とんびの視点

まとはづれなことばかり

50年ぶりの寒さか

2018年01月26日 | 雑文
早いもので1月も最後の金曜日になった。それにしても今週はとても寒い。東京では自分が生まれてから一番の寒さではないかと思っていたら、昨日の夕刊に「都心−4℃、48年ぶり」とあった。僕が2歳になるちょっと前だ。50年に一度の寒さということか。寒いわけだ。

月曜日の雪の影響はけっこう残っている。今日はわが家の左ななめ向かいの更地(数カ月前に家が取り壊された)に直立する水道管が破裂した。水が飛び散り、向かい家の自動車にジャバジャバかかり、慌てたお向かいさんは警察に駆け込んだそうだ。
所有者不明の土地の水道管の破裂なので、どこに連絡すればいいのか分からないのは理解できる。でも、警察に駆け込むというのがいかにも現代的だ。(区役所に電話してみることを思いつかなかったのだろうか?)若い警察官が2人やってきて、流れ出る水を見ながら困った顔をしていた。

結局、警察官が水道局に連絡を取り、ことは収まった。水道局の話では、ここ数日の寒さで水道管の破裂がかなり起っている。対処が大変だとのことだ。寒さで東京の水道管は破裂した。そのインフラの脆弱さを批判するのが正しいのか。50年ぶりの寒さに対応できるインフラを求めるのがぜいたくなのか。

ハード面を強化しすぎると、問題は防げるけどコストがかかる。それに人々が快適ボケするので、何かあったときのことを事前に想定して、一人一人が動けるようにしておいたほうが良い気がする。(津波対策と一緒。やたらとお金をかけて海がまったく見えなくなるような高い防潮堤を巡らすのは良くない。)

個人的な影響といえば、残った雪が固まったままの道路が危険で、3日間も早朝ランニングができなかったことだ。今年はランナー復活を目指しているので、ちょっとしたブレーキだ。

しかし、今日は久しぶりの家仕事だったので、昼に荒川の土手までランニングした。11キロ走るつもりだったが、あまりの北風の冷たさに6キロで帰ってきた。今月はこれで137キロ。順調に行けば自称ランナーの月150キロを超える。

ここまでだらだらと書いている。そういうつもりで書いているからべつに構わないけど。

さて、閑話休題。

器用貧乏なところがあるので、仕事ではいろんなことに関わる。このところ人事面での仕事に関わっている。採用面談に同席することも増えてきた。

採用担当者から聞いた話しだが、いまは応募者にどんなに問題があっても最低40分は面接をするそうだ。あまり淡泊な対応をすると、ネットに会社の悪口を書かれたりするからだ。(その後の採用活動に支障をきたす。)その担当者は、自分の名前で地方の量販店にクレームを入れられたらしい。行ったこともない地方の量販店から「謝罪」の電話がかかってきて、困惑したそうだ。

履歴書や職務経歴書にもとうぜん目を通す。これだけ就活が盛況なご時世だ、書類にはさまざまな実績がアピールされている。現場の問題点を見つけ、何年間も停滞していた現場を半年間で改善した、とか、つねに仲間とのコミュニケーションを心がけ半歩前のリーダーシップを発揮することで、チーム全体での業績アップを達成した、とか。

かつての履歴書には「長所・短所」という欄があったが、いまでは自分の短所をさらけ出すなど考えられないのだろう。自分の良いところをアピールすることが重要なのだ。(昔のヒーローは正体がばれたら最終回だったが、いまは初回から人前で変身する。一種のプレゼンテーションなのだろう。時代、いや価値の変化だ。)

書類をもとに面談をする。応募者は自分の経歴をしっかりと伝えようとする。だまそうという悪意はない。緊張しながら自分の良いところを一生懸命伝える。話しを聞く側も真剣に聞く(仕事だから当然だ)。でも、下手なことをネットに書かれてはまずいので、相手の話に矛盾や疑問があっても下手な突っ込みはしない。とくに相手に問題があるときほどそうだ。(相手に問題があるという言い方も、本当は問題だ。今の社会が求める姿と距離があるだけで、社会が求める姿が普遍的に正しいわけではない。)

表面上は何の問題もなく面談は進む。自分の一番良い部分を書類に書き、それをもとに自分を語り、相手からも丁寧に対応される。具体的なミスや欠点は実感できない。

それで、不採用となったとする。本人はかなり困るのではないか。自分のどこが問題であったのか、個別・具体的に抽出できない。一連のプロセスを振り返っても、とくに悪いところは見つけられない。でも、不採用だ。

そんなことが何度も繰り返されたとする。きっといろんなことがいやになっていくだろう。自分という人間そのものがダメなのではないか。そんな風に思ってしまうかもしれない。あるいは、自分をそんなふうに扱う世の中を憎み出すかもしれない。

応募者も採用側も前向きに取り組んでいる。だから問題は個人ではない。人々が前向きにがんばろうとしても、そういう「ゆがみ」が生じてしまうような、そんな雰囲気や仕組みが社会にあるのだろう。その中で立派な結果を出せる人もいる。結果を出せない人は相対的に努力が足りないこともあるかもしれない。でも、世知辛くゆがんでいる。

小学校でPTA会長をしているときに、何度も話した。今の時代、大人たちは一方で過酷な競争社会を無自覚に作りながら、一方で競争社会で負けないように自分の子どもをハイスペック化すること努力している。すこしぐらい不器用な子、機転の利かないこと、勉強ができない子でも、まじめに日々を過ごしていれば笑顔でいられる、そんな社会の方が子どもたちに良いのではないか。

大人も同じだ。過酷な競争社会で、自分をハイスペック化しないと生き残れないように感じられる。そのゲームに載らない訳にはいかない。そこに自分が加わることで、無自覚のうちにその構造を強化している。

ぐるぐる、ぐるぐる回っている。回りながら、問題の根をどんどん深くしていく。そのうち目が回って立っていられなくなり、破綻すると思う。でも破綻は解決ではない。頭も働かず、立っていることすらできない。そんな状態になるかもしれない。ひとりでも多く、ぐるぐる回っているところから、解き放たれ、抜け出さねば。

走っているときって、こんなことを何となく考えていたりする。だからとても心地よい。めざせランナー復活。
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情けは「人」のためならず、じゃあ「なに」のため

2018年01月20日 | 雑文
ある番組で「情け人のためならず」について、こんなことを言っていた。

情けは人のためならず、ということわざも誤解されていますね。本当は人に情けをかけるのは、相手の利益のためだけじゃない。回り回って自分にも戻ってくる。そういうことなんですよね。

これと同じような話しを、ちかごろ何回か耳にしている。いつも何かがひっかかる。ちょっと考えてみた。

「情けは人のためならず」。子どものころから何度も聞いている。下手に情けをかけるとかえって相手のためにならない。そういう情けは単なる自己満足になってしまう。だからそういうものは慎まねばならない。そんな意味で聞いていた。

誤解した内容かもしれない。でも、多くの人がそういう意味で聞いていた気がする。その意味でも、ことわざが機能していたからだろう。相手をきちんと見ない下手な情けは、鼻持ちならない自己満足になりかねないから、止めねばならない。その考え自体は正しいものだ。

しかし、下手に情けをかけないということが、どこかでべつの意味を持つようになった。人に情けをかけないことを許す免罪符のようなはたらきだ。たとえば、困っている人が目の前にいる。何かしなくてはならない気がする。ちょっとした罪悪感。でも少し恥ずかしいし、自分の持ち出しになる。それはいやだ、どうしよう。そういえば、情けは人のためならず、ということわざもある。面倒なことに関わるのは止めておこう。そんな感じだ。

困っている人がいても手を差し伸べない。誰もがそうなったら、世知辛い世の中になるし、そういう共同体は長続きしない。そこで冒頭ような言葉が出てくるようになったのだろう。困った人がいたら、見ぬ振りをせず、もう少し情けをかけようと。

異論はない。でも、その「情け」を促すための根拠が「回り回って自分に利益が戻ってくる」という言葉であることが引っかかる。この言葉は、損得勘定をベースにした当事者間の利益分配のスキーム(つまり経済)に、簡単に吸収されてしまうからだ。

たとえば、困っている人に情けをかける。最初は相手の利益になるかもしれない。でも、時間をかけてやがて自分にも利益が戻ってくる。なんだか投資の話しのようにも聞こえる。あるいは、情けをかけることは、相手の利益だけじゃなく、自分の利益にもなる。どちらも得をする。ウィンウィンの関係だ。ポイントは、このスキームから自己利益の確保は外せないことだ。

困っている他者が、自己利益の確保のための存在となる。他者は自己の手段として存在する。「回り回って自分に戻ってくる」という言葉でことわざの誤解を解こうとしても、結局もとの場所に戻ってしまう。ちがった形で誤解をとかないといけないのだろう。

「情けは人のためならず」。こんなふうに読んでみる。

困っている人に情けをかけるということは、情けをかける「あなた」や、かけられる「私」という「人」の話しではない。そして「ため」という言葉は、損得で計算できる目に見える利益の「ため」ではなく、それがないと人々が生きる基盤が成り立たないような目に見えない大切なものを維持する「ため」なのだ。

たしかに、「情けをかける」というのは個別の出来事としてしか起らない。それは、困っている人に誰かが手を差し伸べるという行為としていつも起る。その意味では、人と人の間で起ることだ。ただ、そのことを「私とあなたのあいだの損得の話し」に閉じこめてはいけない。「情け」とは、私とあなたをこえたみんなや社会を支える、目に見えない基盤をよいものにするためにある。

「情けは人のためならず」。こんなふうに読むのはどうだろう。
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『オレがマリオ』を読む

2018年01月12日 | 雑文
今朝のランニング。土手はとても寒かった。この冬いちばんの冷え込みだ。水道が凍っていて蛇口が回らない。刺さるような風が頬にしみ込む。空は真っ青。

『オレがマリオ』という俵万智の歌集を読んだ。歌集などめったに読まない。いや、まったく読まない。年末、新聞か雑誌でこの本のことをたまたま目にし、読んでみようと思った。(そういえば、大学生のころ『サラダ記念日』がベストセラーになり、買って読んだ。30年くらい前の話だ。)

短歌は門外漢だから、善し悪しはわからない。でも、歌集を1冊読めば、それなりに感じることもある。少ない言葉をリズムに乗せて何かを伝える、その形式が心地よい。

こんな歌があった。読んで、「嗚呼」と思い出した。

振り向かぬ子を見送れり振り向いたときに振る手を用意しながら

子どもが保育園のうちは、送り迎えをした。そして小学校に入ると、一人で学校に行くことになる。朝、玄関で「じゃあ、いってらっしゃい」と言う。手を振りながら「いってきます」と歩き出す。少し進んで、不安そうな顔で振り返り、そして安心そうな顔をする。もういちど手を振る。おたがいに。

振り向きもせず、まっすぐに歩いていってしまう。いつかそんな日が来るのだろう。振り返る子どもを見ながら、いつもそう思っていた。そう考えると、少し寂しい気がした。でもそれは良いことだし、必要なことなのだ、とも思った。

いつのことだったかは覚えていない。でも、子どもが振り返らずに行ってしまった日の光景は覚えている。「行ってきます」と手を振りながら元気に歩き出し、そのまま、そのまま、まっすぐ廊下を歩いていってしまった。いつ、振り返るのだろう、いつ、振り返るのだろう、そう思いながら見ていたのだ。

そんなことを思い出した。

子どもが振り返らなくなってからも、毎朝、できる限り玄関で見送るようにしていた。そして「いってらっしゃい」と声を掛けた。子どもが中学生になり、無言で出て行くようになってからも。こんな思いで。

振り向かぬ子を見送れり死なないで帰ってきてと祈りながら
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今年はランナー復活だ

2018年01月05日 | 走ること
この正月休みは走ることを中心に過ごしている。11日間と長めの休みが取れたし、喪中でほとんど外出もしない。よい機会なので集中的に走ることにした。最低100kmを休み中の目標にした。

12月29日から今日まで、1月2日以外は毎日走っている。1回の距離は11.5km。自宅から荒川の土手まで行き、土手を上流に向い、岩淵水門で折り返し、同じコースを家まで戻る。以前、フルマラソンにコンスタントに参加していたときの標準コースだ。
考え事や仕事の合間、昼休みなどに、1時間くらい時間が取れると、気分転換によく軽く走っていた。夏の暑さや冬の北風を別にすれば、とくに疲れる距離ではない。かえって頭もクリアになり、体もリフレッシュできた。

そういう感覚だけは残っている。しかし、現実はひどいものだ。以前に比べて、腰の痛みがあり、体重が4kgほど多くなっている。体力的にも落ちている。毎朝、3km程度のジョギングはしているが焼け石に水だ。厳しい、苦しいランニングが続いている。

いや、ランニングと言えない。そう言えるようになったのは、昨日くらいからだ。それまではドタバタした醜いジョギングだ。初日などは90分くらいかかった。午前中に走ったが、家に帰ると疲れでぐったり。午後は何もできず、昼寝をする始末だ。おまけに筋肉痛にもなった。走ることで1日が終った。

少しずつ慣れてはきたが、12月30日も31日も同じようなものだ。おかげで年末の大掃除はほとんどできなかった。走って、フロに入って、開き直ってビールを飲んで、いい気分で1日を過ごす。そんな感じで年を越した。(ちなみに去年の走行距離は1132km。少ない!)

年明けも同じような感じだ。走力は戻ってきたが、ヒザに痛みが出てきた。結局、ジョギングに毛が生えたような走りだ。それでも、自分がランナーだったときの感覚が少しずつ戻ってくるのは心地よい。

体が自然とスピードを上げていたり、自分が走っていることにふと気付いたりする、「あの感覚」はランニングの醍醐味だ。冬の芝生の乾いた色や、冬の荒川の水の色(夏に比べて黒に近い深い青だ。そして川面は太陽が反射した銀色だ)、風のないときの太陽の光の暖かさ。あるいは、無慈悲に体力を削り取っていく暴力的な北風。

何年も前に土手ですれ違っていたランナーたちとすれ違う。すごくゆっくりのペースで20〜30km走っている男性のランナー。リズムに乗った黒人のような体の揺らせ方をして走る若い女性ランナー。姿を見て、懐かしく思う。彼らはずっと走っていたのだ。こうして走らなければ、彼らのことを思い出すことなどなかっただろう。

今日までで80.5km走った。休みはあと3日。100kmの目標は達成できるだろう。不思議なことに、腰痛はとくに悪化しない。それどころか、少し調子が良いくらいだ。この休みで何とかランニングの感覚を取り戻し、今年はランナーとして復活してみよう。そうだな。今年は1500km走ろう。

とりあえず、今年の目標がひとつ決まった。よい1年でありますように。
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