早いもので1月も最後の金曜日になった。それにしても今週はとても寒い。東京では自分が生まれてから一番の寒さではないかと思っていたら、昨日の夕刊に「都心−4℃、48年ぶり」とあった。僕が2歳になるちょっと前だ。50年に一度の寒さということか。寒いわけだ。
月曜日の雪の影響はけっこう残っている。今日はわが家の左ななめ向かいの更地(数カ月前に家が取り壊された)に直立する水道管が破裂した。水が飛び散り、向かい家の自動車にジャバジャバかかり、慌てたお向かいさんは警察に駆け込んだそうだ。
所有者不明の土地の水道管の破裂なので、どこに連絡すればいいのか分からないのは理解できる。でも、警察に駆け込むというのがいかにも現代的だ。(区役所に電話してみることを思いつかなかったのだろうか?)若い警察官が2人やってきて、流れ出る水を見ながら困った顔をしていた。
結局、警察官が水道局に連絡を取り、ことは収まった。水道局の話では、ここ数日の寒さで水道管の破裂がかなり起っている。対処が大変だとのことだ。寒さで東京の水道管は破裂した。そのインフラの脆弱さを批判するのが正しいのか。50年ぶりの寒さに対応できるインフラを求めるのがぜいたくなのか。
ハード面を強化しすぎると、問題は防げるけどコストがかかる。それに人々が快適ボケするので、何かあったときのことを事前に想定して、一人一人が動けるようにしておいたほうが良い気がする。(津波対策と一緒。やたらとお金をかけて海がまったく見えなくなるような高い防潮堤を巡らすのは良くない。)
個人的な影響といえば、残った雪が固まったままの道路が危険で、3日間も早朝ランニングができなかったことだ。今年はランナー復活を目指しているので、ちょっとしたブレーキだ。
しかし、今日は久しぶりの家仕事だったので、昼に荒川の土手までランニングした。11キロ走るつもりだったが、あまりの北風の冷たさに6キロで帰ってきた。今月はこれで137キロ。順調に行けば自称ランナーの月150キロを超える。
ここまでだらだらと書いている。そういうつもりで書いているからべつに構わないけど。
さて、閑話休題。
器用貧乏なところがあるので、仕事ではいろんなことに関わる。このところ人事面での仕事に関わっている。採用面談に同席することも増えてきた。
採用担当者から聞いた話しだが、いまは応募者にどんなに問題があっても最低40分は面接をするそうだ。あまり淡泊な対応をすると、ネットに会社の悪口を書かれたりするからだ。(その後の採用活動に支障をきたす。)その担当者は、自分の名前で地方の量販店にクレームを入れられたらしい。行ったこともない地方の量販店から「謝罪」の電話がかかってきて、困惑したそうだ。
履歴書や職務経歴書にもとうぜん目を通す。これだけ就活が盛況なご時世だ、書類にはさまざまな実績がアピールされている。現場の問題点を見つけ、何年間も停滞していた現場を半年間で改善した、とか、つねに仲間とのコミュニケーションを心がけ半歩前のリーダーシップを発揮することで、チーム全体での業績アップを達成した、とか。
かつての履歴書には「長所・短所」という欄があったが、いまでは自分の短所をさらけ出すなど考えられないのだろう。自分の良いところをアピールすることが重要なのだ。(昔のヒーローは正体がばれたら最終回だったが、いまは初回から人前で変身する。一種のプレゼンテーションなのだろう。時代、いや価値の変化だ。)
書類をもとに面談をする。応募者は自分の経歴をしっかりと伝えようとする。だまそうという悪意はない。緊張しながら自分の良いところを一生懸命伝える。話しを聞く側も真剣に聞く(仕事だから当然だ)。でも、下手なことをネットに書かれてはまずいので、相手の話に矛盾や疑問があっても下手な突っ込みはしない。とくに相手に問題があるときほどそうだ。(相手に問題があるという言い方も、本当は問題だ。今の社会が求める姿と距離があるだけで、社会が求める姿が普遍的に正しいわけではない。)
表面上は何の問題もなく面談は進む。自分の一番良い部分を書類に書き、それをもとに自分を語り、相手からも丁寧に対応される。具体的なミスや欠点は実感できない。
それで、不採用となったとする。本人はかなり困るのではないか。自分のどこが問題であったのか、個別・具体的に抽出できない。一連のプロセスを振り返っても、とくに悪いところは見つけられない。でも、不採用だ。
そんなことが何度も繰り返されたとする。きっといろんなことがいやになっていくだろう。自分という人間そのものがダメなのではないか。そんな風に思ってしまうかもしれない。あるいは、自分をそんなふうに扱う世の中を憎み出すかもしれない。
応募者も採用側も前向きに取り組んでいる。だから問題は個人ではない。人々が前向きにがんばろうとしても、そういう「ゆがみ」が生じてしまうような、そんな雰囲気や仕組みが社会にあるのだろう。その中で立派な結果を出せる人もいる。結果を出せない人は相対的に努力が足りないこともあるかもしれない。でも、世知辛くゆがんでいる。
小学校でPTA会長をしているときに、何度も話した。今の時代、大人たちは一方で過酷な競争社会を無自覚に作りながら、一方で競争社会で負けないように自分の子どもをハイスペック化すること努力している。すこしぐらい不器用な子、機転の利かないこと、勉強ができない子でも、まじめに日々を過ごしていれば笑顔でいられる、そんな社会の方が子どもたちに良いのではないか。
大人も同じだ。過酷な競争社会で、自分をハイスペック化しないと生き残れないように感じられる。そのゲームに載らない訳にはいかない。そこに自分が加わることで、無自覚のうちにその構造を強化している。
ぐるぐる、ぐるぐる回っている。回りながら、問題の根をどんどん深くしていく。そのうち目が回って立っていられなくなり、破綻すると思う。でも破綻は解決ではない。頭も働かず、立っていることすらできない。そんな状態になるかもしれない。ひとりでも多く、ぐるぐる回っているところから、解き放たれ、抜け出さねば。
走っているときって、こんなことを何となく考えていたりする。だからとても心地よい。めざせランナー復活。
月曜日の雪の影響はけっこう残っている。今日はわが家の左ななめ向かいの更地(数カ月前に家が取り壊された)に直立する水道管が破裂した。水が飛び散り、向かい家の自動車にジャバジャバかかり、慌てたお向かいさんは警察に駆け込んだそうだ。
所有者不明の土地の水道管の破裂なので、どこに連絡すればいいのか分からないのは理解できる。でも、警察に駆け込むというのがいかにも現代的だ。(区役所に電話してみることを思いつかなかったのだろうか?)若い警察官が2人やってきて、流れ出る水を見ながら困った顔をしていた。
結局、警察官が水道局に連絡を取り、ことは収まった。水道局の話では、ここ数日の寒さで水道管の破裂がかなり起っている。対処が大変だとのことだ。寒さで東京の水道管は破裂した。そのインフラの脆弱さを批判するのが正しいのか。50年ぶりの寒さに対応できるインフラを求めるのがぜいたくなのか。
ハード面を強化しすぎると、問題は防げるけどコストがかかる。それに人々が快適ボケするので、何かあったときのことを事前に想定して、一人一人が動けるようにしておいたほうが良い気がする。(津波対策と一緒。やたらとお金をかけて海がまったく見えなくなるような高い防潮堤を巡らすのは良くない。)
個人的な影響といえば、残った雪が固まったままの道路が危険で、3日間も早朝ランニングができなかったことだ。今年はランナー復活を目指しているので、ちょっとしたブレーキだ。
しかし、今日は久しぶりの家仕事だったので、昼に荒川の土手までランニングした。11キロ走るつもりだったが、あまりの北風の冷たさに6キロで帰ってきた。今月はこれで137キロ。順調に行けば自称ランナーの月150キロを超える。
ここまでだらだらと書いている。そういうつもりで書いているからべつに構わないけど。
さて、閑話休題。
器用貧乏なところがあるので、仕事ではいろんなことに関わる。このところ人事面での仕事に関わっている。採用面談に同席することも増えてきた。
採用担当者から聞いた話しだが、いまは応募者にどんなに問題があっても最低40分は面接をするそうだ。あまり淡泊な対応をすると、ネットに会社の悪口を書かれたりするからだ。(その後の採用活動に支障をきたす。)その担当者は、自分の名前で地方の量販店にクレームを入れられたらしい。行ったこともない地方の量販店から「謝罪」の電話がかかってきて、困惑したそうだ。
履歴書や職務経歴書にもとうぜん目を通す。これだけ就活が盛況なご時世だ、書類にはさまざまな実績がアピールされている。現場の問題点を見つけ、何年間も停滞していた現場を半年間で改善した、とか、つねに仲間とのコミュニケーションを心がけ半歩前のリーダーシップを発揮することで、チーム全体での業績アップを達成した、とか。
かつての履歴書には「長所・短所」という欄があったが、いまでは自分の短所をさらけ出すなど考えられないのだろう。自分の良いところをアピールすることが重要なのだ。(昔のヒーローは正体がばれたら最終回だったが、いまは初回から人前で変身する。一種のプレゼンテーションなのだろう。時代、いや価値の変化だ。)
書類をもとに面談をする。応募者は自分の経歴をしっかりと伝えようとする。だまそうという悪意はない。緊張しながら自分の良いところを一生懸命伝える。話しを聞く側も真剣に聞く(仕事だから当然だ)。でも、下手なことをネットに書かれてはまずいので、相手の話に矛盾や疑問があっても下手な突っ込みはしない。とくに相手に問題があるときほどそうだ。(相手に問題があるという言い方も、本当は問題だ。今の社会が求める姿と距離があるだけで、社会が求める姿が普遍的に正しいわけではない。)
表面上は何の問題もなく面談は進む。自分の一番良い部分を書類に書き、それをもとに自分を語り、相手からも丁寧に対応される。具体的なミスや欠点は実感できない。
それで、不採用となったとする。本人はかなり困るのではないか。自分のどこが問題であったのか、個別・具体的に抽出できない。一連のプロセスを振り返っても、とくに悪いところは見つけられない。でも、不採用だ。
そんなことが何度も繰り返されたとする。きっといろんなことがいやになっていくだろう。自分という人間そのものがダメなのではないか。そんな風に思ってしまうかもしれない。あるいは、自分をそんなふうに扱う世の中を憎み出すかもしれない。
応募者も採用側も前向きに取り組んでいる。だから問題は個人ではない。人々が前向きにがんばろうとしても、そういう「ゆがみ」が生じてしまうような、そんな雰囲気や仕組みが社会にあるのだろう。その中で立派な結果を出せる人もいる。結果を出せない人は相対的に努力が足りないこともあるかもしれない。でも、世知辛くゆがんでいる。
小学校でPTA会長をしているときに、何度も話した。今の時代、大人たちは一方で過酷な競争社会を無自覚に作りながら、一方で競争社会で負けないように自分の子どもをハイスペック化すること努力している。すこしぐらい不器用な子、機転の利かないこと、勉強ができない子でも、まじめに日々を過ごしていれば笑顔でいられる、そんな社会の方が子どもたちに良いのではないか。
大人も同じだ。過酷な競争社会で、自分をハイスペック化しないと生き残れないように感じられる。そのゲームに載らない訳にはいかない。そこに自分が加わることで、無自覚のうちにその構造を強化している。
ぐるぐる、ぐるぐる回っている。回りながら、問題の根をどんどん深くしていく。そのうち目が回って立っていられなくなり、破綻すると思う。でも破綻は解決ではない。頭も働かず、立っていることすらできない。そんな状態になるかもしれない。ひとりでも多く、ぐるぐる回っているところから、解き放たれ、抜け出さねば。
走っているときって、こんなことを何となく考えていたりする。だからとても心地よい。めざせランナー復活。