた時に、「なっています」というのは思考や責任の放棄といえる。

山本七平の『空気の研究』でも知られているが、第2次世界大戦後に連合国が戦時日本の指導者たちを取り調べたところ、誰一人として「自分が戦争を決定して、遂行した」という人はいなかったそうだ。私としては内心は反対だったのですが、反対できる空気ではなかったのです。みんなそんな感じのことを言ったそうだ。誰一人として自分が決定したという人間がいない。そして日本人だけでも三百万人もの人が死んだ。(この日本人というのは、当時の日本人すべてのことなのだろうか。台湾人や朝鮮人は入っているのだろうか)。

山本七平はそこから「空気」という言葉を使ったが、やはりこれも「なっている」の典型だ。戦争に「なり」そうな雰囲気に「なって」いるから、自分には何も出来ない。「なる」というのは、物事が自然に変化して、完成したすがたをあらわすものだからだ。しかし戦争は人の行うことだ。自然現象ではない。大きな流れが出来ていても、「行う」「行わない」をそれぞれが思考し、自己の責任で決定すべきなのだ。

「なっている」が危険なのは、力の弱いほうに圧力や強制力が向かっていくことだ。はじまることに「なった」戦争は、自然に変化しながら完成したすがたを目指す。「なった」ものだから、その「始まり」に人は関われない。しかし、その完成したすがたへ遂行には人は関われる。戦争に「なっている」のだから命がけでがんばれ。力の弱いものに圧力や強制力がはたらく。力の弱いものも、その圧力や強制力は「なっている」ものとして受け取る。そして内心は反対でも、実際に反対することはない。

「なる」という言葉は自然現象にだけ使うべきだ。人が関わっていることには極力「する」「行う」という言葉を使うほうがよい。四季の巡りは止めることは出来ない。そのように「なって」いるからだ。だから自然をいたずらに開発するのでなく、よく観察して持続可能な交流をするべきだ。しかし、人が「する」「行う」ことには、「しない」「行わない」という選択肢もあるのだ。まずは、その選択をしよう。人が「行う」ことを「なっています」と言ってしまうと、力の弱いものに圧力や強制力が向かってしまう。それはあまりよいことではない。

なぜ、この文章を書こうと思ったか。文科省の天下り問題へのメディアや国民の反応が気になったからだ。官僚が禁止されている天下りを、組織的に行っていた。つまり不正にお金を手に入れられる仕組みを作り、運用していたわけだ。人が行ったことだ。しかし、メディアなどがそれほど強く反発している感じはない。事実を淡々と伝えている。官僚ってそう「なっている」よね、そんな感じがする。その一方、ときおり話題になるのが生活保護の不正受給問題である。これにたいしては、悪いことを「行っている」人がいる。けしからん。そんな反発を感じる。天下りは「なっている」が、不正受給は「行っている」。なんかバランスの悪いことにな「なっている」。そんな感じを持つのは僕だけだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断片 時間があれば膨らましたかったことたち

2017年02月22日 | 雑文
【自分の頭で考えられる若者】

本当の話かジョークなのか、裏はとっていない。かつてこんな話を読んだ。ある会社の新卒採用。経営陣はは自分の頭で考えて行動できる若者を採用しようと決めた。そういう若者が入れば、会社が活性化され、業績も伸びると考えたからだ。じっさい何名かのそういう若者を採用した。そこで若者たちが行ったこと。それは、組合を作って雇用条件などを会社と交渉することだった。

きちんと考える頭がある人たちが考えれば、おのずと自分たちと同じように考えるだろう。経営陣はそう思っていたのだろう。無邪気なものだ。ふつうに考えればわかる。ちゃんと考えればわかる。この言葉は、あなたが私と同じように考えれば、私と同じような結論にいたるはずだ、そう言っているに過ぎない。考えることと忖度することは別物である。

【がんばる人とたたかう人】

がんばる人。与えられた課題などにたいして、それが自分の価値観や思想・信条に合うか反するかを問うことなく、そのルールを守りながら成果を求める人。たたかう人。与えられた課題などにたいして、その内容が自らの価値観、思想・信条と異なる場合は、対話を通して課題そのものを改善していく人。きちんと規則を守る人と、規則を作り出す人と言い換えることもできる。

【朝の通勤電車で努力する人】
先日の朝の通勤電車。目の前に四十歳くらいの男性が座っていた。スマホを2台手に持ち、耳にはイヤホン。左手のスマホは横向き。右手のスマホはたて向き。2台のスマホをきちんとそろえ、1台の機器のようにしている。左の画面にはドラマのようなものが映っている。右の画面は、上からカラフルな丸い物体が次から次へと落ちてくるゲーム。右手でゲームをしながら、ときどき左の画面に目を向ける。

器用さを通り越して、ある種の勤勉さ、いや努力の雰囲気を感じた。左手でドラマ、右手でゲーム。同時に二つのことに取り組む。どんな能力や技術を身に付けようとしているのだろうか。なんだか不思議な気がした。そういう私もテレビは録画したものを2倍速で見ている。

【ランニング】
2月の前半は風邪気味だったり、身内の不幸があったりした。ゆえにランニングがあまりできなかった。今月も目標の100キロにはほど遠い走行距離になりそう。日曜日に8kmほど走った。久しぶりの長い距離だ。腰痛に耐えられるぎりぎり。走力の落ち込みがひどい。走り終わった後の疲労感を、過去のランニングと比べる。3倍だ。以前なら25kmくらい走ったときの疲労感と同じだ。そう思ったら、自分が25km走ったような満足感が味わえた。自分が自分をだまそうとしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

義父のこと

2017年02月15日 | 雑文
義父が亡くなった。先週の火曜日のことだ。八十八歳だった。二日前の日曜日の夜に救急車で病院に。そして二日後に静かに息を引き取った。家族に看病の苦労をかけることもなかった。義父らしい、立派な最後だった。

いつも本を読んでいた。クラシックの音楽を好んで聴いた。囲碁を打った。絵も描いた。とても知性のある人だった。しっかりとした自分の考えを持ちながら、それを人に押し付けることをしない。自分の意見を言うよりも、まず人の話に耳を傾けてくれる人だった、そして遊びに行くと、いつも朝食にオムレツを作ってくれた。

そんな義父が逝ってしまった。人は亡くなるとき、同時にその人の世界も持っていってしまう。私たちは誰もが、自分の目でものを見て、自分の耳で音や声を聞き、自分の鼻でにおいをかぎ、自分の口で味わい、自分の肌で触れて感じる。自分の場所からしか世界と関われない。そしてその場所に、けっして他者は入ってこれない。誰もが少しずつ人と異なる自分の世界を生きているのだ。

義父がもっていってしまった世界。彼が見た世界には私もいたはずだ。彼が聞いた世界には私の声もあったはずだ。私が作った料理の味もあったはずだ。私だけではない。彼の妻、息子、娘、孫たち、そして親類、友人、知人。それらの人たちの顔や姿や声。そういったすべてが満ちていた。その世界とともに逝ってしまった。人が亡くなったとき、私たちの胸はぽっかり穴が開いたようになる。亡くなった人がその世界にいたものたちを一緒に持っていってしまうからかもしれない。

でも僕が生きているかぎり、僕の世界に義父はいる。そのなかには、満州の無蓋列車に乗る16、7歳の少年だった義父もいる。あるとき、義父に聞いた話だ。(もちろん僕の想像が加わっている)。戦争が終わり、満州からの引き上げ途中だったか。地平線の広がる大地を列車が走る。日本に引き上げる日本人たちをたくさん乗せている。満州の秋はあっという間に深まり、吹く風は冷たい。少年は屋根のない列車の端に座っている。列車の外に足を出して、ぶらぶらと揺らしながらいろいろ考える。戦争、死、これからの人生。満州の地平線を眺めながら考える。足に当たる風が冷たい。足を床にあげてあぐらを組む。ほんの数分後か、列車は何もないコンクリートだけのプラットフォームの横を通過する。

「あのとき、もし足を上げていなかったら、僕の足はなくなっていたんだ。そうおもうとヒヤッとする」。

義父はそういった。足だけでない。命もなくしていたかもしれない。いずれにせよ、人生はまったくちがったものになったはずだ。義母と出会うこともなかっただろう。息子や娘もいなかった。いてもべつの人間だった。僕がその娘と結婚することもできなかった。そう、私たちがこのようにあるのは、たまたま足を上げるようにな、小さな幸運の積み重なっているからだ。

でも、幸運の積み重ねという言い方は正確ではない。義父が偶然足を上げることになったのは、日本が戦争に負けたからだ。日中戦争では日本人もかなり残酷なことをしただろう。本土では空襲や原爆で人々が塗炭の苦しみを味わった。そこには多くの不幸があったはずだ。すでにおこったすべてのできごとがなければ、私たちはいまあるように存在できない。よいことも、わるいことも、一つでも欠けたら、私たちはいまあるように存在できない。世界はほんとうに不思議だ。

そんな世界に私たちはたまたま生まれてくる。そして、自分の場所から見て、聞いて、味わって、触れて、嗅いで、自分の世界をつくる。泣いたり、笑ったりしながら、時を過ごす。そして自分の世界とともに戻っていく。みんな同じだ。誰一人ちがうあり方はできない。この世界にいるわずかな時のあいだに、たまたまお互いの世界が重なることが起こる。出会いだ。でもいつか別れが来る。そう、別れが来た。

義父へ。あなたが、この世界に存在していたこと、そしてあなたの義理の息子であったことに、とても感謝しています。
どうもありがとうございました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テロ等準備罪・共謀罪 どっちが嘘?

2017年02月12日 | 時事
アメリカ社会、荒れてますね。トランプ大統領が就任して、社会の分断が進んだようです。異なる意見がない社会は危険だ。しかし異なる意見が社会を分断するのも危険だ。異なる意見が対話できる。それが成熟した社会だろう。日本もあやうい状況だ。

たとえば、あなたが法案について賛否を尋ねられたとする。

一つ目は次のようなものだ。テロ組織などを対象にした法案で、国際組織犯罪防止条約の締結に必要なもの。組織が犯罪の計画と準備を行っていることが確認できれば、犯罪として処罰できる。この法律がないと東京オリンピック・パラリンピックが開けない。大切な法律だ。あなたは賛成するだろうか。テロは未然に防げそうだ。オリンピック・パラリンピックも開ける。悪い話ではない。そう思い、多くの人が賛成するかもしれない。

二つ目。治安維持法の現代版とも言える法案だ。治安維持法は、戦前、日本社会を戦争に向かわせるために効力を発揮した。権力が国民を監視し、思想・信条の領域に足を踏み入れてくる。思想や良心の自由を保証した憲法十九条に反する、違憲の可能性すらある。どうだろう。あなたは反対するだろうか。戦争に向かう社会はいやだ。自分がしていることを監視されるのもごめんだ。自由に考えること、何かを信じることを禁止する。まるで独裁国家だ。多くの人が反対するにちがいない。

もうわかっていると思う。二つは別々の法案ではない。一つの法案に対する二つの説明だ。いわゆる「テロ等準備罪」「共謀罪」。前者が安倍政権や与党の説明。後者が反対する野党の説明だ。この法案が今国会で成立するかもしれない。与党は衆参ともに過半数の議席を確保している。採決に持ち込めば数の力で通せる。安保法制のときを思い出そう。今回もかならずや強行採決をするだろう。

どこかで起こった地震や津波をテレビで見るように、拱手傍観していてよいのだろうか。「なりました」「なっています」。あらゆることを自然現象のように「なる」という言葉で語ってしまうのか。法律を作ることは、社会のルールを作ることだ。社会とは私たちの生活する時であり場である。自分が従うルールが作られようとしている。そのルールの内容や過程に関心をもたないのは「主」の放棄だ。民が「主」であることを放棄する。

民は仕事や日々の生活に忙しい。法案の内容を詳しく知り、国会の議論の矛盾をつくような時間はない。しかし十分な時間がないことを、何もやらない理由にしてはいけない。憲法十二条。この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。この言葉、真に受けてみるのもよいだろう。自分たちの社会のルール作りに関心をもってよい時節だ。

関わろうと決めることで、私たちは選択を迫られる。法案に賛成するのか反対するのか。でも、その説明は政権と野党ではまったく異なる。すべてを理解するほど時間はとれない。中身がわからない中で選択を迫られる。中身がわからなくても賛成する。それは安倍政権の言葉を鵜呑みにすることだ。中身がわからないのに反対する。それは反対する野党の言葉を鵜呑みにすることだ。前者は安倍政権を信じていると言うかもしれない。後者は安倍政権を信じられないと言うかもしれない。「信じる・信じない」という言葉を使うことをやめよう。思考を放棄することになる。

ニュースなどで議論を追いかけるのは必要だ。しかし複雑な内容や意味不明なやり取りに引きずられ、うまく考えられないかもしれない。「信じる・信じない」で決めつけるのでもない。すべてを理解してから判断するのでもない。そのあいだに市井の民ができることはないか。不断の努力が少しでもできるような何かだ。

安倍政権については次の言葉が本当か調べてみよう。「テロ等準備罪がなければ、国際組織犯罪防止条約を締結できない」「この法律がなければ東京オリンピック・パラリンピックが開催できない」。テロ等準備罪がなくても、国際組織犯罪防止条約を締結できるなら、安倍政権は嘘をついていることになる。この法律がなくてもオリ・パラが開催できるなら、安倍政権は嘘をついていることになる。

野党側については三つだ。テロ等準備罪が治安維持法につながるようなものか。つながらないなら嘘になる。憲法十九条に反する違憲立法と言えるものか。言えないなら嘘をついたことになる。権力が国民を監視することになるか。ならないなら嘘になる。

これだけ両者の説明が異なる。どちらかが嘘をついているはずだ。あるいは真実を述べていないと言ってもよい。(もう一つの真実を述べているといってもよい。しかしそうなると、それはトランプのアメリカと同じ社会だ)。最初の言葉で真実を述べない人は、他の発言も同じように真実を述べていないはずだ。そう推論するのが思考というものだ。

日々の瑣末な議論に惑わされてはダメだ。まずは最初の説明の言葉をしっかり吟味する。そして嘘があれば、声をあげよう。そんな不正義を日本社会や日本人は好まないのだと。武士道に反すると。ぜんぜん美しくないと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次男、立春の日に最後の持久走大会 

2017年02月06日 | 雑文
さてさて、ノルマである。今日、ブログをアップしないと早くも計画が崩れることになる。何かを書かなくてはと思いとにかくキーボードを叩くが、たんなる日記のようなものになりそうだ。

この一週間、少し風邪に捕まりつつあった。ノドが少し痛み、咳が出ていた。わが家では相方が風邪を引き、長男も風邪を引いた。僕の症状はたいしたことない。ふだんなら攻めで治そうと、ランニングをしている程度だ。でも、今回はすごく慎重にしていた。金曜日の夜に芝居のチケットを取っていたからだ。

金曜日の夜、野田マップの『足跡姫』を見に行った。宮沢りえ、妻夫木聡、古田新太など力のある役者と、野田さんの演出のすごさで、なかなか圧倒的な芝居だった。中村勘三郎への思いのつまった作品と言えば、いちおう作品を説明したことになる。しかし、それだけではなかった。じゃあ何だ、言われるとうまく言葉にできない。圧倒されたが、まだ消化しきれていない感じだ。(いまその作業に入ると、この文章は書けないだろう。だから一時、撤退)

土曜日には、次男の小学校で持久走大会があった。小学校最後の大会だ。次男は入学当初から背が低いほうだ。今でも学年男子で前から2番目。それでも2年生で足を骨折するまでは走るのが速かった。走ることが好きで、得意だった。短距離ではリレーの選手になれるくらいだし、長距離では5キロくらい平気でランニングしていた。とにかくフォームに無駄がない。いずれはフルマラソンを一緒に走ることもあるかも、などと思っていた。

しかし、骨折して数ヶ月たつと走ることがダメになっていた。折れた足をかばっている数ヶ月で、体の使い方がぜんぜん違うものになってしまった。次男としては同じように走っているつもりかもしれない。でもスピードは出ない。同級生たちは体が大きくなったり、野球やサッカーで走り込んでいる。いつの間にか、走ることが苦手と感じるようになった。

土手や公園へランニングに誘っても、「いかない」と言うことが増えた。強く誘ったり、優しく促したり、なんとかして走りに連れて行った。おまけに次男は「できない」ことが嫌いな性格だ。「できない」ことに腹を立てて努力するならよい。でも、走ることに関しては苦手意識ができてしまったのか。本気で取り組むことをいやがっていた。本気でやってもできない、そういう自分に向きあうのは大人でも苦手なものだ。それなら、本気にならないほうが言い訳の余地が残る。(本気を出せば、もっとできるはずだ、と)。

今回は小学校最後の持久走だ。「少しはがんばれ、男子で半分よりは上を狙え」と言った。多少は一緒に練習をしたが、あまり本気になっている雰囲気はなかった。それでも、大会の二日前からクラスの友達の自主練習に参加するようになった。あさ6時前、まだ暗いなか公園に集まりみんなで走る。たった2日の練習だが、気持ちにはスイッチが入ったようだ。夜には一人で縄跳びもしていた。

大会は土曜日。立春。暦の上では春だ。風もなく、とても暖かい日差しだ。ランニングには理想的だ。6年男子は最後のレース。子供たちがスタートラインに並ぶ。合図とともに一斉に走り出す。先頭の5、6人は短距離走のようなスピードで走る。(持久走は1キロなので、走れる男子にとっては長距離ではない)。走力のない人が、この集団に下手についていくと途中でバテる。

次男を見ると、半分よりは前の位置、悪くないフォームで走っている。このままのペースで走り、最後にスパートをかけられれば、12、3位には入れるかもしれない。目の前のすこし太った生徒の後ろをしっかりとついていく。悪くない作戦だと思った。でも、その生徒のスピードが落ち始め、他の生徒に抜かれ始める。他の生徒がスピードをあげたわけではないので、彼が勝手に落ちていっただけだ。しかし、次男は律義に彼の後ろを走る。そして一緒に抜かれていく。でもスピードが落ちたぶん、次男はけっこう余裕の走りをしている。

順位がどんどんと落ちる。半分よりも下の位置になった。次男は自分のおかれた状況をわかっているのか。残り三百メートルくらい。「前に出ろ」と次男に声をかける。少しずつ、スピードをあげる。前を走っていた男子を抜く。けど、それほど余裕があるわけではない。周りもラストスパートをかけ始める。がんばって何人か抜く。どうだろう、うまく半分くらいにはなれるだろうか。

最後のコーナーを曲がってゴールに向かって直線を走る。必死な表情でスパートをかけている。周りもスピードを上げるので、簡単には抜けない。前の生徒を抜こうと必死で走る次男。ああ、こういう表情を見るのは久しぶりだなと思った。彼が真剣に走っている顔を見るのはほんとうに久しぶりだ。たしかにかつてのようなスピード感はない。それでも全力で走る表情はとても良い。小学校に入学した頃の走る姿と重なって見えた。

結果は34人中17位。ぎりぎりで目標を達成した。次男も満足しているようで、言い分けめいたことも言わないし、もっとうまくやれたとも言わない。何より、走り終わった姿が楽しそうだった。小学校の最後に良い感じで持久走を終えることができた。

午後には、おいしいパンを買って、相方と次男と三人で荒川の土手に行った。立春にふさわしく、土手の日差しは本当に暖かく、風もなく、穏やかだった。芝でボールで遊んだり、犬を散歩させたり、ジョギングをしたり、たくさんの人たちが土手に出ていた。僕らは、本を読んだり、枯れ枝でチャンバラをしたりした。そして夜には、長男も加えて焼き肉を食べに行った。

やはり、何だか普通の日記になってしまった。でも、まあ、とても気持ちよい春の最初の日だった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次男、立春の日に最後の持久走大会 

2017年02月06日 | 雑文
さてさて、ノルマである。今日、ブログをアップしないと早くも計画が崩れることになる。何かを書かなくてはと思いとにかくキーボードを叩くが、たんなる日記のようなものになりそうだ。

この一週間、少し風邪に捕まりつつあった。ノドが少し痛み、咳が出ていた。わが家では相方が風邪を引き、長男も風邪を引いた。僕の症状はたいしたことない。ふだんなら攻めで治そうと、ランニングをしている程度だ。でも、今回はすごく慎重にしていた。金曜日の夜に芝居のチケットを取っていたからだ。

金曜日の夜、野田マップの『足跡姫』を見に行った。宮沢りえ、妻夫木聡、古田新太など力のある役者と、野田さんの演出のすごさで、なかなか圧倒的な芝居だった。中村勘三郎への思いのつまった作品と言えば、いちおう作品を説明したことになる。しかし、それだけではなかった。じゃあ何だ、言われるとうまく言葉にできない。圧倒されたが、まだ消化しきれていない感じだ。(いまその作業に入ると、この文章は書けないだろう。だから一時、撤退)

土曜日には、次男の小学校で持久走大会があった。小学校最後の大会だ。次男は入学当初から背が低いほうだ。今でも学年男子で前から2番目。それでも2年生で足を骨折するまでは走るのが速かった。走ることが好きで、得意だった。短距離ではリレーの選手になれるくらいだし、長距離では5キロくらい平気でランニングしていた。とにかくフォームに無駄がない。いずれはフルマラソンを一緒に走ることもあるかも、などと思っていた。

しかし、骨折して数ヶ月たつと走ることがダメになっていた。折れた足をかばっている数ヶ月で、体の使い方がぜんぜん違うものになってしまった。次男としては同じように走っているつもりかもしれない。でもスピードは出ない。同級生たちは体が大きくなったり、野球やサッカーで走り込んでいる。いつの間にか、走ることが苦手と感じるようになった。

土手や公園へランニングに誘っても、「いかない」と言うことが増えた。強く誘ったり、優しく促したり、なんとかして走りに連れて行った。おまけに次男は「できない」ことが嫌いな性格だ。「できない」ことに腹を立てて努力するならよい。でも、走ることに関しては苦手意識ができてしまったのか。本気で取り組むことをいやがっていた。本気でやってもできない、そういう自分に向きあうのは大人でも苦手なものだ。それなら、本気にならないほうが言い訳の余地が残る。(本気を出せば、もっとできるはずだ、と)。

今回は小学校最後の持久走だ。「少しはがんばれ、男子で半分よりは上を狙え」と言った。多少は一緒に練習をしたが、あまり本気になっている雰囲気はなかった。それでも、大会の二日前からクラスの友達の自主練習に参加するようになった。あさ6時前、まだ暗いなか公園に集まりみんなで走る。たった2日の練習だが、気持ちにはスイッチが入ったようだ。夜には一人で縄跳びもしていた。

大会は土曜日。立春。暦の上では春だ。風もなく、とても暖かい日差しだ。ランニングには理想的だ。6年男子は最後のレース。子供たちがスタートラインに並ぶ。合図とともに一斉に走り出す。先頭の5、6人は短距離走のようなスピードで走る。(持久走は1キロなので、走れる男子にとっては長距離ではない)。走力のない人が、この集団に下手についていくと途中でバテる。

次男を見ると、半分よりは前の位置、悪くないフォームで走っている。このままのペースで走り、最後にスパートをかけられれば、12、3位には入れるかもしれない。目の前のすこし太った生徒の後ろをしっかりとついていく。悪くない作戦だと思った。でも、その生徒のスピードが落ち始め、他の生徒に抜かれ始める。他の生徒がスピードをあげたわけではないので、彼が勝手に落ちていっただけだ。しかし、次男は律義に彼の後ろを走る。そして一緒に抜かれていく。でもスピードが落ちたぶん、次男はけっこう余裕の走りをしている。

順位がどんどんと落ちる。半分よりも下の位置になった。次男は自分のおかれた状況をわかっているのか。残り三百メートルくらい。「前に出ろ」と次男に声をかける。少しずつ、スピードをあげる。前を走っていた男子を抜く。けど、それほど余裕があるわけではない。周りもラストスパートをかけ始める。がんばって何人か抜く。どうだろう、うまく半分くらいにはなれるだろうか。

最後のコーナーを曲がってゴールに向かって直線を走る。必死な表情でスパートをかけている。周りもスピードを上げるので、簡単には抜けない。前の生徒を抜こうと必死で走る次男。ああ、こういう表情を見るのは久しぶりだなと思った。彼が真剣に走っている顔を見るのはほんとうに久しぶりだ。たしかにかつてのようなスピード感はない。それでも全力で走る表情はとても良い。小学校に入学した頃の走る姿と重なって見えた。

結果は34人中17位。ぎりぎりで目標を達成した。次男も満足しているようで、言い分けめいたことも言わないし、もっとうまくやれたとも言わない。何より、走り終わった姿が楽しそうだった。小学校の最後に良い感じで持久走を終えることができた。

午後には、おいしいパンを買って、相方と次男と三人で荒川の土手に行った。立春にふさわしく、土手の日差しは本当に暖かく、風もなく、穏やかだった。芝でボールで遊んだり、犬を散歩させたり、ジョギングをしたり、たくさんの人たちが土手に出ていた。僕らは、本を読んだり、枯れ枝でチャンバラをしたりした。そして夜には、長男も加えて焼き肉を食べに行った。

やはり、何だか普通の日記になってしまった。でも、まあ、とても気持ちよい春の最初の日だった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月のふり返り、新月に尿場が乱れる?

2017年02月01日 | 猫のこと
2月になった。早いもので今年も1ヶ月が終わった。少し振り返ってみる。まずは
ランニング(というかジョギングかな)。今月の走行距離は72㎞。100㎞を目指
していたが足りない。ひどいものだ。腰をやられる前、自分がランナーだと思っ
ていたときには、月に180㎞をメドに走っていた。少なくとも150㎞、多ければ
230㎞くらい走っていた。それがいまでは72㎞だ。ランナーとはいえない。ジョ
ガーである。

ジョガーになって残念なのは、荒川の土手を走る機会が減ることだ。わが家から
土手まで片道2㎞くらい。いまは平日の朝に3.5㎞、そして週末に5㎞か8kmのジョ
ギングをしている。週末しか土手まで行かないし、行ってもわずかな距離しか土
手を走らない。以前は、平日に5㎞、週末には10㎞、20㎞と走っていたので、1年
を通して、土手のいろんな表情を見ることが出来た。

今の時期なら、土手は一面の枯れ草色だ。乾いたうすい茶色が土手一面を覆う。
晴れて青空の下だと太陽の光で枯れ草色が白く光って見える。そして柳の枝が細
いムチのように風にゆれる。でも足下の芝をよく見ると、枯れた芝の中にも少し
ばかり緑の草も見える。さらに目を凝らせば、イヌノフグリの小さな青い花も咲
いていてる。

冬のあいだは強風の土手を走ることも多い。荒川を上流に走る往路は北に向かっ
てのコースだ。風速10メートルを越える北風に向かって30分も走っていると、体
が末端から冷たくなっていく。走力よりも体力が試されている感じだ。人もあま
りいない。やたらと青空で北風がゴーゴーと吹く枯れ草色の土手をひとり走る。
走っているときはつらいけど、走れなくなるとまた走りたくなる。遠くから見れ
ば、たいていのものはきれいに見える、とは村上春樹の小説の言葉だ。

もう一度、あんな感じで走りたい。そのためには今年は本気で腰痛を治そう。と
りあえずは、月間100㎞の目標を達成しよう。最低でも年間で1000㎞だ。その
先、上手くいけばまたフルマラソンを走ろう。(ウルトラマラソンは無理か
な)。フルマラソンと書くと、いろんな大会の情景が浮かぶ。海沿いのコースを
走ってる自分の姿という、実際には見ることが出来ないはずの情景が記憶として
よみがえってくるから不思議だ。そして苦しかった記憶がほとんどなくなってい
る。まあ、そんなものだ。いずれにせよ、腰の状態に合わせて、今年は計画的に
走っていく。

計画的。どうやら僕に必要なのはこれらしい。もともと努力が嫌いな怠け者であ
る。自分でノルマを課さないとゴロゴロしながら本を開き、同じ行を何度も目で
追いかけながら妄想にふけっている。そんな人間だ。腰痛を理由に走るノルマを
外した。PTA会長を引き受け(忙しそうだという)理由で、ブログを書くことも
止めていた。その結果、体重が3kgばかり増えた、文章を書くことが苦手な人間
ができ上がった。

1月になって変わったもう1つは、ブログを定期的に書こうと決めたことだ。震
災前までやっていた、1週間に2本、年間100本を再び目指してみようと思う。内
容はどうでもよい。まずは数を書くことを優先する。書いているうちにいろんな
テーマも出てくるだろうし、書き方も少しは良くなっていくだろう。1月の半ば
にそう決め、これで今年は6本目になる。残りはあと94本だ。

ランニングもブログも僕にとっては似ている。どちらも単なるアマチュアでしか
ない。その意味では誰かの期待に応える必要もないし、クオリティーが多少低く
ても問題ない。どちらもやり続けることで、ある程度の手応えが感じられれば良
い。個人的なことだ。そのためには、時間を確保すること。四の五のいわずに体
で取り組むこと。意味不明な負けん気を発揮すること。そのくらいだ。

とにかく、ランニングやブログに自分の時間をきちんと提供することだ。(何か
を成就するために、自分が必要なものを提供するという感覚はけっこう気に入っ
ている。何かを達成するために、相手から奪い、コントロールするという方法
は、正直うんざりする)。こちらが差し出すから、返礼が起こる。そこで何かが
成就される。そういう運動が続く。

ランニングに時間を提供することで、心身がリフレッシュされる。言葉を書きつ
づることで、頭脳が(わずかだが)クリアになる。さいわいにも提供する時間が
あるならば、提供すればよい。(なまけるな、ということです)。

1月をふり返るはずが話はどんどん流れていく。まあいい。1月は前半にPTA活動
のピークがあった。それはすでに書いた。ネタ的に書くことを探せば、数日前の
新月のあたりでネコがやらかしたことが思い当たる。

わが家には4匹のネコがいる。全身が茶色で縞柄のカミュ、白ベースに黒いブチ
の巨大なマルセル、黒ベースに眉間からお腹にかけて白が広がるプルースト(マ
ルセルと兄弟)、そして茶トラでお腹が白いナツ。白黒兄弟はトイレに問題がある。

白いマルセルは純粋な尿バカでトイレの意識が弱い。丸いものを見るとトイレだ
と思う。たとえばお風呂の丸い洗面器、洗たく機、中華鍋、丸いものを見るとト
イレだと思うのか、必ず尿をする。名前がマルセルなので「マル、マル、おま
る。まーるいところにおしっこだ」という歌を作ってやった。(家族には不吉だ
からやめてくれと言われた)。いまはいろいろな対策でほぼトラブルは封じている。

黒いプルーストはとても賢いネコ故にトラブルを起こしているようだ。家の外に
野良猫などが来ると、なわばりを意識して玄関のはじっこなど境界に尿をするの
だ。マルセルにくらべれば頻度も少ないのであまり被害はない。

いずれにせよ、こういうトイレトラブルをわが家では「尿場が乱れる」と呼んで
いる。(そう呼んでいるのは、あるいは僕だけかもしれない)。カミュとナツ
(茶族と言われている)はほとんどトラブルはない。第一世代のヤブとツチも茶
トラで尿場が乱れることはなかった。ネコを飼うなら茶族に限る。白黒はダメ
ね。そんな共通認識がわが家でも出来つつある。

いろいろ対策をしているので、日常的な被害はなくなった。それでもときどき尿
場が乱れる。なんとなく周期的な感じがする。周期的と言えば、月齢、潮の満ち
引きである。まだはっきりしていないが、満月や新月に尿場が乱れる傾向があり
そうだ。先日もマルセルがトイレにあるネコトイレの前の床の上を尿場にしてい
たし、プルーストは猛ダッシュで長男のベッドに駆け上がり速攻で尿場にした。

満月や新月には精神が高揚し凶悪犯罪が起こりやすいと聞く。(僕自身、満月に
はムダなものを買ったり、喧嘩っ早くなる)。オオカミ男とドラキュラの伝説も
そんな人間観察から出てきたのだろう。大潮の満ち引きを起こす力は、人体の水
分にも影響しているはずだ。精神的にも影響がないはずはない。ネコも(体の水
分がどれくらいか知らないけど)影響を受けているのだろう。人間の凶悪犯罪に
くらべれば、ネコの尿場乱れはたいしたことはないのかもしれない。いや、飼い
主にとってはかなり大変なことである。2月の満月や新月の尿場に注目だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする