今日は次男と昼休みに11㎞ほどランニング。(次男は途中まで自転車。走ったのは3.5㎞くらい)。これで今月は81㎞になる。月の初めに風邪をひき、治ったと思ったら月末にインフルになった。(おかげで板橋cityマラソンには参加できなかった)。久しぶりのランニングだった。少し肺の調子が良くないが、それでも走ることは心地よい。次回のレースがいつになるか分からないが、4月からもきちんと走っていこう。
東京新聞を抜き書きコメントすることを三ヶ月続けてきた。課題も見つかったので次の段階に入ろうと思う。これまで通り新聞の抜き書きやコメント付けはある程度行う。しかし頻度は少なくなるし、やみくもに抜き出してコメントをつけることも止める。考えることを少し優先しよう。新聞の頻度を減らすことで、本などを読みながら、いくつかのテーマをしっかり追いかけていく。いろいろあるが、ひとつには憲法がある。まずは長谷部恭男著の『憲法とは何か』(岩波新書)を材料にしよう。
わたしたち一人ひとりが憲法について考えねばならない。そんな社会状況になっている。(いちおう)平穏な社会でふつうに暮らす人たちが憲法について考えねばならない。それは、当たり前のことなのか、あるいは異常なことなのか。僕のいまの考えでは、憲法について考えるのは当たり前のことだ。自分が生きる国の一番の骨格とも言える憲法について知らない。それは危険なことだ。狩人がけもの道を知らず奥山に入り込んだり、漁師が潮の流れを理解できずに魚を追い遠洋に行くようなものだ。
僕もかつては憲法など意識したことはなかった。社会でふつうに生活していて、自然に入ってくる情報を多少、注意して見聞きしていた程度だ。自分から理解しようとアプローチしたことなどない。多くの日本人がそうだったと思う。憲法について触れるのは、自衛隊絡みで憲法9条が政治的な話題になった時くらいだろう。そういう時も、憲法全体を意識することはなかった。賛成か反対という単純な二分法があった程度だ。。
護憲、改憲は別として、誰もが憲法について考えるべき状況になった。なぜか。このところ憲法が話題になってきたし、しばらくは憲法が話題になるだろうからだ。ただ話題になるだけではない。場合によっては何らかの憲法改正が行われるかもしれない。それまでに、私たちが正しく憲法につい考えられるようになっていなければならない。
「憲法改正について何か意見は?」と聞かれれば、誰でも何らかのコメントは言えるだろう。「コメントできてしまう」ことが問題なのだ。(「必要ならば改正すれば良い」などというのは最悪のコメントだ。)「憲法改正について意見を述べるために、知らなければならないことを挙げてください」と聞かれたときに、どのくらいの人が答えられるだろうか。自分の思いを好きに述べればよいというものではない。何かに言及するためには、それについて最低限のことは押さえておかねばならない。
憲法について意見を述べるために必要なことの第一は、「日本国憲法を自分で読むこと」だろう。日本国憲法を読んだことがないのに改憲を云々するのはお笑いだ。食べたことのない料理のレシピを改良するのに等しい。まずは自分で確認することだ。僕も何度か読み返しているが、いろいろと学ぶことが出来る。日本国憲法を読む他に、本を読んだり、人に意見を聞いたりすることが必要だろう。まずは『憲法とは何か』(長谷部恭男著、岩波新書)をテキストに学んでいこう。今回は『はしがき』から引用する。
「……、憲法には別の側面もあります。本書は、憲法というものの危険性、多くの人々の生活やさらに生命そのものをも引きずり込む正体について説明していきます。長期にわたる深刻な戦争が実は憲法をめぐって行われること、人々の暮らしや命を守るためには、ときにはそれまでの憲法を根底的に変えざるをえないことを、説明しています。(日本はそれを60年前に、東欧諸国も1980年代終わりにそれを経験しました)。
憲法がつねにありがたい、明るい未来を与えるものだという夢が、幻想にすぎないかもしれないことに注意を向けるのが、本書のねらいのひとつです。」
→「長期にわたる深刻な戦争が憲法をめぐって行われる」という意見は初めて知った。確かに日本は太平洋戦争に負けたことで、いまの日本国憲法を手に入れた。(あるいはアメリカから押し付けられた)。アメリカがイラクのフセイン政権を打倒したときにも、新しい憲法を作ったと記憶している。戦争により体制が変わったときには憲法が変わるというわけだ。確かに戦争に勝つだけでは体制は変わらない。政権は変わるかもしれないが、新たな政権の性格は以前と同じとは限らない。体制が変わらねばならない制度を作るためには、その国の制度を決める憲法を変えることが必要になる。その国の制度を変えるためには、憲法を変えればよいことになる。そうであるならば、憲法を変えるために戦争を用いることも有効な手段となる。
「本書は、憲法が立憲主義にもとづくものであることを常に意識し続けなければならないという立場をとっています。立憲主義は近代のはじまりとともに、ヨーロッパで生まれた思想です。この世には、人の生き方や世界の意味について、根底的に異なる価値観を抱いている人々がいることを認め、そして、それにもかかわらず、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う基本的な枠組みを構築することで、個人の自由な生き方と、社会全体の利益に向けた理性的な審議と決定のプロセスとを実現することを目指す立場です。そのための手立てとして、公と私の分離、硬性の憲法典、権力の分立、違憲審査、軍事力の限定など、さまざまな制度が用意されます。」
→「立憲主義」という言葉をこのところ耳にするようになった。この言葉は、本書を見ていく中で何度も取り上げられるだろう。憲法を考える上では大切な言葉である。少なくとも、憲法改正を云々するのであれば、立憲主義についてそれなりの理解をしている必要がある。
ここでは2つのことがいわれている。「立憲主義とは近代の始まりとともにヨーロッパで生まれた思想である」と言うのが1つ。そうであれば安倍首相が「立憲主義は王権の時代のもの」などというのは全くの無理解ということになる。(確かに、近代以前にも立憲主義という言葉を用いることは可能だが、そういうレトリックを使うこと自体、知性のなさをさらけ出すことになる)。
もう1つは「根本的に異なる価値観を持っている人たちがいることを認めた上で、個人が自由に生きると同時に社会全体の利益の実現を目指すののが立憲主義」とされていることだ。個人の自由というのは日本国憲法では11条の基本的人権の尊重になるのだろう。このあたりもこの先を読み進める際に、課題となっていくだろう。
「なぜ、立憲主義にこだわることが必要かといえば、根底的に異なる価値観が裸のままでぶつかり合ったとき、平和な社会生活や国際関係はきわめて困難となるからです。逆にいえば、価値観や世界観の衝突を直視せよという立場からすれば、衝突の調停と限界付けを目指す立憲主義は、中途半端な煮え切らない立場だということになります。」
→「衝突の調停と限界付けを目指す立憲主義」が「中途半端な煮え切らない立場」だとすると、その対極にあるのは、衝突を調停しない戦いで白黒つける立場となる。それは戦争を認める立場となる。このところの安倍政権の危険さはこのあたりに現れている。立憲主義を否定することは、思想的に衝突の調停を行ったり、個々人が自由に生活することを否定することになる。そのように見ていくと、安倍政権は一貫して反立憲主義的な立場を表明しているように見える。しかしそれは欧米を始めとする先進国のスタンダードから外れることを意味する。欧米のメディアなどには安倍政権や、それを支える日本人が理解不能に見えているかもしれない。
東京新聞を抜き書きコメントすることを三ヶ月続けてきた。課題も見つかったので次の段階に入ろうと思う。これまで通り新聞の抜き書きやコメント付けはある程度行う。しかし頻度は少なくなるし、やみくもに抜き出してコメントをつけることも止める。考えることを少し優先しよう。新聞の頻度を減らすことで、本などを読みながら、いくつかのテーマをしっかり追いかけていく。いろいろあるが、ひとつには憲法がある。まずは長谷部恭男著の『憲法とは何か』(岩波新書)を材料にしよう。
わたしたち一人ひとりが憲法について考えねばならない。そんな社会状況になっている。(いちおう)平穏な社会でふつうに暮らす人たちが憲法について考えねばならない。それは、当たり前のことなのか、あるいは異常なことなのか。僕のいまの考えでは、憲法について考えるのは当たり前のことだ。自分が生きる国の一番の骨格とも言える憲法について知らない。それは危険なことだ。狩人がけもの道を知らず奥山に入り込んだり、漁師が潮の流れを理解できずに魚を追い遠洋に行くようなものだ。
僕もかつては憲法など意識したことはなかった。社会でふつうに生活していて、自然に入ってくる情報を多少、注意して見聞きしていた程度だ。自分から理解しようとアプローチしたことなどない。多くの日本人がそうだったと思う。憲法について触れるのは、自衛隊絡みで憲法9条が政治的な話題になった時くらいだろう。そういう時も、憲法全体を意識することはなかった。賛成か反対という単純な二分法があった程度だ。。
護憲、改憲は別として、誰もが憲法について考えるべき状況になった。なぜか。このところ憲法が話題になってきたし、しばらくは憲法が話題になるだろうからだ。ただ話題になるだけではない。場合によっては何らかの憲法改正が行われるかもしれない。それまでに、私たちが正しく憲法につい考えられるようになっていなければならない。
「憲法改正について何か意見は?」と聞かれれば、誰でも何らかのコメントは言えるだろう。「コメントできてしまう」ことが問題なのだ。(「必要ならば改正すれば良い」などというのは最悪のコメントだ。)「憲法改正について意見を述べるために、知らなければならないことを挙げてください」と聞かれたときに、どのくらいの人が答えられるだろうか。自分の思いを好きに述べればよいというものではない。何かに言及するためには、それについて最低限のことは押さえておかねばならない。
憲法について意見を述べるために必要なことの第一は、「日本国憲法を自分で読むこと」だろう。日本国憲法を読んだことがないのに改憲を云々するのはお笑いだ。食べたことのない料理のレシピを改良するのに等しい。まずは自分で確認することだ。僕も何度か読み返しているが、いろいろと学ぶことが出来る。日本国憲法を読む他に、本を読んだり、人に意見を聞いたりすることが必要だろう。まずは『憲法とは何か』(長谷部恭男著、岩波新書)をテキストに学んでいこう。今回は『はしがき』から引用する。
「……、憲法には別の側面もあります。本書は、憲法というものの危険性、多くの人々の生活やさらに生命そのものをも引きずり込む正体について説明していきます。長期にわたる深刻な戦争が実は憲法をめぐって行われること、人々の暮らしや命を守るためには、ときにはそれまでの憲法を根底的に変えざるをえないことを、説明しています。(日本はそれを60年前に、東欧諸国も1980年代終わりにそれを経験しました)。
憲法がつねにありがたい、明るい未来を与えるものだという夢が、幻想にすぎないかもしれないことに注意を向けるのが、本書のねらいのひとつです。」
→「長期にわたる深刻な戦争が憲法をめぐって行われる」という意見は初めて知った。確かに日本は太平洋戦争に負けたことで、いまの日本国憲法を手に入れた。(あるいはアメリカから押し付けられた)。アメリカがイラクのフセイン政権を打倒したときにも、新しい憲法を作ったと記憶している。戦争により体制が変わったときには憲法が変わるというわけだ。確かに戦争に勝つだけでは体制は変わらない。政権は変わるかもしれないが、新たな政権の性格は以前と同じとは限らない。体制が変わらねばならない制度を作るためには、その国の制度を決める憲法を変えることが必要になる。その国の制度を変えるためには、憲法を変えればよいことになる。そうであるならば、憲法を変えるために戦争を用いることも有効な手段となる。
「本書は、憲法が立憲主義にもとづくものであることを常に意識し続けなければならないという立場をとっています。立憲主義は近代のはじまりとともに、ヨーロッパで生まれた思想です。この世には、人の生き方や世界の意味について、根底的に異なる価値観を抱いている人々がいることを認め、そして、それにもかかわらず、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う基本的な枠組みを構築することで、個人の自由な生き方と、社会全体の利益に向けた理性的な審議と決定のプロセスとを実現することを目指す立場です。そのための手立てとして、公と私の分離、硬性の憲法典、権力の分立、違憲審査、軍事力の限定など、さまざまな制度が用意されます。」
→「立憲主義」という言葉をこのところ耳にするようになった。この言葉は、本書を見ていく中で何度も取り上げられるだろう。憲法を考える上では大切な言葉である。少なくとも、憲法改正を云々するのであれば、立憲主義についてそれなりの理解をしている必要がある。
ここでは2つのことがいわれている。「立憲主義とは近代の始まりとともにヨーロッパで生まれた思想である」と言うのが1つ。そうであれば安倍首相が「立憲主義は王権の時代のもの」などというのは全くの無理解ということになる。(確かに、近代以前にも立憲主義という言葉を用いることは可能だが、そういうレトリックを使うこと自体、知性のなさをさらけ出すことになる)。
もう1つは「根本的に異なる価値観を持っている人たちがいることを認めた上で、個人が自由に生きると同時に社会全体の利益の実現を目指すののが立憲主義」とされていることだ。個人の自由というのは日本国憲法では11条の基本的人権の尊重になるのだろう。このあたりもこの先を読み進める際に、課題となっていくだろう。
「なぜ、立憲主義にこだわることが必要かといえば、根底的に異なる価値観が裸のままでぶつかり合ったとき、平和な社会生活や国際関係はきわめて困難となるからです。逆にいえば、価値観や世界観の衝突を直視せよという立場からすれば、衝突の調停と限界付けを目指す立憲主義は、中途半端な煮え切らない立場だということになります。」
→「衝突の調停と限界付けを目指す立憲主義」が「中途半端な煮え切らない立場」だとすると、その対極にあるのは、衝突を調停しない戦いで白黒つける立場となる。それは戦争を認める立場となる。このところの安倍政権の危険さはこのあたりに現れている。立憲主義を否定することは、思想的に衝突の調停を行ったり、個々人が自由に生活することを否定することになる。そのように見ていくと、安倍政権は一貫して反立憲主義的な立場を表明しているように見える。しかしそれは欧米を始めとする先進国のスタンダードから外れることを意味する。欧米のメディアなどには安倍政権や、それを支える日本人が理解不能に見えているかもしれない。