とんびの視点

まとはづれなことばかり

『憲法とは何か』(長谷部恭男著、岩波新書)の「はしがき」から

2014年03月31日 | 雑文
今日は次男と昼休みに11㎞ほどランニング。(次男は途中まで自転車。走ったのは3.5㎞くらい)。これで今月は81㎞になる。月の初めに風邪をひき、治ったと思ったら月末にインフルになった。(おかげで板橋cityマラソンには参加できなかった)。久しぶりのランニングだった。少し肺の調子が良くないが、それでも走ることは心地よい。次回のレースがいつになるか分からないが、4月からもきちんと走っていこう。

東京新聞を抜き書きコメントすることを三ヶ月続けてきた。課題も見つかったので次の段階に入ろうと思う。これまで通り新聞の抜き書きやコメント付けはある程度行う。しかし頻度は少なくなるし、やみくもに抜き出してコメントをつけることも止める。考えることを少し優先しよう。新聞の頻度を減らすことで、本などを読みながら、いくつかのテーマをしっかり追いかけていく。いろいろあるが、ひとつには憲法がある。まずは長谷部恭男著の『憲法とは何か』(岩波新書)を材料にしよう。

わたしたち一人ひとりが憲法について考えねばならない。そんな社会状況になっている。(いちおう)平穏な社会でふつうに暮らす人たちが憲法について考えねばならない。それは、当たり前のことなのか、あるいは異常なことなのか。僕のいまの考えでは、憲法について考えるのは当たり前のことだ。自分が生きる国の一番の骨格とも言える憲法について知らない。それは危険なことだ。狩人がけもの道を知らず奥山に入り込んだり、漁師が潮の流れを理解できずに魚を追い遠洋に行くようなものだ。

僕もかつては憲法など意識したことはなかった。社会でふつうに生活していて、自然に入ってくる情報を多少、注意して見聞きしていた程度だ。自分から理解しようとアプローチしたことなどない。多くの日本人がそうだったと思う。憲法について触れるのは、自衛隊絡みで憲法9条が政治的な話題になった時くらいだろう。そういう時も、憲法全体を意識することはなかった。賛成か反対という単純な二分法があった程度だ。。

護憲、改憲は別として、誰もが憲法について考えるべき状況になった。なぜか。このところ憲法が話題になってきたし、しばらくは憲法が話題になるだろうからだ。ただ話題になるだけではない。場合によっては何らかの憲法改正が行われるかもしれない。それまでに、私たちが正しく憲法につい考えられるようになっていなければならない。

「憲法改正について何か意見は?」と聞かれれば、誰でも何らかのコメントは言えるだろう。「コメントできてしまう」ことが問題なのだ。(「必要ならば改正すれば良い」などというのは最悪のコメントだ。)「憲法改正について意見を述べるために、知らなければならないことを挙げてください」と聞かれたときに、どのくらいの人が答えられるだろうか。自分の思いを好きに述べればよいというものではない。何かに言及するためには、それについて最低限のことは押さえておかねばならない。

憲法について意見を述べるために必要なことの第一は、「日本国憲法を自分で読むこと」だろう。日本国憲法を読んだことがないのに改憲を云々するのはお笑いだ。食べたことのない料理のレシピを改良するのに等しい。まずは自分で確認することだ。僕も何度か読み返しているが、いろいろと学ぶことが出来る。日本国憲法を読む他に、本を読んだり、人に意見を聞いたりすることが必要だろう。まずは『憲法とは何か』(長谷部恭男著、岩波新書)をテキストに学んでいこう。今回は『はしがき』から引用する。


「……、憲法には別の側面もあります。本書は、憲法というものの危険性、多くの人々の生活やさらに生命そのものをも引きずり込む正体について説明していきます。長期にわたる深刻な戦争が実は憲法をめぐって行われること、人々の暮らしや命を守るためには、ときにはそれまでの憲法を根底的に変えざるをえないことを、説明しています。(日本はそれを60年前に、東欧諸国も1980年代終わりにそれを経験しました)。
憲法がつねにありがたい、明るい未来を与えるものだという夢が、幻想にすぎないかもしれないことに注意を向けるのが、本書のねらいのひとつです。」

→「長期にわたる深刻な戦争が憲法をめぐって行われる」という意見は初めて知った。確かに日本は太平洋戦争に負けたことで、いまの日本国憲法を手に入れた。(あるいはアメリカから押し付けられた)。アメリカがイラクのフセイン政権を打倒したときにも、新しい憲法を作ったと記憶している。戦争により体制が変わったときには憲法が変わるというわけだ。確かに戦争に勝つだけでは体制は変わらない。政権は変わるかもしれないが、新たな政権の性格は以前と同じとは限らない。体制が変わらねばならない制度を作るためには、その国の制度を決める憲法を変えることが必要になる。その国の制度を変えるためには、憲法を変えればよいことになる。そうであるならば、憲法を変えるために戦争を用いることも有効な手段となる。


「本書は、憲法が立憲主義にもとづくものであることを常に意識し続けなければならないという立場をとっています。立憲主義は近代のはじまりとともに、ヨーロッパで生まれた思想です。この世には、人の生き方や世界の意味について、根底的に異なる価値観を抱いている人々がいることを認め、そして、それにもかかわらず、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う基本的な枠組みを構築することで、個人の自由な生き方と、社会全体の利益に向けた理性的な審議と決定のプロセスとを実現することを目指す立場です。そのための手立てとして、公と私の分離、硬性の憲法典、権力の分立、違憲審査、軍事力の限定など、さまざまな制度が用意されます。」

→「立憲主義」という言葉をこのところ耳にするようになった。この言葉は、本書を見ていく中で何度も取り上げられるだろう。憲法を考える上では大切な言葉である。少なくとも、憲法改正を云々するのであれば、立憲主義についてそれなりの理解をしている必要がある。
ここでは2つのことがいわれている。「立憲主義とは近代の始まりとともにヨーロッパで生まれた思想である」と言うのが1つ。そうであれば安倍首相が「立憲主義は王権の時代のもの」などというのは全くの無理解ということになる。(確かに、近代以前にも立憲主義という言葉を用いることは可能だが、そういうレトリックを使うこと自体、知性のなさをさらけ出すことになる)。
もう1つは「根本的に異なる価値観を持っている人たちがいることを認めた上で、個人が自由に生きると同時に社会全体の利益の実現を目指すののが立憲主義」とされていることだ。個人の自由というのは日本国憲法では11条の基本的人権の尊重になるのだろう。このあたりもこの先を読み進める際に、課題となっていくだろう。


「なぜ、立憲主義にこだわることが必要かといえば、根底的に異なる価値観が裸のままでぶつかり合ったとき、平和な社会生活や国際関係はきわめて困難となるからです。逆にいえば、価値観や世界観の衝突を直視せよという立場からすれば、衝突の調停と限界付けを目指す立憲主義は、中途半端な煮え切らない立場だということになります。」

→「衝突の調停と限界付けを目指す立憲主義」が「中途半端な煮え切らない立場」だとすると、その対極にあるのは、衝突を調停しない戦いで白黒つける立場となる。それは戦争を認める立場となる。このところの安倍政権の危険さはこのあたりに現れている。立憲主義を否定することは、思想的に衝突の調停を行ったり、個々人が自由に生活することを否定することになる。そのように見ていくと、安倍政権は一貫して反立憲主義的な立場を表明しているように見える。しかしそれは欧米を始めとする先進国のスタンダードから外れることを意味する。欧米のメディアなどには安倍政権や、それを支える日本人が理解不能に見えているかもしれない。
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問題という観点から新聞を読む

2014年03月28日 | 雑文
3月26日(水)の東京新聞を眺める。いくつか目を引く記事がある。たとえば1面トップの「特養待機52万人 厚労省5年で10万人増」。現在、特別養護老人ホームに入所を希望しながら入所できない「待機者」が全国で52万人いて、それは5年前より10万人増えている、という記事だ。
問題という観点から見れば、すごくインパクトがあるものではないし、事態が急変するものでもない。ただそれは社会的な問題として見た時だ。ある個人にとっては、生活が一変するほどの問題になりえる。社会的であれ、個人的であれ、これは時間とともに自然に解決するという問題ではない。社会が時間をかけて計画的に取り組まないと、ある個人が長いあいだきびしい状況を生きることになる。震災や原発事故の被災者など、同類の問題はたくさんある。

「武器新原則 自公が了承 輸出容認 平和主義を転換」という記事。武器や関連技術の海外提供を抑制してきた武器輸出三原則の見直しを自民、公明両党が了承したそうだ。政府は4月にも「防衛装備移転三原則」として閣議決定する。
これは制度を変える問題だ。制度変更は、始まりは単なる言葉レベルでの変更でしかない。今までのルールを新しいルールに言葉で変えるだけだ。具体的な出来事はすぐには変わらない。ゆっくりと時間とともに出来事が変わってくる。いずれその出来事を何か変だと感じても、すでにそれは制度的には問題のないこととなる。
制度を変えるときには、現在の不具合から考えるのでなく、長期的な視点で考えねばならない。その時大切なのは、何を手に入れられるかではなく、何を失うのかをきちんと想像することだ。平和憲法と武器輸出三原則により、日本は世界各地で評価を得てきた。とくに紛争地域などで、問題解決に当たる時には大きな効果があったそうだ。
制度を変えても、失ったものはすぐには見えてこない。そして失われた時には、それは見えないものになっている。だから失ったものを見いだすのはむずかしい。何を手に入れるのかでなく、何を失うことになるのか。そういう想像力を働かせることが大切だ。

「新除染装置 不具合見逃し 過酷なタンク内清掃」。先日、除染装置「アルプス」で不具合が起きているのに、それを見逃した結果、除染後の水を入れるタンクが汚染してしまうファウルがあった。現場ではそのタンクを除染する作業が始まった。カッパを二重に着て、全身汗だくで、薄暗いタンクの中を人海戦術で清掃しているそうだ。
福島第一原発事故はたくさんの問題をはらんでいる。私たちにとって一番の問題は、きちんと長期にわたって福島を見続けることができるかだろう。先日、民間、国会、政府の三事故調のトップがそろって会見をした。その時、政府事故調の畑村さんが「私たちは、見たいものだけを見るのではなく、見たくないものでもきちんと見ることをしなければならない」と言っていた。
その通りだと思う。事故を引き起こした原因の一つに「原発安全神話」がある。安全神話とは、まさに「見たい、聞きたい話」のことではなかったか。見たくないこと、聞きたくないこと、そういうものと正面から向き合う力が必要だ。その最初のトレーニングは「己と向き合うこと」だ。

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想像力のない人間に限って自己合理化がはやい

2014年03月26日 | 雑文
新聞にあまり時間をかけられなくなった。4月から少し忙しくなり、現実的に時間の確保が難しくなるからだ。それに3ヶ月近く続け、それなりに課題が見えてきた。新聞に合わせると、どうしても出来事の流れを追いすぎ、深く掘り下げることができない。新聞を追いかけるのは、個々の出来事の流れを追いかけるためでなく、何を深く掘り下げるべきか選ぶためだ。多くの記事を追いかけ、1つ1つコメントを書いても中身は薄くなる。重要なものを選んで、周辺知識を新聞以外からも入手し、深く掘り下げるやり方にシフトしよう。気になるニュースはツイッターを使うことにする。

今日の東京新聞の6面に「カザフスタンへ原発輸出に意欲 首相、首脳会談で」という小さな記事が出ていた。首相の言葉が意味不明だ。「福島第一原発事故の経験を踏まえた安全性の高い技術の提供など、支援できる可能性がある」と言ったそうだ。「安全性の高い技術」って、いったい何のことだ。具体的に何を指しているのだろうか。水漏れしにくい汚染水タンクのことか?まさか。

そして1面トップには「新除染装置でも事態軽視 不具合見逃し1日運転 東電福島第一原発 タンク21基汚染される」とある。先日のアルプスの性能が低下した問題だ。東電は装置を止める1日前には、異常を把握していたそうだ。しかし不具合を疑わずに運転を続けていた。(「水に誤って放射性物質が混入したのでは」と採水ミスと判断したそうだ)。その結果、浄化された水をためるはずのタンクは21基や配管は汚染された。その分の除染も必要になった。

ポイントは、「採水ミス」と判断したところだろう。しっかりと腰を据えいろいろ疑わずに、自分の都合のいいように判断する。フロイトによれば、前者を「洞察」、後者を「合理化」と言うらしい。村上春樹も『ダンス・ダンス・ダンス』で登場人物の五反田君に「想像力のない人間に限って自己合理化がはやい」という感じのことを言わせていた。思うに、この「合理化」とは、人間の「わかりたい」という心性に深く根ざしたものなのだろう。わかることで「安心したい」という心性だ。

景気の低迷はずっと続くし、国力は落ちていく。社会はどんどん高齢化していき希望が持てない。おまけに震災やら原発事故やらだ。今だって不安定だが、将来だって見えない。多くの日本人がどこかで不安を感じているのだろう。安心したいと思っているのだろう。だから「わかりやすい」話に飛びつく。自分や世界を疑わずにすむ「合理的に見える話」を求める。そういうものを力強く言ってくれる人を求める。

残念ながら、そういう「合理的な話」は長続きしない。単一の価値ですべてを序列化するからスピードは速いし、インパクトも強い。しかし長い時間に耐えられない。時間とともに明らかになるのは、1つの出来事に関するざまざまな価値があること、いろんな人たちがそれぞれの立場で関わっていることだからだ。単一の価値による合理化は、自分と異なる価値とは共存できない。だから時間とともに力を失う。そういう人も長続きしない。事前に自分の中で相反するものを共存させ、そこに調和を見いだす人が本当は必要なのだろう。
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3回続けてマラソン走れず

2014年03月24日 | 雑文
さてさて、昨日の板橋cityマラソンは風邪で参加できなかった。これで、3レース連続での不参加だ。1年前の板橋cityは本番3週間くらい前にねん挫をした。レースに向け良い感じで走り込んでいた最中のケガだ。そして今年1月の館山若潮マラソンは10日くらい前から風邪を引き、それが治らなかった。そして今回の風邪である。(そして今日、医者に行きB型インフルだと判明した)。

さすがに3回も続くと何か考えねばならない。同類の出来事が3回続けて起こる時は、立ち止まって考えろというメッセージが届いたということだ。(こういうのを無視すると後でもっと大変なことになる)。もちろん、なぜ走れなくなったか、それぞれのケースを説明することはできる。しかしそれは、ねん挫をしたから仕方がない、風邪を引いたから仕方がない、インフルだったから仕方がない。そういった「すべて仕方がなかった」という括り方となってしまう。

だからこういう場合は少し違う見方をしなければならない。個々のケースを成立させる要素の整合性ではなく、同類の事象が3回続いたことが僕自身に持つ意味を考えることだ。答えは割と簡単だ。「いまのランニングとの付き合い方では、自分が求めているものは決して手に入らないぞ」ということだ。いまのランニングとの付き合い方を続けるなら、求めるものをそれに合わせる。自分が求めるものを手に入れたいなら、ランニングとの付き合い方をそれに合わせる。そのどちらかを選ばねばねばならない。

5年ほど前、サロマ湖ウルトラマラソンを目指した時は、目標に自分を合わせた。月々の目標距離を必死で走った。仕事で11時過ぎに家に帰り、そのまま腰を下ろさずに30分走る。翌朝6時に起き、とにかく30分走る。その間、何も考えないようにした。いいから走れ、何も考えずにただ走れ、自分にそう言い聞かせて走った。週末、真冬の北風の中を何時間も走った時には泣きながら走った。

何かを手に入れるためには、それに見合った捧げ物(贈与と言った方が良いかもしれない)をしなければならない。どんなことでもそうだと思っている。子育てでも、仕事でも、結局のところ自分が正しく提供した分だけ良いものが還ってくる。(間違って提供すると悪いものが還ってくる)。いまランニングに関してはそのバランスが崩れているのだろう。

それはうすうす感づいていた。合気道が面白くなってきたこと。走ると腰痛が悪化すること。いろいろ忙しくなりランニングに十分な時間が取れなくなったこと。疲れが残るような攻めのランニングが出来なくなったこと。年齢的に走力が落ちているはずだと勝手に決めていること。そういうバランスの崩れがあるにも関わらず、以前と同じように走っているつもりでいたことがまずかったのだろう。

では、ランニングとの付き合い方をどうするか。これは簡単に決めない方が良いのだろう。このところランニングだけでなく、深くゆっくりと考えることをしていない。その意味では、3ヶ月近く続けている新聞から記事を書き抜いてコメントをつけることも、深く考えることにはつながっていない。ある程度の浅さのところでぐるぐる回っている感じがある。(そしてやたらと時間が取られる)。これも少しやり方を考えねばならない。

そういうわけで、今日は気になる記事をいくつかツイッターで紹介した。そして最後に1つの3月23日(日)の東京新聞からの記事を紹介する。

公明党の山口代表が22日の松山市の講演で、憲法解釈による集団的自衛権の行使容認問題に関して「政府が一晩で解釈を変えるのは乱暴だ。簡単に認めるわけにはいかない」と語った。また記者団には「(行使を認めない)従来の政府方針を支持してきた。もし解釈を変えるなら、なぜ、どのように変えるのか慎重に検討すべきだ」と語ったそうだ。

さて、微妙な言葉遣いである。「政府が一晩で解釈を変えるのは乱暴だ」というのは「政府がじっくり時間をかけて解釈を変えるのは丁寧だ」とも読める。「簡単に認めるわけには行かない」とは「困難な手間ひまをかければ認める」とも読める。また、「もし解釈を変えるなら、なぜ、どのように変えるのか慎重に検討すべきだ」という言い方は、「なぜ、どのように変えるのか慎重に検討されたなら、解釈を変えることも受け入れる」と読むことができる。

公明党のポジションの取り方からすれば、ある意味わかりやすい。キャスティングボードを握ることによって自分たちの意見を実現するというものだ。しかし、キャスティングボードを握るのは、自分たちの意見を実現するためだ。あくまで手段である。キャスティングボードを握ること事態が目的となると、自分たちの意見が手段となり、目的のためには可変となってしまう。つまりキャスティングボードを握るためなら「平和」も譲るということだ。まあ、解釈改憲は国民的な支持も得られないし、自民党内でも異論が出始めている。公明党もそのあたりはしっかり考えていることだろう。
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マラソン前日、体調悪化。そして東京新聞より

2014年03月22日 | 雑文
春分の日を過ぎ、昼間の時間の方が長くなった。ベランダの桃の木もつぼみがふくらみ、もう少しで花が咲きそうだ。明日は、板橋cityマラソン。風邪はほとんど治ったが、アレルギーの咳が止まらない。3月に入ってからはほとんど計画的な練習はできなかった。前日の昼過ぎだというのに、明日走るという実感が湧かない。

と、ここまで書いて、今は夜の7時過ぎ。何となくだるいと思ったら、熱が37.2℃。まずい、相方からインフルエンザをもらったかもしれない。とりあえず横になろう。

3月20日(木)

1、国の指導要請 新聞協会拒否 琉球新報の記事めぐり(3面)
沖縄県石垣市への陸上自衛隊配備をめぐる琉球新報社の記事について、防衛相から抗議を受けた日本新聞協会は19日、「加盟各社の個々の報道について指導・監督する団体ではなく、申し入れを受け入れる立場にはない」とする文書を同省宛に郵送した。
琉球新報社は2月23日付朝刊で、石垣市の2ヶ所が陸上自衛隊の部隊配備先として絞り込まれていると報道した。防衛相は琉球新報社と新聞協会に「石垣市長選告示日に事実と違うことが報道され、選挙の公正性に影響を及ぼしかねない」として抗議する文書を送付。新聞協会には「正確な報道が望まれる」と加盟社への指導を求めていた。新聞協会によると、個別の記事について官庁が同協会に抗議するのは異例という。

(コメント)
一番の大枠から見れば、安倍政権になってからマスコミなどに対して、情報コントロールする姿勢が強まっている。これは安倍政権のみの傾向なのか、自民党全体の戦略なのか分からない。しかし自民党が再び野党にならないための戦略として情報コントロールを意識するのは理解できる。

人々の意見を同じにするには2つのことを行えば良い。1つは情報の判断基準をそろえること。もう1つは持つ情報をそろえること。同じ判断基準で同じ情報をもてば、そこから出てくる意見は同じになる。

この記事を読むと、少し不思議な気がしてくる。防衛相が求めているのは「選挙の公正性」である。市長選前に事実と違うことが報道されると「選挙の公正性」に影響が出ると抗議しているのだ。防衛相の本心は、選挙で「石垣市への陸上自衛隊配備」が話題になり、結果的に防衛行政に滞るを避けたい、というものだろう。それを「選挙の公正性」という問題にすり替えている。

「事実と違う」ことが問題であれば、「石垣島への部隊配備など計画していない。記事は事実と反する」とか、「絞り込まれた2ヶ所は間違った場所である。正確にはこの2ヶ所である。だから記事は事実と反する」などと抗議するのが筋だ。(少なくとも記事にはそのような事実は書いてない)。おそらく具体的な場所を防衛相に尋ねても、国防に関する情報なので出せないとか、まだ計画段階だから出せない、などと答えるはずだ。つまり、自分は正しい答えを提示せずに、相手に間違っているからやめろ、と言っていることになる。また、こういう抗議が「異例」という点から考えると、今回の抗議は今後の布石だと言える。この手の報道は控えた方が良いのだとマスコミ自身が思うようにガイドしている。

3月21日(金)

1、核燃サイクル与党協議の中 首相了承なく「承認」 核サミットで表明へ(1面)
安倍晋三首相が24、25両日にオランダ・ハーグで開かれる第三回各安全保障サミットで、原発の再稼働を前提に、使用済み核燃料から取り出した核物質プルトニウムを再利用する「核燃料サイクル」の推進を表明することが分かった。核燃料サイクルを「推進する」と明記した政府のエネルギー基本計画に対しては、与党内で反対論が根強く、まだ閣議決定がされていない。政府・与党の意思決定前に、世界に向けて日本が将来も原発を維持する方針を発進することになる。

(コメント)
問題は2つある。1つは、安倍首相の与党無視の姿勢である。内閣総理大臣というの行政のトップとして国会を無視する。これは集団的自衛権の解釈改憲についても同じだし、特定秘密保護法のチェック機構についても同じである。国民が選挙で選んだ国会議員との議論を無視して、行政のトップが自分のやりたいようにやる。これは危険である。憲法の前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」とある。戦争の惨禍の原因を「政府の行為」としている。その政府のトップが内閣総理大臣である。強いリーダーシップは良いことだが、やり方を無視すると単なる独裁になる。

もう1つの問題は、核燃サイクルだ。核燃サイクルとは、使用済み核燃料をそのまま処分せずに、再処理し新たに燃料として使用するという考え方だ。再処理ではプルトニウムを取り出す。プルトニウムを高速増速炉やプルサーマルで燃料として使用することになっているが、同時にプルトニウムは核兵器に転用ができる。だからプルトニウムの保有に関しては、世界各国が神経質になる。

日本はすでに再処理されたプルトニウムをかなり所有している。(たしか40トン以上、核兵器5000発分以上くらいか)。しかしそれは日本の国内の技術ではなく、外国に頼っている。1つにすでに保有しているプルトニウムをどのように処分するかを考えねばならない。

もう一方で、現在、保管されている再処理前の使用済み核燃料をどうするかを考えねばならない。これらもすべて再処理してプルトニウムを取り出し、MOX燃料として使用するのか、あるいは直接処分するのかである。再処理してMOX燃料を作るには通常の核燃料よりもコストがかかる。たしか4倍くらいかかるはずだ。(もちろん電力会社はこれを電気代に乗せることができる)。さらに通常の核燃料に比べて2倍の高レベル放射性廃棄物が発生する。(その処分場が決まらないことが大きな問題になっている)。

すでに処分に困るほどのプルトニウムを持っているのだから、この先の再処理は不要だと思うのが普通である。しかしそれでは困る人たちがいる。電力会社だ。使用済み核燃料は再処理を前提に考えれば「資産」となるが、再処理を止めれば単なる「ゴミ」となってしまうからだ。バランスシート上の問題が出てきて、経営に影響を及ぼす。(もう1つ、青森県での保管の問題もある)。

だからといって、使用済み核燃料をすべて再処理するのは受け入れられない。電力会社を守るために、危険とコストを国民に押し付けることになる。そしてそのことを、政府のトップが与党、国会、国民の意見を無視して勝手に行おうとている。これらすべてをきちんと議論した上で、同様の結論が出るのであればそれも1つの選択だ。しかし議論はなされていない。

このところの日本社会の問題は、必要な手間をかけずに物事を進めようとする風潮だ。あらゆる物事はそれが達成するために必要な手間を私たちに要求する。何を必要としているかはそれぞれの物事によって違う。何が必要かを見極めるためには、自分の思いを横において、その物事を謙虚に見極める姿勢が必要だ。必要以上に手間をかけてもダメだし、必要なだけの手間を省いてもダメだ。その瞬間は、うまくいっているように見えるが、時間に耐えないもの作ってしまうからだ。過去の原発政策は必要な手間を省いていた。その結果が、現在の問題となって現れている。ここで再び手間を省いたら、将来もっとひどい出来事を起こすことになる。自分は死んでしまっているから構わないというのではまずい。それは自分の人生に必要な手間をかけていないことだからだ。






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昨日の新聞から

2014年03月20日 | 雑文
今日は、良い気分で文章を書こう。3ヶ月近く、新聞から気になる記事を拾って、引用したり、要約したり、それにコメントをつけたりしている。政治、経済、国際関係についてはあいまいな知識しか持っていないので、どうしても内容は浅くなる。時間も限られているので、文章も粗雑になる。たまには、力を抜いて書くのも気分転換には良いのかもしれない。

3月18日(火)の東京新聞を材料にする。この日の新聞の一番大きな出来事は、クリミアを巡ってのロシアとウクライナの問題だろう。欧米を巻き込んでの世界的な問題になっている。日本にも外交や経済面での影響が出てくるかもしれない。しかし、本当のことを言うと、僕はロシアのこともウクライナのこともクリミアのこともよくわからない。この問題をどこまで追いかけるべきなのか、それも分からない。僕の日常にダイレクトに影響するものではないが、どこかでつながってもいるはずだ。

日常にダイレクトには影響しないがどこかでつながっている出来事。よく考えれば、この世界で起こっている出来事のほとんどはそういうものだ。たとえば福島第一原発事故は、現在、多くの日本人の日常にダイレクトに影響していないように感じられているかもしれない。でも、それはどこかで自分の生活とつながっている。僕自身は、隠れているつながりをなるべく明らかにし、あえて影響関係を作りだそうとしている。

しかし、そういったやり方を、世の中のすべてに対して行うことはできない。自分が何に対して積極的につながっていくか。その選びに個性や生き方が現れる。それはどのポイントでこの世界と関わっていくかという問題でもある。ロシアとウクライナの問題というのは、いまのところ僕が世界と関わるポイントではないようだ。

ベビーシッターの事件にはそれなりに衝撃を受けた。名前とメールアドレスしか知らない(と思っていた)相手に自分の子どもを預ける、というその事実に驚いた。僕にはできないことだ。とはいえ、預けたという事実だけで母親を責めることはできない。

両極を想像する。本当は自分で面倒を見れるのに、子どもがいると遊べないので、子どもをベビーシッターに預けた、というのが一方の極だ。もう一方には、子どもを育てるためには自分が働かねばならないが、そのためは子どもを預けねばならない。その預け先がベビーシッターしかなかったというものだ。前者と後者では母親に対する社会の見方は大きく変わるだろう。このあたりはもう少し情報が入らないと僕にも分からない。しかしどちらのケースでもメディアはそれに見合ったストーリーを用意して、事件を消費していくだろう。

前者であれ、後者であれ、この母親自身の問題というよりも、社会的な問題として捉えた方がよいと思う。自分が遊びたいために危険な状態に子どもをおく人がいることも問題だし、そんな危険な状態に子どもをおかねば働くことができない人がいるのも問題である。おそらく同様の状態の人たちはたくさんいるはずである。それぞれ個人に問題を投げ返しても解決はしないだろう。

安倍ちゃんの解釈改憲に対して、自民党内からも異論が出始めている。古賀誠・元自民党幹事長などは「愚かな坊ちゃん的な考え方だ」と言ったそうだ。とても良いことだと思う。僕も安倍首相には、お金持ちのわがまま坊ちゃんの印象を持っている。家や親の力を自分の力と勘違いして、小学校とかでクラスを仕切ろうとしている子どものように見える。大人に叱られるか、痛い目を見るかしないと分からない。この場合、痛い目というのは国民が背負うことになるので、誰かが早く叱らねばならないと思っていた。自民党内から異論が出るのは良いことだ。

ちなみに、石破幹事長は「(集団的自衛権)行使容認は選挙公約だ」と言っているが、自民党が公約したのは閣議決定による解釈改憲ではない。国家安全保障基本法の制定による行使容認である。やれやれ、また嘘か。
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今月はわずか30㎞しか走っていない

2014年03月18日 | 雑文
日曜日には板橋cityマラソンだ。本来なら今日の時点で、今月の走行距離は120㎞くらいのはずであった。ところがわずか31㎞だ。まだ咳も止まっていない。(そして今日の夜、相方がインフルB型であることが判明、きな臭い)。ちゃんと参加できるのだろうか。1月末の若潮マラソンは風邪で不参加だった。(その前のレース、昨年の板橋cityはねん挫で参加できなかった)。このところ、マラソンとの相性が良くない。この状況を考えると、レースの中身よりも、何とか参加することが大切なようだ。咳を治して、インフルがうつらないようにしよう。

3月17日(月)

1、これでいいの?エネルギー政策 原料海外依存の「準」国産
日本は資源が乏しいとされる。政府は、原子力を「準国産エネルギー源」と位置づけ、原発は資源問題を解決する切り札になると強調する。核燃料が「国産」というのは本当なのだろうか。

(コメント)
コメントというよりも記事の内容を要約する。
・日本には2年分程度の核燃料の備蓄がある。半年程度の石油に比べると、たしかに備蓄面では優位である。
・核燃料の原料・天然ウランはカナダ、カザフスタン、オーストラリアなどが原産国。日本にある核燃料は、米国、フランス、英国、ロシアで核燃料用に加工したもの。その意味では、核燃料は国産ではなく100%輸入。

→ではなぜ政府は「準国産」というのか?(「純国産」ではない!)
・使用済み核燃料からプルトニウムを取り出して再利用すれば、輸入と国産の中間の「準国産」になるとの理屈だ。
(何やら怪しい話だ。食品の産地表示のようなごまかしを感じる)。

→でも問題は山積?
・使用済み核燃料の再利用、つまり核燃料サイクルには、「再処理工場」と「MOX燃料工場」が必要。「再処理工場」は未稼働で、「MOX燃料工場」は建設途中。新基準により審査もまだだ。当然、しばらくは再利用の工程も外国依存になる。

→かりに国内でMOX燃料が作れ、通常の原発でプルサーマル発電の名で使われるようになっても、今度は別の大きな問題が発生する。
・MOX燃料を燃やすと、通常の核燃料に比べ、高レベルの核のごみが2倍発生する。ただでさえ最終処分場は決まらないのに、もっと広い処分場が必要になる。


2、再稼働反対 立地議員団結 避難計画6割未策定 規制委の対応問題視
住民避難については、事故の際の避難先や経路などを避難計画として定めることになっている。…だが、避難計画の策定は再稼働の前提にはなっていない。政府は原発再稼働の条件となる規制委の安全審査と防災計画の関係について「(安全審査のための)新規制基準には防災計画にかかる事項は含まれていない」と説明している。…政府の原子力防災会議によると、原発の半径30キロ圏内にある21道府県の135市町村のうち、避難計画がすでにあるのは、全体の43%、58市町村にとどまる。

(コメント)
安倍首相の言葉が面白い。避難計画がなくても再稼働を進めるかどうかについて、国会で「できないという後ろ向きの発想ではなく、どうすれば地元の理解を得られるかが重要だ」と答弁したそうだ。避難計画がなくても再稼働できることが「前向きな発想」ということだ。原発立地の人たちが聞いたらなんと思うだろう。避難計画がないことが「前向き」で、それを理解して欲しいそうだ。事故が起こっても避難計画はありません。でも再稼働したいんです。それが「前向き発想」というものです。
やれやれ。我が国の首相は「前後不覚」に陥ったようだ。一般の庶民を完全に見捨てている。確かにこれを「前向き」と受け止められる人たちは存在する。たとえば東京電力。あるいは経済界。彼はそういった人たちの利益を代弁することが「前向き」だと思っているのだ。おそらく自身を最高権力者だとは思っていても、国民の代表だとは思っていないだろう。
先日の記事に、小野寺防衛相が「原発事故に備えて、千人規模の化学部隊を自衛隊にも……」などと言ったとあった。住民の避難計画の準備は「後ろ向きの発想」としておきながら、自衛隊をいじることには一生懸命になる。言っていることもやっていることも、庶民の生活からすればちぐはぐである。
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おまけに我が妻がインフルです

2014年03月17日 | 雑文
先週の火曜日にひいた風邪が治りきらない。おかげで今度の日曜日のマラソンのための最終調整ができなかった。当然、合気道の稽古もできない。新聞も読んではいるが、たまっている。そして世間は春になっていた。

その間、『日本の公安警察』(青木理著、講談社新書)と『世界地図の下書き』(朝井リョウ著、集英社)を読んだ。「公安」という言葉は良く見聞きするが、イメージでしか知らなかったので基本的なことを押さえるつもりで読んだ。
Googleで「公安」と検索する手もあるが、それだと単なる情報集めになってしまう。本を1冊読むと、一見無駄なこともたくさん載っているが、それを読むことで知識が広がる。今回も、戦後の歴史について学び直せた。

『世界地図の下書き』は図書館で借りた。何ヶ月も前に予約したのがようやく届いた。あまりに前のことなので、何でこの本を予約したのか自分でもさっぱり思いだせない。読む必然性を感じられないまま読んだ。(僕の奥さんは「子どものために借りたんじゃないの」と言っていた)。本には3種類ある。「この本を読めなかったら自分の人生の大きな損失だ」、「こんな本を読むのは時間の無駄だった」、そして「読んでいるときは楽しいが、別に読めなくても構わなかった」の3種類だ。この本は最後のタイプの本だ。

本以外には、TSUTAYAの宅配サービスに入った。月額980円で月4本ほどDVDなどが見れる。郵送のやり取りと返却日の緩さがあるのでよさそうだ。ふだん忙しく映画を見れないので、何とかねじ込もうと試してみた。森達也などの『3.11』と是枝裕和の『花よりもなほ』が届いた。早速、『3.11』は見た。映画としては粗雑なものだった。テレビのドキュメンタリー番組として見せられても気づかなかっただろう。遺体を撮影したり(実際には遺体の上にはシートが被さっている)、震災で金もうけ、など批判があったそうだが、僕としてはそれは気にならなかった。

さてさて、新聞は先週の水曜日から溜まっている。やり方に無理が出ているのかもしれない。とはいえ「より良いやり方を考えよう」と言って手を止めるのは最悪だ。(こういう時の「より良い」という言い方は、逃げるための合理化に過ぎない)。とりあえず手を動かそう。


3月12日(水)

1、節電量 原発約20基分 再生エネは進まず (3月12日)
事故前の2010年と事故後の2012年の8月分を比べると、原発の発電量は9割以上に当たる240億㌗が時が減った。同時に節電も進み、火力などを含めた発電総量は約130億㌗時が減った。事故前は全国で40基前後が稼働していたことから、単純計算で20基近くの原発の発電量分が節電で賄われたことになる。
経済産業省は昨年、原発の発電量低下分を火力で賄ったとして、負担が3兆6000億円増えたという試算を公表した。だが、実際は発電量低下分の半分は節電で補った。負担増の原因の一つは円安や燃料の高騰で、茂木経産相も認めた。

(コメント)
まず、政府などの発表する数字はそのまま信用できない。何らかの粉飾がされている。原発20基分の節電ができたということは、その分はすぐにでも廃炉を決定できるはずだ。再稼働する原発の審査ばかりに前のめりになるのではなく、その一方で廃炉にする原発をなるべく早く決定するべきだ。もちろん電力会社はそれができない。バランスシート上で原発が資産ではなくなるからだ。
エネルギーとしての電気は量としては足りている。事故後3年、原発はほとんど稼働しなかったが、電気が足りていた。今後、再生エネが増えればなおさらだ。少なくとも、電気が足りないから原発が必要、という話はもうあり得ない。いま話題になっているのは、発電コストやCo2などの環境問題だ。このあたりも政府の数字を疑いながら確認していかねばならない。(疑うというのは、嘘だと決めてかかることではない。)


2、原発停止で3.6兆円増のトリック 経産相「3割は資源高・円安」(3月12日、こちら特報部)
「原発停止で3.6兆円の国富流出」。政府・与党が再稼働の必要性を訴える際に引用している経済産業省の試算はトリックだった。火力発電のたき増しで燃料費が増えたはずだったのに、茂木敏充経済産業相が最近、3.6兆円のうち約3割は資源相場の上昇や円安の影響だと認めたのだ。

(コメント)
先日、神保哲男のビデオニュースで元経産省の古賀茂明さんの話を聞いた。電気料金が高いと中小企業が困るなど政府は言うが、中小企業では電気代よりも円安の方がよっぽど厳しいとのことだ。政府や電力会社が再稼働を目指すのは自分たちの利権構造を維持するためだそうだ。そのためには「もんじゅ」まで動かす「核燃サイクル」をどうしても死守しなければならないそうだ。そういうことを隠して「国民の皆さんのためを思って……」と言っているのだそうだ。


3月13日(木)

1、原子力規制委職員 経産・文科に2割戻る 「推進官庁と一線」形骸化
原子力を規制する機関として独立性を保つため、推進側の官庁に職員を異動させない「ノーリターンルール」を定めている原子力規制委員会事務局が、発足してわずか一年半の間に推進側の経済産業、文部科学両省へ2割近い職員を戻していたことが分かった。

(コメント)
なぜこんなにも、約束やルールを守ろうとしないのだろうか。当初5年間は例外規定はあるが、それもおそらく守らないための免罪符として用意してあったのだろう。約束やルールを簡単に破るのは、誰も怒らないからだろう。官僚が約束を守らない。政治家が公約を守らない。人々がバカにされているのだ。約束を反古にされ、ルールを破られる。それでも何も言わない。試されているのは、国民の方なのだ。


2、黄砂多い日 救急搬送増 国立環境研 PM2.5も影響か 長崎市で調査
中国大陸から飛来する黄砂の濃度が高い日は、病気による救急搬送の数が増えるとの研究結果を、国立環境研究所がまとめた。「黄砂とともに飛んでくる大気汚染物質が影響している可能性がある」と説明している。…黄砂濃度が高い日は黄砂が無い日に比べ、搬送数は12%多かった。心臓病と脳卒中の循環器疾患に限ると21%も増えた。

(コメント)
これはなかなか微妙な問題だ。「黄砂で救急搬送が増える」のであれば、原因は自然現象となる。ところがPM2.5などの「大気汚染物質」が絡んでくると、原因は人間の活動となる。相手は尖閣問題などで日本ともめている中国。「金もうけのために、汚染物質を日本に流すなど、中国許すまじ」など、ナショナリズムの問題と変に絡むと厄介である。
別の角度から。この記事の「(汚染物質を含む)黄砂が救急搬送増の原因では」に異を唱える人はあまりいないだろう。(おそらく中国当局は否定するだろう)。科学的な推論としてまっとうに感じられる。これと同じように推論したら、福島で甲状腺がんが増えている事態をどう受け止められるか。おそらく原発事故による影響だとするだろう。(否定するのは政府よりの専門家である)。こういうとき、個人的には「中国」や「日本」という国家の枠組みで見るよりも、「被害を受けている弱者」と「政府や巨大企業などの強者」という図式の方で考える。政府の人々に対す姿勢というのは、どの国でもあんがい似ているのかもしれない。


3月14日(金)

1、ヘイトスピーチ自治体苦慮 施設利用 在特会に許可
在日韓国・朝鮮人の排斥を訴える「在日特権を許さない市民の会(在特会)」が東京都豊島区の豊島公会堂で16日に集会を開くことが分かった。13日の区議会では、会場を貸す判断をした区に経緯を問う質問が出た。憲法が保障する集会の自由を尊重しながらヘイトスピーチ(憎悪表現)を行ってきた団体とどう向かい合うか、地方自治体の判断が問われている。
2、横断幕 J浦和に無観客試合 「重大な差別」厳罰

(コメント)
そういう編集をしたと言えばそれまでだが、新聞の1面の2つの記事が差別絡みである。僕には「国」の違いにもとづく差別というのがピンと来ない。国によって異なる国民性のようなものはあると思う。しかしそれは、一人一人がそれぞれ風土で生活することで自然と内面化されたもので、遺伝子情報のように決定的なものではない。そして国民性の違いを差別と結びつける考え方を認めるならば、日本人であるだけで差別されても構わないと同意署名しないと筋が通らなくなる。
また、「特権」なるものが違法なのか否かを考えねばならない。違法なものであれば法律に照らして処罰なり処分なりをすれば良い。違法ではなく制度的なものであるなら、矛先は制度設計をした立法や行政機関に向ければ良い。
どこの国の人間にも「良い人」もいれば「悪い人」もいる。大切なのはどの国の人間かではない。良い人間か否かである。

3、ネット人権侵害が最多 13年957件、前年比42%増 法務省
法務省は14日、全国の法務局が2013年に救済手続きを始めた人権侵害事案の概要を公表した。無断で個人情報を掲載するなどインターネットを使った人権侵害が急増。…内訳は、住所や電話番号、顔写真を無断で掲載するプライバシー侵害が600件、掲示板での中傷といった名誉棄損が342件、各法務局はプロバイダーに削除を求めるなどした。

(コメント)
ネットが人間にどんな変化をもたらすのかは常に気になっている。便利になること、金もうけの話からネットは語られる。どちらもプラスのイメージのことだ。しかしある物事にはプラスの面とマイナスの面が等しく存在している。どちら側の力が強くなるかは私たちの運用次第なのだ。
近ごろ思うのが、Googleなどの検索機能の危険性だ。気になったことが簡単に調べられて便利になった気がしているかもしれない。しかし裏を返せば、何かを手に入れるために手間ひまをかけなくなったことを意味する。ネットのない時代、何かを調べるのとても手間ひまがかかった。図書館や書店に足を運び書棚を端から調べたり、知っている人に尋ねたりしなければならなかった。あまりにものを知らないと、気になっていることを調べることすらできなかった。いっけん無駄な情報にも目を通さなければならなかった。(目を通さないと関係あるか分からないからだ)。
でもそんな情報同士が時間とともにつながりだし、自分なりの知識の網のようなものができ上がってくる。そういう網ができ上がれば、未知の情報に接したときにもそれなりの判断ができるようになる。この知識の網のようなものがいずれ教養となっていく。
検索機能は確かに便利だ。しかしそこでは「知るためのプロセス」が実感できない。「知りたいけど分からない」という宙ぶらりんの状態を味わえない。宙ぶらりんの状態に耐えることで忍耐力もつくし、想像力も養える。近ごろ、世の中では間違いを許さなかったり、すぐに白黒はっきりさせたがる人が多い。こういう心性もネットと何らかの関係があるのだろうか。


3月15日(土)

1、STAP研究「白紙」 小保方氏ら論文撤回同意 理研、画像流用認める

(コメント)
これについては内容の紹介は必要ないだろう。この出来事、小保方さんという個人についてはまったく興味はない。東京新聞でも以前、夕刊の1面トップでかっぽう着姿の彼女を載せていたように記憶しているが(最終面だったかな?)、研究そのものよりも小保方さんという個人に焦点を当てているのを見て、ちょっと違和感を覚えた。
少し前には佐村河内さんの事件があったので、似たような話が続いたように見えるが、本質的には少し違うように思える。(話題になりそうな人を膨らまして持ち上げるというマスコミの姿勢は同じようだ)。彼女のケースは理研という日本でもトップの研究機関での出来事だし、ネイチャーの編集チェックも通っている。つまり個人の問題というより、ある専門集団の問題ということになる。
私たち素人が専門家の意見に疑問を呈することはかなり困難だ。それなりの専門的な知識がないと、疑問点も説明できないからだ。直感的に何かおかしいというだけでは説得力がない。ネット上にあふれる反知性的な言説と同じになってしまう。素人が専門的な領域とどのように関わるか、これだけ世の中が専門的になっているのだから、そのあたりをきちんと考える必要がありそうだ。原発問題なども同じ構図だ。ちなみに脱原発に舵を切ったドイツでは、原発の継続か廃止を決めるメンバーには、原発の専門家は一人もいなかったそうだ。


2、文科省是正要求 竹富町従わない意向 14年度も独自教科書
採択地区協議会が選んだ中学公民教科書を拒否したのは違法として文部科学省が是正要求を出したことを受け、沖縄県竹富町教育委員会の慶田盛安三委員長は、要求への諾否は示さず、24日の教育委員会定例会で対応を協議するとした。独自に採択した教科書についてはすでに発注済みであることなどを理由に2014年度も使う意向を示した。

(コメント)
この記事は引っかかる。直感的に何かおかしいと思う。しかしうまく指摘できない。自分の知識不足を感じる。沖縄について、立憲主義国家における政府と教育の関係について、昨今の教育委員会改革について。この3つに関する基礎知識がないと問題そのものを捉まえられない気がする。
竹富町、石垣市、与那国町は同じ教科書採択地区だ。三町の協議では育鵬社版を選んだ。竹富町は育鵬社版は保守色が強いので独自に、東京書籍版を採択した。それにより、竹富町は国の教科書無償配布の対象から外れた。有志の寄付で東京書籍版を使うことにした。
太平洋戦争では本土の捨て石となって地上戦が繰り広げられた。住民の4人に1人が死んでいる。おまけに本土が独立しても沖縄はアメリカの占領下に置かれた。戦争に対する思いは本土の人間とは違うだろう。保守的な教科書を嫌う人がいてもおかしくない。
あるいは、公教育なのだから決まりを守る必要があるという人もいるかもしれない。僕自身整理が必要だが、公教育と政府の行いたい教育は別だろう。(これはNHKが公共放送であり、国営放送でないのと同じ構図かもしれない)。政府とはその時々の権力である。その権力が公教育に介入することは憲法23条「学問の自由はこれを保障する」とぶつかることになろう。


3月16日(日)

1、原発事故対応へ「化学部隊拡充」 防衛相、福島第一視察
小野寺五典防衛相は15日、東京電力福島第一原発を自衛隊ヘリコプターで上空から視察した。視察後、仙台市内で記者団に「今後の原発の事故や災害で、自衛隊が能力を発揮できるように千人規模の化学部隊をさらに拡充して、さまざまな研究を積み重ねていきたい」と述べた。
小野寺氏は「原発事故があった時に自衛隊としてどのような対応をすべきかを深く考えさせられた。住民の避難誘導や輸送など自衛隊員が重要な役割を担う。細かい計画を立て、装備を含めて十分な準備をしたい」と述べた。

(コメント)
何か引っかかる。原発は長らく安全だと言われてきた。そしてあの福島第一原発の事故が起こった。そしていま世界最高水準の安全基準で再稼働を目指している。地域の避難計画が立たなくても再稼働しようの勢いだ。その意味は、事故など二度と起こらないということである。少なくとも、国民には「世界最高の水準の安全基準なので事故はいっさい起こらない」と思わせようとしている。(「世界最高水準の安全基準をクリアしても事故は起こるかもしれません。それでも再稼働しましょう」と言ったら、国民のほとんどは反対するだろう)。
その一方で「今後の原発の事故や災害で……」と言う。これは今後の原発事故を想定していることになる。最悪のケースを想定することが悪いのではない。想定される最悪のケースを国民に周知せずに、さまざまな施策を進めていることが問題なのだ。その手のズレがこういうところに現れる。こういう言葉には敏感に反応しなければならない。少なくてもマスコミは突っ込むべきだ。
「千人規模の化学部隊」が必要だという。これは明らかに事故を起こした原発や放射能汚染がかなり高い場所での作業を想定している。その一方で、「住民の避難誘導や輸送など自衛隊が重要な役割を担う」と言っている。今回の震災で、自衛隊は「住民の避難誘導や輸送」を行わなかったのか。「千人の化学部隊」と「住民の避難誘導や輸送」は別物ではないかと思う。
震災時、福島原発の事故にも関わらず米軍は「トモダチ作戦」を行った。もちろんベラルデモクラシー国家として価値観を共有していることは大きかっただろう。(現在ではそれも少し怪しくなってきた)。その一方で、あの作戦は核爆弾投下後の放射能汚染地域での軍事オペレーションをシミュレートしたものだと聞いた。おそらくそういう部分もあったのだろう。日本を助けることと軍事オペレーションが同時にできるなら、それに越したことはない。僕がアメリカのしかるべき立場の人間ならそう考える。
だから今回の「千人規模の化学部隊」も場合によっては、今後の集団的自衛権の行使をにらんでのことかもしれない。日本で原発事故が起こったら人々を助けるのはもちろんだ。(こんなずさんなやり方をしていればいずれ起こる)。その一方で、集団的自衛権の行使ができるようになれば、アメリカとともに核汚染地域での軍事オペレーションをすることになるかもれしない。その準備も同時にしておく。僕が立案者ならば当然、そう考える。

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震災から3年

2014年03月12日 | 雑文
今日は3月11日の東京新聞から。1日遅れだ。早いもので震災から3年がたった。何となくだが、3年を一区切りに前向きに行こうという雰囲気が出てきそうな気がする。ちょうど東京五輪も決まったことだし。たしかに、過去の出来事に捕らわれすぎるのは良くない。だからといって過去の出来事をすっかり忘れ、無かったことにはできない。

たとえば、事故で腕をなくしたとする。事故を忘れることはできるが、腕がなくなった事実は消えない。一区切りにして前向きに行こう、と言える人は、もしかしたら「腕をなくすような」経験をしなかった人なのかもしれない。あの震災は、日本にとって「腕をなくすような」事件だったと個人的には思っている。だから、震災前の日本に戻ることはできない。そして、腕をなくすような危険をはらんだ社会は変えた方がよいと思っている。


1、「輸出で稼ぐ」変化 経常赤字最大 GDP下方修正 生産拠点海外に 燃料輸入かさむ (3月11日)
輸出で稼ぐ日本経済の収益構造に「潮目の変化」が訪れている。財務省が10日発表した1月の経常収支は1兆5890億円の赤字で、赤字幅は過去最大に。一方、内閣府がこの日発表した2013年10月~12月期の国内総生産(GDP)の改定幅は年率換算で0.7%増となり、速報値から0.3%下方修正された。2つの統計に共通するのは輸入と比較した場合の輸出の伸び悩みだ。これが成長が減速する原因になっている。

(コメント)
経済の問題は難しい。個人の生活で考えれば、とりあえず衣食住がそこそこ満足できて、ある程度将来が見通せるような状況であれば、まあ満足できる。簡単に言えば、額に汗して働いていれば笑顔で生きて行けると実感できればよいということだ。しかしそんな庶民の生活に、日本経済とか世界経済とかが大きな影響を与えるから厄介だ。自分の生活を自分の努力だけではコントロールできないということだ。

近代以前であれば、自分を超えたコントロール不可能な部分は「自然」であった。地震や津波、日照り、冷害などだ。コントロールできない分、人間は自然に対して謙虚になり、また自然をよく観察した。人間を自然に合わせる方が生き残れるからだ。あるいはそこに「カミ」を見て、お祭りをすることで調和を保とうとした。

しかし現在の日本で、私たちに影響を及ぼすコントロール不可能なものはグローバル経済だ。TPPなどでルールが変われば、人によったらまったく人生が違うものになってしまう。そんな時、私たちが頼ってしまうのが政治家なのかもしれない。表向き政治家がその手の政策を公表し、また諸外国と交渉できるからだ。

安倍政権は経済政策を全面に押し出すことで、衆参両院で選挙に勝利した。金融緩和、財政出動、成長戦略の3本の矢からなるアベノミクスだ。そしていまのところ経済はいい感じのようだ。(元経産省の古賀茂明氏に言わせると、効果に時間がかかり、もっとも重要な成長戦略がないそうだが)。個人的には、経済が良いことを言い訳に、国の形を次々を変えようとしていること、そのことにより欧米から違和感を持たれていることを危惧している。

この記事は、もしかしたらアベノミクスの読み違いが現実として現れてきたものかもしれない。アベノミクスというのは安倍首相本人が考えたものではあるまい。ブレーンが考えたのだろう。第一次安倍内閣が「お友だち内閣」と言われたことや、NHKの人事、法制局長官の件などを考えると、首相のブレーン集団には組織的な危うさを感じる。異なる意見を容れないということだ。異なる意見を容れなければ、議論をへずに即断即決できる。スピード感や力強さは演出できるが、異なる意見が現実化したときにはもろいかもしれない。気づいたら、やっぱり経済は停滞していて、国の形だけが変わっていた。そんな日本にならないように気をつけねばならない。


2、でももう一度確認 原発の電気は安くない フクシマ忘れ 政財界「再稼働」大合唱中
  事故対策費、核のごみ無視…「場当たり的だ」 (3月11日、こちら特報部)
原発の再稼働は政財界の共通の悲願だ。……推進派が掲げる再稼働の理由は、相も変わらず「経済性」だ。安倍首相は「国民生活や経済活動に支障がないよう責任あるエネルギー政策」を繰り返す。米倉会長も貿易収支悪化について「化石燃料の輸入増加が影響している」と説く。あらためて確認しておかなくてはならないのは、原発の発電コストは、他の発電に比べて、それほど安くないという事実だ。
民主党政権下のエネルギー・環境会議の「コスト等検証委員会」は2011年12月、原発の発電コストを1㌗時当たり最低8.9円(施設利用率70%)と試算。25.1円の石油火力(同50%)よりは安いが、石炭火力の10.3円、液化天然ガス(LNG)火力の10.9円(それぞれ同80%)と大差ない。
さらに検証委のメンバーだった立命館大の大島堅一教授(環境経済学)は、この試算を「原発事故の影響を過小に評価していた」とみる。「損害賠償や除染、廃炉の処理などの事故処理費用は、試算を出した当時よりも跳ね上がった」。検証委が試算の基にした事故処理費用は総額5.8兆円だが、大島教授が再試算したところ、今年2月現在で14兆円に膨れ上がった。「15年以降、全基稼働し、40年間運転する前提で単純計算すれば発電コストは1㌗当たり12.6円かかる。全基を再稼働できなければ、コストはさらに増える」
加えて、LNGの発電コストは下がる傾向にある。米国の「シェールガス革命」のためだ。大島教授は「原発とLNGのどちらが経済的か。現状を踏まえて再試算するべきなのに、政府は2年も前の数字で議論している」と批判する。
経済的に割が合わないのに政財界はなぜ原発にこだわるのか。元経済産業省の古賀茂明氏は「首相は貿易赤字で崩れかけたアベノミクスの筋書きを取り繕おうとしている」と考える。「再稼働をして燃料の輸入額を減らせば、短期的には貿易収支の改善につながる。消費税増税の影響を打ち消したいのだろう」。

(コメント)
記事の引用が長すぎる。これでは読む人の負担にしかならない。こういうのは改めよう。簡単に言えば、原発の電気料金はそれほど安くないということだ。具体的な数字も出せるし、その算出方法も明示できるということだ。

ここで問題にしたいのは、細かな数字ではない。「なぜ原発推進側は、いつも自分たちの都合のよいデータを作ってくるのか」ということだ。事故前は、原発が安全だという神話を振りまいた。津波や全電源喪失を想定していた研究者はいたが、そういうものは無視した。事故当時は、夏の電気が足りなくなると言って大飯原発を再稼働させた。実際には電気は足りていた。そして今度は、原発は電気料金が安いといって再稼働を目指す。しかし、その数字の出し方は我田引水的だ。事故後の放射能の影響についてもそうだ。なるべく影響がないような話にしていく。『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』を読むとよくわかる。

私たち庶民のメディアリテラシーとして、原発に関しては推進側の言うことは間違っている可能性が高い、と考える必要があるのではないか。(反対派の言うことに対しても基本的には同じだが)。以前にも書いたが、自分の内面と外側を等しく疑うことが、知性にとってもっとも必要なことである。
 

3、玄海原発停止 温排水減り 帰ってきた本来の海 (3月11日)
運転停止が続く九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)のそばの海域で、生態系が変化している。独自に潜水調査した地元ダイバーが明らかにした。キビナゴやギンガメアジなど南方系の魚がいなくなり、稼働時には見られなかったコンブ科の海藻が育っているという。研究者は「原発からの温排水により海水温の上昇が止まり、本来の生物が戻ってきた」とみる。京都大学の益田准教授は「原発稼働時、近くの海水は周辺より約二度高い。関西電力高浜原発(福井県)のそばに潜っても、南方系の毒ウニが死滅し、特産のムラサキウニが増えていた」と話す。

(コメント)
原発がすごい量の温水を海に流していること、それにより近隣の海の生態系が変わっていることをどのくらいの人たちが知っているのだろうか。地球温暖化のCO2排出を抑えるために、火力ではなく原子力発電という話は聞く。海を温めるのも温暖化ではないのかと思う。(もちろんその規模や影響の違いを引くかしていないから、そういうことを思いつくという程度の話だ)。

あるいは原発の温排水は火力発電のCO2排出よりも環境への影響は格段に少ないのかもしれない。ただ、どちらも人間の営みのために自然(や生物)に負担をかけていることに変わりはない。そういう近代的な環境破壊を伴う成長がそろそろ世界的に曲がり角に来ていた。そんな時に、3.11の震災は起こった。

おそらく大きな問いは「火力か原発ではどちらがよいのか」ではない。「環境破壊を伴うような成長」か「長期にわたり環境と調和できる世界」のどちらを取るかなのだ。どのような形でエネルギーを生産し消費するかは、その枠組みの中で決められるものだ。震災3年を機に、もう一度、そういう枠組みから問いなおした方が良いだろう。

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『東京新聞』より、5日分まとめて

2014年03月10日 | 雑文
風邪を引きかかっている。板橋cityマラソンまであと2週間を切った。(そして今日、ゼッケンやチップなどが郵送されてきた)。一月末の館山若潮マラソンは風邪で棒に振った。何だか今年はうまくいかない。これも道元の言う「時節の因縁」というヤツなのだろうか。まあいい、できることはできるのだから、しっかりやっておこう。

今日はたまった新聞を処理する日にした。ブログに書かなくても新聞は読んでいる。数日分、さぼっても誰からも責められることもないのだが、自分で決めたことは守るようにしている。自分で決めたことを守れないと、人に命令されるような気がして仕方がない。わがままなのだ。



3月5日(水)
1、福島第一1号機非常用電源喪失 津波「原因ではない」 伊藤弁護士が論文 
  規制委触れず 揺れる再稼働の根拠 (こちら特報部)
福島原発事故でメルトダウンの原因となった非常用電源の全喪失。東京電力は津波が原因と主張しているが、「福島第一原発1号機(の電源喪失)は津波ではありえない」という論文が発表され、波紋を広げている。原子力規制委員会は公式見解を示していないが、推進派の「津波対策さえすれば、再稼働できる」という理論を根底から揺さぶっている。
元国会事故調査委員会の委員だった科学ジャーナリストの田中三彦氏らと、協力調査して事故原因を調査、分析した伊東良徳弁護士が論文で発表した。伊東弁護士は、福島第一原発から1.5㌔沖合に設置された波高計のデータや東電が撮影した津波が原発を襲う写真の分析を進め論文をまとめた。
それによると、東電が「津波によって1号機の非常用電源がすべて失われた」とする時刻より、津波が1号機に到達したと推測できる時刻が2分以上遅いことが分かった。津波で浸水する前に、地震動など何らかの理由で、非常用電源が壊れていたことになる。

(コメント)
この問題にはきちんとケリをつけて欲しい。電源喪失が津波によるものか、地震によるものか。日本人は、こういう検証を自分たちの力で行えるようにならないといけない。少なくとも、政府や東電はこの手の問題に正面から向き合うことなく、津波を原因にして、再稼働に突っ走ろうとしている。
社会が不安定な時期だからこそ、物事を進めるためにはきちんとした手続きが必要だ。求めるものを手に入れるためには、手順を省いたり、勝手に変えても構わないというのは良くない。多くの人々が感情的になったときに押さえが効かなくなる。
必要以上に時間をかけてはいけないし、必要な時間をかけないのもいけない。そして必要な時間は人間が決めることではなく、その「出来事」が要求する。あたかも半減期の時間が決まっているように。あたかもカップヌードルに3分必要なように。


2、集団的自衛権の行使 解釈改憲まい進 有識者会議「お墨付き」
「自衛のための必要最小限の実力行使に、集団的自衛権も含めるように憲法解釈を変更するべきだ」。北岡伸一国際大学長は先月21日の会見で説明した。北岡氏は、安倍首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)座長代理を務める人物だ。
北岡氏は集団的自衛権行使のための五条件を示した。「1、密接関係国への攻撃」「2、放置すると日本の安全に大きく影響」「3、当該国からの要請」「4、第三国の領域通過は許可をとる」「5、首相の総合的判断と国会の承認」だ。このうち問題なのは2だ。明治大の西川教授は「どうとでも解釈が可能だ。どんなケースでも使えてしまう」と不安視する。
実は、安保法制懇の正当性自体を疑問視する声は少なくない。西川氏は「安倍首相の思い描く結論を出すために派詰まったようなメンバーだ。議論をしてもしなくても、結果は見えている」と指摘した。

(コメント)
これも手続きの問題として気になる。集団的自衛権を行使したれれば、きちんと改憲すればよいの。国民的な議論を起こせばよいのだ。自分と同じ考えの人間を集め、その会議に意見を出させる。それを根拠に国を大きく変えるようなことをする。自由と民主主義の否定にもつながる。こんなことを続けていると、アメリカやEUから「日本は自分たちとは違う価値観を持った国民なのか」と疑われてしまう。(少なくとも、安倍政権はそう思われ始めている)。それは日本が外交的に中国を牽制するには不利なことだ。
とはいえ、日本が集団的自衛権を行使できるようになり、アメリカの軍事的な負担を減らせるようになるのは、アメリカの望みでもある。ただ安倍政権は危険視している。となると、集団的自衛権の解釈改憲までは見逃す。その後、アベノミクスの失敗で退陣というようなシナリオでも描くのではないか。


3月7日(金)
1、役員の辞表預かっていません(回答全45社) NHK会長発言で本紙調査 出身企業も「ない」
NHKの籾井勝人会長が理事全員に辞表を提出させていた問題について、東京新聞が東証一部上場企業を中心に大手企業50社に緊急アンケートをしたところ、経営トップが役員らに辞表を出させていると回答した企業はゼロだった。
辞表提出について籾井氏は「一般会社でよくあること」と国会答弁したが、籾井氏の認識は一般的な大手企業の慣行とかけ離れていることが鮮明になった。籾井氏は三井物産副社長と日本ユニシス社長を歴任しているが、三井物産は「役員から辞表を預かることはない」と言明。日本ユニシスも「聞いたことがない」とした。

(コメント)
これも東京新聞らしい。見方によっては、子どもじみてるとも言えるが、個人的にはこういうしつこさは好きだ。ネットでの言説もそうだが、このところ「言ったもの勝ち」という風潮がある。裏を取っていないことでも言ってしまえばよい。とくに発言が社会的に意味を持つような人に対しては、いい加減な発言を許すべきではない。きちんと裏を取ったり、確認したり、説明できる言葉を使わなければならない。社会が劣化する。


3月8日(土)
1、伝言「東京空襲」 「戦争忘れさせたい」GHQ 慰霊さえ不許可
「日本国民に戦争を忘れさせたい」。戦後、東京都が連合国総司令部(GHQ)の意向を基に、墨田公園(東京都台東、墨田区)への戦災者慰霊塔の建立を不許可とした文書が、都公文書館にある。

(コメント)
記憶について考えさせられる。村上春樹の処女作『風の歌を聴け』で、主人公の僕は小指のない女の子とこんなやり取りをする。「ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えてないわね。」「だろうね。」と僕は言った。高校生のころに初めて読んだ。そして存在と記憶の不思議に触れた。
去年、東北の海沿いを車で走った。津波にやられた場所は一面に雑草が生えていた。わずかに残る建物の基礎のコンクリートがなければ津波のことなど思いつかないくらいだ。記憶している限り存在は伝わる。
戦争を体験した世代が減ってくる。とくに保守政治家が減っている。もちろん戦争の記録は残っている。しかしそれは直接体験されたものではない。戦争を体験し記憶する人が減ることで、その存在は薄れていく。薄れるが消えない。見えにくい形で人々の中に入り込む。戦争を好む発言をする人は、戦争の存在が薄いのだろう。太平洋戦争の南方の戦線でもよい。自分が戦場にいることを想像すれば、それが自分の求めていることか否か分かる。記憶が薄れるとき、必要なのは観念的な言葉ではなく、想像力だ。


3月9日(日)
1、まだ知らないフクシマ 3.11から3年(社説)
例えば、こんな事実もある。震災発生当日、福島第一原発4号機は定期点検中で、核燃料はすべて使用済み燃料の貯蔵プールに移されていた。プールの中では約千五百体の核燃料が高い崩壊熱を発しており、もっとも危険な状態だったとされている。放射線量が高く建屋の中に入るのは不可能だったと、作業員は語っている。
燃料を冷やす手立てがなかったということだ。ところが、貯蔵プールの横にある「原子炉ウェル」と呼ばれる縦穴に、大量に水が溜まっていた。津波か地震の衝撃で仕切り板がずれ、そこから貯蔵プールに水が流れて冷やしてくれた。そして、皮肉にも爆発で建屋の屋根が飛び、外部からの注水が可能になった。
点検作業の不手際があり、4日前に抜き取られていたはずの水がそこに残されていた。もし、《不手際》がなかったら…。私たちは幸運だったのだ。

(コメント)
この社説を読むまで、この話を忘れていた。原発事故後、この手の話をたくさん見聞するうちに「お任せして、お手並み拝見」はできないと思った。そして、自分なりにいろいろ調べたり、抗議行動に足を運ぶようにした。かつて見聞したときにいろいろ考えた、その出来事の多くをすでに忘れてしまった気がする。(記憶の深いところに、渾然一体の煮物のようにたまっている)。そういう事実があるから、個々の記憶として切り離すためこういう形で書いている。
それと同時に、世の中の人たちのどのくらいが、上記の話を知っているのだろうか。あるいは覚えているのだろうか。「フクシマを忘れない」ではない。「まだ知らないフクシマ」がたくさんあるはずだ。あるはずだと、想像する。


3月10日(月)
1、原発関連死1000人超す 福島、1年で259人増 避難長期化続く被害
東京電力福島第一原発事故に伴う避難で体調が悪化し死亡した事例などを、東京新聞が独自に「原発関連死」と定義し、福島県内の市町村に該当者数を取材したところ、少なくとも1048人に上ることがわかった。昨年3月の調査では789人で、この1年間で259人増えた。事故から3年たっても被害は拡大し続けている。

(コメント)
東京新聞らしい記事だ。「原発関連死」を独自に定義し、カウントする。ものごとは「切り取り方」次第でいかようにも見えてくる。「原発関連死」という切り取り方は、ものごとをゆがめて見せるものなのか、問題点を明らかに見せるものなのか。新しい出来事に古い法令が機能しないように、新しい出来事には古い切り取り方が通用しないこともある。出来事の問題点から逃げないための「切り取り方」を提示するのもメディアの仕事だろう。


2、原発事故影響否定なのに「日本一のがん講座」 福島県医大、小学生向け開催へ (こちら特報部)
福島県医科大(福島市)は今月末、「福島でこそ日本一のがん教育が必要だ!」と銘打った子ども向けのがんセミナーを開く。狙いが分かりにくい。県医大は福島原発事故によるがんの多発を認めていない。「安心神話」の一環かと疑いたくなる。放射線影響の教育については国レベルでの確たる方針がなく、国の教材も内容にばらつきがある。子どもたちはこうした迷走を反面教師にするしかないのか。

(コメント)
これは何となく引っかかったので抜き出した。おそらく「東京新聞 こちら特報部」でなければ記事にならなかっただろう。周知すべき社会的な出来事でもないし、はっきりした問題をはらんだ出来事でもない。しかし原発事故後の福島の一連の動きを見ていると、明らかに「意図」を感じる出来事だ。
コメント
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