とんびの視点

まとはづれなことばかり

『サバイバー 池袋の路上から生還した人身取引被害者』を読んで思ったこと

2017年04月28日 | 読書
今朝は土手を8kmほどランニング。今月はこれで101km。何とか月の最低目標の100kmを越えた。おまけに1km6分を切るスピードだ。1週間前には7分以上かかっていた。大きな違いだ。ジョガーから梅ランナーへ復活。理由は腰の調子が少しよくなったからだ。合気道の稽古仲間に整体を生業としている人がいて、先週末、その人に体を整えてもらった。

さすがに長く続いている腰痛が一度に治ることはない。それでも体全体のゆがみがとれ、疲れが一気に吹っ飛んだ。いや、単に疲れがなくなっただけでなく、体中にエネルギーが満ちている感じだ。体の左右のバランスがかなりずれていたようだ。施術後、家に帰ったら「顔が変わった」と相方が驚いていた。自分では気付いていなかったが、かなり顔が崩れてたようだ。それがすっかり良くなっていたらしい。この調子で腰が改善すれば、来春のフルマラソン復活も視野に入ってくる。とりあえず、5月の目標は1週間に30km、1ヶ月で125kmというところだ。

先週末、『標的の島』という映画を見た。沖縄の基地問題を扱った映画だ。高江のヘリパッド建設、宮古島と石垣島での自衛隊基地の建設。それらを推進しようとする日本政府、その背後にあるアメリカの戦略。基地問題や本土の姿勢に対する沖縄の人たちのさまざまな反応。簡単にわかったようなことを言えない気がした。知らないことがあまりにも多すぎる。問うべきは「沖縄の基地をどう思うか?」ではない。「沖縄の基地について意見を述べるためには何を知らなければならないか、それを知っているか?」だ。そんな中、政府は辺野古の埋め立てに着手した。かりに沖縄に基地が必要だとしても、このやり方はよくない。

ちょっと前のことだが、『サバイバー 池袋の路上から生還した人身取引被害者』という本を読んだ。マルセーラ・ロアイサというコロンビア女性が体験談を書いたものだ。コロンビアではだいぶ売れたようだ。21歳のシングルマザーで生活に苦しんでいた彼女が、不安と希望を胸に日本に来てみれば、実態は人身売買のようなもので、暴力にさらされ、売春を強要されたという話だ。彼女の場合は普通の生活に戻り本を出版することができたからよいが、それこそ虫けらのように存在が消えていく人も山のようにいるはずた。(そんな彼女だって10年以上たってもトラウマが残っている)。

この本を読んで2つのことを思った。今回はひとつめ。

話の舞台となっているのは、1990年代終わりのころの池袋だ。池袋といえば、いま住んでいる家から5kmちょっとの距離だ。そのころ僕が通っていた大学はとなり駅だった。買い物にもしょっちゅう行ったし、飲みにも行った。芸術劇場に野田マップの芝居を観に行くこともある。まあ、僕の平凡な日常の延長線上にある場所だ。。僕とって池袋とはそんな平凡な場所だ。その平凡な感覚は池袋にとどまらない。とくにイレギュラーな事態が起こらなければ、僕の移動に合わせてその平凡な場所は広がる。そして観念的になれば、社会とか世の中とか日本とか世界も、そういう平凡な場所になる。

僕にとっては平凡な池袋という場所を、彼女は暴力にさられ、売春を強要される場として捉える。人身売買のような形で日本にいる彼女にとって、暴力にされされ売春を強要される感覚は日常全体を覆う。その日常は日本で営まれる。結局、日本とは暴力にされされ売春を強要される場所ということにな。

僕にとっても彼女にとっても、池袋は「池袋」、日本は「日本」で同じだ。地球上の同一の場所にある。でも、僕の「池袋」と彼女の「池袋」とはまったく異なる。自分とのかかわりで成り立つ「池袋」や「日本」の意味や内容が異なるからだ。同じだけど異なる。同じでないが異なってもいない。仏教的には「不同不異」という。考えることもなく、これは当たり前のことだ。同じ会社に属していても、その会社が何であるか(つまり意味)は、自分とのかかわりにおいて成り立つ。同じネコを飼っていても、家族それぞれにとっての意味は微妙に異なる。こういった「かかわり」によって物事が成り立つことを「縁起」という。

私にとって存在するものは、〈私〉とのかかわりを離れて存在しない。どのような出来事も私とのかかわりを切り離しては成り立たない。「池袋」はつねに私にとっての池袋であり、「日本」はつねに私にとっての日本である。あらゆる人が共通了解に至れるのは、名称や位置情報といったたぐいで、その意味や内容はひとそれぞれ、千差万別にしかなりようがないのだ。

なんでそんなことを考えたか。この本を読むちょっと前に新聞で「あなたは日本社会に満足ですか」という調査の結果を見たからだ。(6割くらいが「満足」と答えていた)。ここでいう「日本社会」とは、調査に答えた人たちと切り離された、誰もが共通した内容を備えた対象ではい。それぞれの人とのかかわりによって成り立っている意味や内容である。だから、この質問は「あなたは自分の現状に満足ですか」と聞いているのと変わらない。

だから、6割の人が満足だと答えても、それは「6割の人が満足しているよい社会だ」とはならない。満足だと答えた6割の人が、たまたま日本社会という場所でいま生活しているだけだ。その6割の人の日本社会もそれぞれ異なった意味や内容のはずだ。それはコロンビアの彼女と僕との異なりと本質的には変わらない。

じゃあ、僕と彼女を分ける決定的な違いは何か。それは「たまたま」「偶然」ということだ。僕はこの時代、たまたま日本に生まれた。たまたま下町の、たまたまそれほど裕福ではない職人の家の、たまたま…。そして彼女もこの時代、たまたまコロンビアに生まれた。たまたま女に生まれ、たまたま貧乏な家に生まれ、たまたま…。そんなことが人々の生活に大きな違いをもたらす。

その過程の中でいくつもの選択肢があったことも確かだ。友達の忠告を聞いて日本に来ないことだってできた。そうすれば、暴力にさらされ売春を強要されることもなかった。でも、彼女が日本の裕福な家庭に生まれていたらどうだろう。おそらく、ああいった形で池袋に立つこともなかっただろう。彼女は、日本から抜け出し、新たな生活を手に入れ、本を出版することができた。少なくとも池袋的な日常とはちがう日常を生きることができた。それは「たまたま」のようにも見えるし、「必然」のようにも見える。

自分が生まれる条件を選べないという意味で、私たちの人生は基本的には「たまたま」である。その「たまたま」という偶然の中で、何とか自分の生きている意味、つまり「必然のよなうなもの」を見つけようとするのが、わたしたち人間なのだろう。

長い距離を走れるれると、こういうことを頭で転がせるんだ。そんなことを思い出しながら走った。

子どもたちのこと

2017年04月19日 | 雑文

あっという間に4月も残りも10日ちょっとになった。桜の花が散り、葉を茂らせるようになると、東京にも緑の面積が増える。このところ3日ほど25°を越える日が続いている。初夏を思わせる日々だ。毎年、ゴールデンウィークにはこんな感じの日があるが、いつもより早い気がする。

そんな緑の中、今朝は土手を7kmほどランニングをした。ジョギングではなくランニングだ。久しぶりに、本当に久しぶりに「走っている」という感覚を味わえた。あとはこれで腰痛が悪化しなければよい。そうすれば少し走り込むことが可能になる。汗とともに悪いものも流れ出るし、体重も落とせる。

小学校のことと中学校のことを書こうと思う。どちらも多少、批判めいた感じになるが、誰かを責めたいわけでもなく、自分が正しいと言いたいわけでもない。現状の確認と、それに対しての疑問を記しておきたい。

まずは小学校のこと。

先日、小学校の保護者と久しぶりに話をした。聞いてみると、今年度から小学校は規則が厳しくなったそうだ。筆箱はみんな四角い形のものにするとか、持ってきてよいペンはこれとこれとか、62個も規則ができたと言っていた。確かに、学校としてはルールが決まっていると指導がしやすいだろう。基準が曖昧だったり、学年ごとクラスごとに基準が違っていたら、生徒も先生も面倒が増える。

しかし、ルールを決めることと、全員の持ち物が均一化されることは違う。勉強に支障のないかぎり筆箱は自由なものでよい。そういう基準を明確にし、学校全体に徹底させてもよい。みんないろいろな筆箱を持ってくることだろう。人によっては勉強に支障があるように見える筆箱を持ってくる生徒もいるかもしれない。でもそれはどうしても避けなければならない問題ではない。

まずは本人に、その筆箱が勉強に支障がない理由を尋ねればよい。その説明に教員や他の生徒が納得すればオーケーだ。納得いかなければ、なぜ支障がでるのか生徒に説明すればよい。そういうやり取り自体が、教員と生徒の考える力、説明する力、対話する力などを養うはずだ。もちろん、それなりの労力がかかる。しかし得るものも多いはずだ。何よりも基準を明確にすることで、多様性が生まれるのはよいことだ。

日本では基準を明確にすることは、均一で同質なものを生み出すことだと思っている人が多いようだ。みんなが同じ服装を着て、みんなが同じ髪形をして、みんなが同じ持ち物を持つ。そういうものが持つある種の好印象は否定しない。しかしこれは同調圧力を生み出す。マイノリティーを排除する傾向を生み出す。だとすれば、均質で同質なものを生み出すルールは何のためなのだろう。

言われたことに従う人をつくり出すためという明確な目的があるならわかる。少なくとも目的・手段関係は成立している。しかし、それが日本社会に必要な教育か否かは別問題だ。また、そのようなやり方で子どもたちに、考える力、説明する力、対話する力を求めるのは止めたほうがよい。ダブルバインド的な状況を作り出すだけだろう。

均一で同質なものを求める理由が、教員の管理や評価のしやすさ、あるいは細かいやり取りを避けるためというなら、それは子どもたちの教育とは別の問題だ。管理する側が効率的に仕事を進めるためでしかない。そしてその結果、生徒たちはある種の力を身に付けることができないままに大人になる。

こう書くと学校批判になってしまう。しかし2年間、わりと近くで先生たちとやり取りしていた実感からすると、そんな単純な話ではない。学校現場で何らかのやり方が選ばれるには、その学校の教員たちだけの決定ではない。1つには文科省をトップとする教育行政からのさまざまな要求が現場にきているからだ。現場としては(トップほど)そう簡単にそれを無視することはできない。(だから今後の道徳教育はきちんとウォッチしなければならない)。

そしてもう一方には保護者がいる。保護者に限定したことではないが、現在の日本人には消費者マインドがかなり浸透している。支払ったものに対して正当なサービスを受ける権利があるという感覚だ。じっさい保護者からは「なぜ、うちの子どものクラスにはあの問題児がいるの。クラスを換えてくれ」「なぜ、妊娠している先生を担任にしたの。子どもに不平等だ」などのクレームがきたりする。

学校現場に求められているのは、行政にも保護者にも分かりやすく、そのうえ満足できるアウトプットを示すことだ。だとすると子どもたちに均一で同質なものを求める基準を作ってしまうのも自然なことだ。(僕の嫌いな「こうなります」だ。)取り組みも明確だし、アウトプットも見えやすいし、評価も理解されやすい。さまざまな立場から出てくる問いに対して、一応、説得力ある答えにはなっている。学校現場はきっとそんな答えを模索しているのではないかと思う。(その中で各人の意識する先が「行政」「学校」「生徒」「保護者」とわかれ、さらに取り組みの姿勢に差が出るから現場も一枚岩になりにくい。)

大切なのは、その説得力のある答えが「正解」ではないかもしれないと自覚していることだ。現場の事情から導き出された最適解は、必ず現場の事情に引きずられている。つまりその答えは、考えを止めるゴールではなく、そこから考え始めるための暫定的なものでしかない。では、何に照らして暫定的な答えを測るのか。それは「子どもたちをこういう大人に育てよう」という理念だ。

自分より相対的に強い相手の言うことに、何の疑問も持たない。自分の意見も持たず、ただ、ただ従順な人間を育てたいのか。誰に対しても相手の話をよく聞き、疑問があれば丁寧に問いかけ、そして自分の意見も言う。そして対話を通して現状をより良いものにしていくような人間を育てたいのか。文科省は(というか現政権は)明確にそのビジョンを持っている。教育現場も多くは理想を持っているだろう。保護者もそれぞれ考えている。この三者がうまくやり取りをしていかないと、そのしわ寄せは子どもたちにいくだろう。

せっかく、たまたまこの時期にこの日本に生まれてきた子どもたちだ。できるなら、よい人間に育って生きていけるように、大人たちがそれなりの労力を注ぎ込むべきなのだ。