とんびの視点

まとはづれなことばかり

2023年06月18日(日)

2023年06月18日 | 雑文
昨日、今日と朝の4時に目覚める。
梅雨に入ったのに晴れ。
きっと心地よい日の出が見れるのだろう、眠さ半分の頭にそんな言葉が浮かび、眠れなくなる。
そして、土手に向けてゆっくりと走り出す。
体が完全には目覚めていないようで、ぎくしゃくとした動きだ。
電車が動く前の時間、その上、日曜日。
街を歩く人もほとんどいない。
隅田川沿いに近づくにつれ、散歩やランニングの人たちがちらほら。
朝日が静かな川面に映る。鳥たちが鳴きながら空を横切る。
土手を走り、しばしベンチに座り、ぼーっとする。
わずかな風に不規則に揺れる一本一本の草が見えてくる。
鳥のさえずり、ウシガエルの鳴き声、遠くの首都高のアスファルトを走るタイヤの音、そういう音が聞こえてくる。
太陽の力が増し、熱が皮膚に入り込んでくるのを感じる。
草の匂いが鼻から体全体に広がっていく。
ぼーっと、自分を空っぽにすることで、いろんなもので自分が満たされていく。
満ちたところで、さて、と立ち上がり、家に向かって再び走り始める。






父のこと(1)

2022年08月14日 | 雑文
父のことを書こうと思い、1時間ばかりいろいろやったのだが、うまく書けなかった。
今日は、最低限のことだけ書いておく。
父は28年前に亡くなった。54歳で。2年間ほど中皮腫を患った末に。
そして、私も父と同じ年になった。とりあえず健康だが先のことはわからない。(父も病気が見つかったときには、治らないことははっきりしていた。)
亡くなったときに、父のことをあまり見ていなかったことに気付いた。いつも目の前にいたのに。
それから、時々、父のことを考えるようになった。自分が子どもをもってからはとくに。ああ、父はこんな風に自分を見ていたのかもしれない、と。
父は8歳の時に両親を亡くしている。5歳で父、8歳で母を。その後、埼玉の奥の方で親戚中をたらい回しにされ、中学卒業とともに東京の下町に出てくる。自分の意思ではない。遠い親戚の椅子職人に預けられるようにして。帰る場所もなく、鞄1つで。どんな気持ちだったのだろう。
その後、母と出会い、結婚。職人として独立し、何とか生活を確立する。自宅を借金で建て、子どもを2人育て、借金を返済し終わり、やっと一段落、というところで病気になり2年後に亡くなる。
どんな人生だったのだろう。父の両親は学校の教師だったと聞く。結核で亡くなっていなければ、父が椅子職人になることはなかっただろう。もちろん、私もこの世界には存在していない。
両親が結核で亡くなったことが、父が椅子職人になったこと、そして私が存在していることに、つながっている。不思議で、暴力的なものだ世界とは。(でも、父は優しい人だった)
父からは過去の話をあまり聞いていない。記憶も断片的になっている。書くことで、少しずつ思い出してくることがあるかもしれない。あるいは、父の過去を勝手に作ってしまうことになるかもしれない。
たぶん、私は父と話をしたいのだと思う。話を聞きたいのだと思う。聞けないから、父のことを書いてみようと思っている。この瞬間にも、父の笑顔が私の中にはある。

オリンピック終わってた

2021年08月11日 | 雑文
オリンピックが終わっていた(という感じだ)。
結局、最初のころ、バレー部の息子たちと男子バレーを2試合ほど見ただけだ。
もともとテレビをほとんど見ない。街にも外国人や国内観戦者もいない。新聞も7月いっぱいでやめた。
オリンピックをやっているという事実は認識しているが、実際の出来事はほとんど知らないままだった。

ステイホームで、さまざまな競技をテレビで見た人のオリンピックと、私のオリンピックはかなり違う。
にもかかわらず、どちらも「それ」を「オリンピック」と同じ言葉で指し示す。
言葉が同じでも、それが指し示す意味は人によりけり。
そんな人たちが「オリンピック」という言葉で「オリンピック」を語る。
いろんな意見が出てくるのも当然だろう。

「オリンピック」への自分の意見は、自分の見ている「オリンピック」についての意見。
「オリンピック」へのあなたの意見は、あなたの見ている「オリンピック」についての意見。
「オリンピック」への賛否や意見を尋ねる前に、確認しなければならないことがある。
「あなたにとってのオリンピックとは何ですか?」と。

異なる意見が出てくるのが当然だろう。
その異なりを親和的にやり取りできるのが、よいコミュニケーションなのだろう。
誰かが「成功」「失敗」を決めて、異なる意見を許さないのは恐いことだ。

大人は和して同ぜず、小人は同じて和せず、って、論語だった気がする。

真夜中に『〈責任〉の生成〜中動態と当事者研究』を読む

2021年05月07日 | 雑文
昨夜は11時前に眠りについた。ところが12時半過ぎに目が覚めて、眠れなくなった。1時すぎても眠れないので、酒を飲みながら本を読むことにした。國分功一郎氏と熊谷晋一郎氏の対談『〈責任〉の生成〜中動態と当事者研究』だ。すでに2回ほど読み、付箋が山のように着いている。付箋の部分をノートに書き写し、ゆっくりと考える。そして眠気を待つ。眠気が訪れたのは3時すぎ。お酒もけっこう進んだ。5時すぎに起きるのは無理だろう。

7時すぎに目覚める。あまり心地よい目覚めではない。お酒も少し体に残っている。それでも支度をして、5キロほどジョギングをする。土手の力で少しまともになる。簡単に猫の毛を掃除し、シャワーを浴び、自宅で仕事をする。

昼前に義母のケア施設に行く。コロナの影響で面会は一週間に一度、15分ほどだ。この制限は認知症にとっては厳しい。最初から話しがかみ合って弾むことはない。場合によっては、最初から最後までぎこちないやり取りで終わることもある。上手くいけば、言葉だけでなく気持ちのやり取りも出来る時間が10分くらい続く。今日は、ちかごろ始めた「ぬか漬け」を話題にした。私が「浅漬け」は「朝漬け」であり、朝しか食べられないものだと思っていたと言うと、義母は楽しそうな声で、「あっさり」漬けているから「あさづけ」よと答えた。上手く話しが繋がった日だった。

夕方、天気が崩れてきた辺りから、軽い頭痛を感じるようになった。このところ、天候や気圧の変化に体調が引きずられることが多い。あまり頭を使わずにすむ仕事を機械的にこなす。

今日の新聞の一面トップは「31日まで宣言延長へ」だ。東京などの緊急事態宣言のことだ。スポーツ面には「小野初の五輪代表」。そして社会面には「コロナ対応悲痛な叫び 立川の病院、窓に張り紙」とある。写真に写った窓には「医療は限界、五輪はやめて!」の張り紙。社会がバラバラな感じがする。

何でも良いから、文字を書こうとしている。直観的にそうした方が良いと感じている。そしてかなり頑張らないとすぐに止めてしまうことも見えている。こういう時は、内容は二の次だ。手を動かし続けることだ。「考えてはダメだ。脚が止まってしまう。踊るんだ。」『ダンス・ダンス・ダンス』に羊男のそんなセリフがあった。書いているうちに、書くこともいずれ見えてくるだろう。

外は雨が降っているようだ。雨音は聞こえないが、時おり屋根から落ちる雨垂れの音が、空いた窓から聞こえてくる。明日は土曜日だが早起きをしよう。そして少し長めに土手を走ろう。夜中に目が覚めることなく、ぐっすり眠れますように。

典型的で平凡な平日

2021年05月06日 | 雑文
今朝も5時すぎに起きる。実際には4時すぎに目が覚め、うとうとしていたので、4時すぎには起きていたというべきかも知れない。コロナ以降、少し睡眠が狂っている。軽いうつ状態なのかも知れない。細かい雨が降っていて、隣の家の屋根が薄く濡れている。あと1時間もすれば、雨は止むだろう。

ベッドから出て、クイックルワイパーで家の中の猫の毛を集める。少し雑巾掛けをする。そして猫のトイレを掃除する。(猫のトイレは5つある。)そして、仏壇に線香を上げる。毎朝、仏壇に手を合わせるようになったのもコロナ以降のことだ。(すでに死んでしまった人、いま死につつある人、いずれ死ぬ人に思いをはせる。)

ロフトで30分ほど「教行信証」を読む。これまでしっかり読んでいなかった「方便化身土巻」をゆっくり読む。化身土巻の世界を、現実の世界と重ねるように読み込む。窓の外では鳥たちが鳴き始めた。雨も止んだようだ。ジョギングの支度をする。

土手まで15分、土手を8分、土手から12分くらいジョギングする。距離にして5kmちょっと。土手への行き帰りはPodcastを聞きながら走る。荻上チキのセッションを聞くようにしている。土手の8分間は、土手の音に耳を澄ます。風の音や鳥の鳴き声や、自分の足音などだ。空は白く曇り、地面は雨で濡れている。草には水滴がいくつも光っている。空気は少しひんやりとして湿っている。遠くまで見通せる。何となく心が広くなる。

家に帰り、筋トレとストレッチ。シャワーを浴び、朝食を取り、時間まで本(いつもなら新聞)を読み、仕事に行く。

1日仕事をする。昼食は食べないので、ほとんど休みは取らない。(あまり良くない)頭を使い続けて、動きが鈍くなるのが19時前だ。切り上げる。

家に帰る。夕食を取り、風呂に入って、9時すぎだ。本を読んだり、録画したテレビを2倍速で見たりすると、ほぼエネルギー切れの状態だ。(本当はもう一頑張りしたいところだ。今日はこれを書いている。)

だいたい、そんな感じの平日を送っている。

もう少し、何かやらねばという気もするが、こんなものだろうという気もする。自分なりにやっている気もするが、何処かに行きつけそうな感じもしない。明日は金曜日で平日だ。テレワークだが、基本的にはあまり変わらない1日になる。通勤時間がないぶん、義母の介護施設に面会に行くことができる。

「こどもの日」

2021年05月05日 | 雑文
5月5日。ゴールデンウィークの最終日だ。(人によってはあと4日ほど続くのかも知れない。)朝から湿った風と曇り空、そして夕方前には少し雨がぱらつく。

今朝は5キロほどジョギング。荒川の土手まで行き、土手を少し走り、戻ってくる。ゆっくりと走るので35分くらいかかる。なるべく土手まで行くことにしている。空が開け、川が流れ、わずかだが芝や草や木々の緑を見ることが出来るからだ。コロナによるのっぺりとした日々。土手の変化を見ることで、心の安定が保てている部分もあるのだろう。

今日の新聞に「連休中の人出、昨年より増加」という記事が出ていた。「人出?」、そう言えば昨日のラジオでも「人出」と言っていた。「人流」はどこに行ったのだ?今回の緊急事態宣言に際して、我々の最大の敵は「人流」だったはずだ。

「東京アラート」「オーバーシュート」「三密」「不要不急」耳慣れない言葉がどんどん出てきた。キャッチーな言葉で注目を集めるつもりかも知れないが、かえって焦点がぼやけて、実態がつかめなくなる。「人流」と聞いたとき「古屋の守り」が頭に浮かんだ。また変な言葉を作りだしたものだ。そう思ったら、いつの間にか「人出」に変わっていた。

今日はこどもの日だ。我が家は長男が大学三年、次男が高校二年になった。「子育て」という意味では、もう、出来ることはあまりない。やり損ねたこと、やり残したことはたくさんある。とはいえ、どちらも私よりは「ちゃんとした」人間に育っている。ありがたい限りだ。

『武漢日記』を読んでいる。図書館から借りだしたものだ。何十人も予約が入っていて、忘れたころに連絡が来た。コロナで封鎖下の武漢で、方方という人が日記を書いていたこと、多くの人たちが日記の更新を待っていたこと、時に当局から削除されていたことなどは知っていた。

日記を書いている方方という人だが、30代くらいの人だと思い込んでいた。実際は60代半ばの女性だった。思い込みとは恐ろしいものだ。本を手に取り、事実を知るまで、自分が方方を30代だと思い込んでいることに私は気づけなかった。本を読まなければ、方方が30代というのは、私にとって事実となっていた。

そういう事実が私の中にはいろいろあるに違いない。あるいはそういう事実がほとんどなのかも知れない。ても、みんな似たようなもので、そんな私たちが同じ時空に処しているのが社会なのかも知れない。

サブタイトルには「封鎖下60日の魂の記録」とある。60日の都市封鎖はきつかったに違いない。60日というのは予定された日数ではなく、結果である。治療法も確立されていない中、先の見えない状態で、封鎖された日々が続いた。しかし、それは60日で終わった。

連休中の人出が昨年よりも増加した、という記事があった。昨年のゴールデンウィークも緊急事態宣言だった。一年経って、振り出しに戻ったような感じだ。コロナ以降、時間がのっぺりとして、少し居心地が悪い。(だから走って土手に行き、季節の変化を確認するのだろう。)

去年、オリンピックが予定されていた。「東京2020オリンピック」とか言っていた。コロナで中止になり、今年の夏に延期された。やはり「東京2020オリンピック」というらしい。「人出」を「人流」と言い換え、実態をぼやけさせる。2021年なのに「2020」と言う。言葉と実態がズレている。(言葉と実態がズレると、それを調整しようと「出来事」が暴れる。)

自分が子育てを始めたとき、将来の社会に漠然と思いをはせたものだ。それほどひどい社会ではないだろうと思った。まじめに額に汗していれば、笑顔で過ごせる。それくらいの社会ではあるだろうと思っていた。

実際、どうなのだろう。コロナ的な社会になって一年以上が過ぎた。そして日常化している。緊急事態宣言には緊張感がなく、それでも人々は当たり前のようにマスクをしていて、「東京2020」などと聖火リレーをしている。飲食店はひどい打撃だ。

長男は去年は一度も大学に行けず、今年も予定されていた対面授業がリモートになる。次男も部活がほとんど出来ずに高校生活の2年目だ。

今日は「こどもの日」。似たように日々を過ごしている子どもたちはたくさんいるはずだ。子どもたちにどんな社会を用意するか、それは大人の責任だ。しっかりせねば、と思う。

震災から10年

2021年03月11日 | 雑文
震災から10年がたった。
東京にいたので、直接的には大した被害はなかった。
(食器棚からいろんなものが落ちて割れたり、レンジの扉がおかしくなったりした程度だ)
でも、いろんなものが大きく変わってしまった。

夜、気仙沼が燃えている映像をテレビで見たとき、ああ、世界は変わってしまったと感じた。
翌朝、津波でなくなった人たちの数が、千人単位で増えていくのを見て、がく然とした。
(記憶では、若林地区で千七百人くらいの被害者が‥‥、という内容だ。)

そして、原発が爆発した。
廃炉には40年かかると言っているテレビを、10歳の長男と見ていた。
この子が50歳なのか、私たち大人はとんでもないことをしてしまった、とがく然とした。
私たち大人は、子どもたちに責められても仕方がない存在になった。
同じようなことを二度と繰り返してはいけない、そう思った。

震災前は、頻繁にブログを書いていた。
自分なりにいろいろ考えて、言葉にしていたつもりだった。
でも、震災を経て、自分の言葉が軽いもののように感じられ、書かなくなった。

書かない代わりに、原発について本を読んだり、抗議行動に足を運んだりした。
日本国憲法も何度も何度も読み直した。
社会や政治に関する知識もたくさん身に付けた。
(頼まれたので)小学校のPTA会長もやった。(がらにもなく)

書かないけれど、震災以前より、頭の中では言葉はあふれていた。

震災から10年がたった。
はたして、この社会はより良くなったのだろうか?
子どもたちに「この社会で、生きるのっていいぞ」と言えるだろうか?

残念だが、そう言える自信はない。

本当は書き続けなければいけなかったのかも知れない。
書くことで、自分の言葉の軽さが現実に届かないことを実感する。
そんなことを繰り返すべきだったのかも知れない。

ふと、そんなことを思った。

腰の曲がった年寄り

2020年08月07日 | 雑文
梅雨が明け、暑い日が続く。いつものことだが、夏になると長い距離が走れなくなる。無理をすれば走れるが、仕事に影響が出る。早朝、20分くらい軽く走るだけだが、汗が吹き出る。体のリセットにはなるが、メンタル的には物足りない。長い時間を走った時の瞑想っぽい感じがない。ちょっと残念だが、しばらくは仕方がない。

川上弘美のエッセイ集『ゆっくりとさよならをとなえる』を読了。この人の言葉は好きだ。

腰の曲がった老人を見た。1週間くらい前のことだ。すごく腰の曲がったおじいさんで、夏の朝の歩道をゆっくりと歩いていた。腰の曲がった老人を見たのは久しぶりだった。子どもころ、周りには腰の曲がった老人がたくさんいた。もう四十年以上も前の話だ。多くの年寄り(そう「年寄り」と呼んでいた)は、多かれ少なかれ腰が曲がっていた。時おり、すごく腰が曲がった年寄りもいた。年を取るにしたがって、人は自然と腰が曲がっていくものだ。言葉にすることもなく、そう思っていた。

実際には、腰の曲がっていない年寄りもいっぱいいたのだろう。しかし、人間というのは、自分の思い込みを世界に見るものだ。年寄りは腰が曲がっていると思っている人間には、腰の曲がった年寄りしか目に映らない。(いま、私の目にはいったい何が映っているのだろう?)

多くの年寄りの腰が曲がっていたのは、人生の長い時間をかけ、そのような姿勢を取ることが多かったからだろう。家事や日常の仕事の多くは、前かがみになることが多い。前かがみの姿勢の方が機能するのであれば、私たちの体はそのように変化する。すごく腰が曲がっていた年寄りは、おそらく農業を営んでいたのだろう。機械化される前の農作業、長い時間、土や稲や野菜に向き合うために、腰をかがめていたに違いない。

私たちは近代的な主客二分を前提とした対象操作的な世界観を埋め込まれている。理性を持った私がこちらにいて、対象は向こう側にいる。私は対象を正確に把握して、それを操作することで、何らかの目的を達成する。私は変わることなく、相手を変えることで何かを達成しようとする。そういうやり方だ。(変わることのない「本当の自分」みたいなものもここから出てくるのかも知れない。)

しかし、実際に何かを行うときには、自分自身も対象に合わせ変化させていることがけっこう多い。子どもと話すためにしゃがんで目を合わせる。耳の悪い人のために大きな声で話しかける。相手の機嫌を取るために作り笑いをする。目的のために相手を操作するのではない。自分が状況に合わせているのだ。

老人の腰が曲がったことは、ある種の適応の結果である。(それが健康に良いかは、別の問題である。)私たちが稲や野菜に働き掛けることは、そのまま稲や野菜から働きかけを受けることになる。私たちが稲や野菜を作ることは、稲や野菜に私たちが作られること(この場合「腰が曲がる」という形で)なのだろう。

そのような関係は、体だけでなく、心にも起こるだろう。田や畑を耕し、種を蒔き、芽が出るのを待つ。間引き、虫と戦い、太陽や雨を心配し、日々の成長を守る。やがて実り、収穫する。目にする植物の緑、聞こえてくる虫の声、太陽の熱や、雨の冷たさ、風が運ぶさまざまな匂い。それらが、どんどんと自分の中に入ってくる。それらが心を満たしていく。

日々の過ごし方も、種を蒔いてから収穫までのサイクルも、基準となるのは自然だ。日が昇り、日が沈む。それに合わせて働く。季節がの変化に合わせて、必要な仕事をする。そういう時間が私たちに埋め込まれても不思議はない。それは、『3日で出来る英会話』のような、私たちを追い立てるような時間とはだいぶ違うだろう。

日々の生活を作り出すことは、その生活によって私たちの心身を作り出すことである。だとすれば、現在の生活は、どのような私たちを「作っている」のだろうか。腰は曲がっていないが、デスクワークでひどい腰痛だ。よく聞く話だ。長い時間眺めているパソコンの画面に浮かぶ文字が、自分の中にどんどん入ってきて、心を満たしていく。それらを受け止められる器を作れれば、差し当たり社会に適合できる。受け止められないと、いろんなものがあふれ出る。あるいは、心にひび割れが起こる。大事なものが、外に流れ出てしまう。



「ワンチーム」から「ソーシャルディスタンス」

2020年08月02日 | 雑文
8月に入った。やっと梅雨も明けた。本来なら(という言い方にも違和感を持つが)、真夏の太陽の下、オリンピックが開催されていたはずだ。個人的にはオリンピックにはそれほど関心がなかったので、延期が決まってもとくに残念とも思わなかった。それでも、何か空っぽの本棚を見ているような感じになる。本棚にはあまり興味のない本が並ぶはずだった。しかし、それらの本は届かなかった。何か別の本が並ぶのかと思ったが、いつまでたっても本棚は空っぽのまま。そんな感じだ。

先日、昨年のラグビーワールドカップの日本戦を録画で見た。あの頃も、台風の被害で試合が中止になるなど、けっこう大変な状況だった。それでも、人々にはその苦境を乗り越えようという意志と行動があった。ジャパンの選手たちも見事な戦いをし、立派な結果を出した。それは「空っぽ」とはまったく反対の世界だった。1つのボールに人々が密集する。体と体がぶつかり合う。汗と汗が飛び散りあう。大きな声をかけ合う。トライをすれば喜んで抱き合う。「ワンチーム」という言葉を何度も聞いた。

「密を避ける」「ソーシャルディスタンス」「飛沫を避けるためにマスクをする」。コロナに対処するために私たちが行っているのは、距離をとること、避けること、動かないこと。果敢にチャレンジしながら苦境を乗り越えるのではなく、コロナに捕まらないようにびくびくすることだ。試合を見ながら、まだ1年とたたないのに、社会はずいぶん変わってしまったなと感じた。

ワクチンや治療薬が開発されても、社会は以前と同じように戻りはしないだろう。私たちは「人(というウイルス)を避ける」という感覚を無意識のうちに身に付けてしまったと思う。(ここ数十年で、「自己責任」という感覚を身に付けてしまったように。)マスクした人に目の前で咳をされた時、以前と同じような感覚でいられる気がしない。どこかで「避けたい、逃げたい、離れたい」という感覚を持ってしまうと思う。その人からではなく、ウイルスからだ。咳をした瞬間、目の前の人は人でなくウイルスになる。

コロナの厄介なところは、感染していても発症しない時期や人があることだ。原理的には、目の前にいる人は咳をしようがしまいが、ウイルスである可能性がある。人として「親しくなりたい、捉まえたい、近づきたい」と思いつつ、ウイルスとして「避けたい、逃げたい、離れたい」とも思う。こういう、相反する感覚を同時に抱えながら、日々の生活をすることになる。かなりのストレスを感じるに違いない。そして、ちょっとでも気を抜いて感染をすれば、おそらく「自己責任」という言葉と向き合うことになる。耐えられるのかな?

そんなことを考えながら、今日もランニングをした。梅雨明けの土手、午後2時すぎ。夏の太陽は心地よいが、暑い。ゆっくり、ゆっくり走った。熱中症にならないように。結局、7月の走行距離は145km。もう少し距離を稼ぎたかったが、まあ、悪くはない。とりあえず、今年の年間目標を1500kmにした。1ヶ月に125km、12ヶ月で1500kmだ。計算上は7月末で875km走っていることになるが、実際は787km。まあ、今年の前半はほとんど走れなかったので仕方ない。残り5ヶ月で少しずつ取り戻そう。

走る時間が増えれば、走りながら思いを巡らす時間も増える。そうすれば、巡らせた思いを言葉にし、こうして文章に起こすことも出来る。文章にして自分の外側に出すことで、自分の中に新たなスペースが生まれる。そのスペースで新たな思いを巡らす。繰り返しだ。

梅雨も明けて夏が来た。何十年も通い続けていた館山での海水浴はなくなった。福島でのキャンプもなくなった。だからといって、空っぽの本棚のようにしておくことはできない。さて、何を並べようか。

雨の中を走る

2020年07月26日 | 雑文
午前中、雨の中をランニングした。空の向こうから晴れ間が広がり、頭上の雲も薄くなってくる。雨が少しずつ小降りになり、太陽の熱が伝わってくる。湿り気を帯びたむっとした空気に包まれる。雨なのか、汗なのか、水滴が顔を流れる。ゆっくりと土手を走る。
いつものことだが、雨の土手に人はないない。時おり、物好きなランナーを見かける程度だ。雨で土ぼこりを流された緑はくっきりとし、水滴のついた細長い草や、遠くの芝生が映える。何日も降り続いた雨で川の幅が広がり、流れは泥色に濁っている。
思えば、かれこれ25年以上もランニングを続けている。最初の5年くらいはランナーというよりもジョガーという感じだった。5kmほどの距離を週に何回か走る程度だった。(自分では「けっこう走っているな」と思っていた。)
その後の10年くらいは、割と真剣に走った。フルマラソンも30回近く完走し、サロマ湖ウルトラマラソンも完走した。月200kmを目標に、時間をみつけて走るようにしていた。
腰を痛めてからのこの10年近くは、日常的に走っているけど、ジョガーとランナーを行ったり来たりだ。距離は5km程度、長くても10kmだ。5kmだと肉体的なリフレッシュにしかならない。10kmだと精神的にリセットされ、心の脂分や汚れが汗といっしょに流れ出て、良い感じの自分になれる。しかし、その後の腰痛がひどい。なかなか上手くいかないものだ。
今日は雨の中、8kmほど走った。腰は少し痛むが、心の脂分や汚れは減った。精神的にも少しリセットされたおかげで、文字を書こうという気になった。頭の中で考えて完結してしまうのと、こうして文章にすることでは、たとえ考えた内容や結論が同じでも、かなり違うことのようだ。文章にすることで誰かに読んでもらえるから、というのではない。読まれるか否かは二の次だ。(そもそも、他人が読むほどのことは書かれていない。)
頭の中でわかっていること、つじつまが合っているように感じていること。それらを文章にする時の、困難さが大事なのだと思う。上手く言葉にならないことが、何とか言葉になった時の、すっと通り抜けたような感覚が心地よいのだ。
その感覚は不思議なことに、ランニングでの精神的なリセット感とすごく似ている。
思えば、腰を痛める前は、長い距離のランニングと習慣的に文章を書くことがセットになっていた。いつの間にか、どちらもダメになっていた。もしかしたら、自分にとっての大事なサイクルを、この10年近く失っていたのかも知れない。走りながらそんなことを思っていた。