とんびの視点

まとはづれなことばかり

最後のお仕事、卒業式での「お祝いの言葉」

2017年03月28日 | 雑文
先週の金曜日、次男が小学校を卒業した。それは同時に僕の2年間のPTA会長の仕事が終わったことも意味する。卒業式での最後のお祝いの言葉、練習しただけあって多くの人たちに良かったと言ってもらえた。前にも書いたが、この手のスピーチでは原稿やメモは持たないようにしている。だから事前にかなりの練習が必要だった。

内容を自分の言葉で組み立てる。声に出し、話し言葉として滑らかになるように調節する。そして暗記。何度も声に出して練習する。声に出すだけじゃない。全部の流れをイメージする。来賓席に座っている。名前を呼ばれる。返事をして立ち上がる。来賓と校長にお辞儀をする。壇上まで上る。そして生徒にお辞儀をする。話をする。お辞儀をして、壇上からおりる。そして校長と来賓にお辞儀をして着席する。その一連のプロセスを何度もイメージし、実際に練習する。(仕事先の会議室でも行った)。まあ、それだけやれば、それなりに良いものにはなる。

そんな自分を見ているもう1人の醒めた自分がいる。曰く、お前さん、夏休みの自由研究の宿題に、本気で夏休み全部を使っている子どもみたいだ。みんながプールに行ったり、家族旅行をしたり、塾の夏季講習に行っているのに、ひとり図書館に通って調べ物をして、家で何かを作っている。そんな子どもの大人みたいだ。エネルギーを注ぎ込むのもいいけど、もう少し別のことにしたほうがいいんじゃないの。収入増やすとか。

でもどういうわけか、そういうアサッテの方向に行ってしまう。頭悪いと言えばそれまでだけど、こういうのをきっと〈業〉っていうんだろう。まあ、これでも何とか生きてこれたので、いいか。

なぜそこまでエネルギーを注ぎ込んじゃうかというと、卒業式をたんなる形式的な場にしたくないからだ。僕はもともと形式的なことが嫌いだ。誰が決めたかもわからず、何のためにやっているのかもわからず、慣例だから続いていることが嫌いだ。でも儀礼とか儀式は大切だと思っている。そして卒業式や入学式は大事な通過儀礼のひとつだと思っている。

儀礼というのはある種の非日常な聖なる時間であり空間である。それは簡単に日常的な俗なる形式主義に陥ってしまう。決められたことを、決められたようにこなす。滞りなく進めることが最優先される。雰囲気だけは厳かだし、当事者たちは少しは緊張する。でも心がべつのところにある。せっかくの卒業式をそんな形式的な場にしてはもったいない(まーたい)。

子どもたちがここまで生きてきた。そして次の世界に移る。そのことを祝う。そういう卒業式が本来の儀式というものだろう。そのために自分ができること。そう考えると、それなりのエネルギーを注ぎ込んでみるかという気になる。

卒業式。来賓席のよい場所に座っているので、証書の受け取る卒業生が目の前を通り、来賓席に向かってお辞儀をする。昨年度は自分の挨拶が気になり、ちょっと注意が散漫になった。今年は全員にきちんとお辞儀を返した。7割くらいの子どもと目を合わせることもできた。そのおかげかもしれない。子どもたちも〈お祝いの言葉〉をきちんと聞いてくれた。

とにかくゆっくり話そう。それが今回の課題だった。「6年生のみなさん、卒業おめでとうございます」。最初の一文を口にする。間を取るために余裕を見せて卒業生を見渡す。間をとったら、次の言葉が逃げていった。出てこない。思い出せない。次の言葉が。時間が過ぎる。空白の時間。子どもたちが少し怪訝な表情になる。

追いつめられている。やばい。でも、そのやばさを楽しんでいる自分もいる。笑顔で見渡す。やはり、言葉が出てこない。こりゃ本当にやばいぞ、そう思った瞬間に自然と言葉が出てきた。「ついに、王子小学校での最後の日を迎えることになりました」。(「ついに」というのがこの状況を演出しているようだ、と醒めた自分)。みんなはわざと引っ張ったのかと思ったらしいが、ほんとうは危ないところだった。

卒業式の後、いろんな人に「挨拶、とてもよかった」と言ってもらえた。握手してくれた先生もいたし、泣いていた保護者もいたそうだ。僕としては、卒業式が少しでも濃密なものになり、記憶に残るものになってくれたなら大満足だ。それに、家に帰ってから次男が「死ぬまで生きるって言い言葉だね」と言ってくれたのが嬉しかった。

とにかく、これで2年間のお役目が終わった。けっこうなエネルギーを使った気もするが、それなりに楽しめた。いろいろ考えることはあるが、それは今後の課題としよう。

最後に、今回の卒業式での「お祝いの言葉」を載せておく。


卒業式のお祝いの言葉

6年生のみなさん、卒業おめでとうございます。ついに王子小学校での最後の日を迎えることになりました。きっと皆さんの胸の中には言葉にならないいろんな思いがいっぱいあるのだろうと思います。

さきほど、皆さんが卒業証書を受け取る姿をずっと見ていました。一人一人の姿を見ながら、この子はこれまでどんなことを経験してきたのだろか。これから先どんなことが待っているのだろうか。そんなことを想像していました。当たり前のことですが、卒業生には誰一人同じ人はいません。一人一人が自分の顔を持ち、それぞれの体を持ち、違う考えを持っている。他の誰かでもかまわない、いなくてもいい、そんな子はひとりもいません。王子小学校には本当にいろんな子どもがいる。みんなちがって、みんないい。

誰一人として同じ生徒はいない。でも、ある一点でみなさんは同じです。それは王子小学校の立派な卒業生だということです。今日のみなさんの姿はとても立派です。

このように立派に成長した子どもたちの卒業を迎えることができ、保護者のみなさま、卒業、おめでとうございます。私自身も保護者の1人としてとても嬉しい思いです。

そして、子どもたちが立派に王子小学校から巣立って行けるのは、戸倉校長、清水副校長、廣野先生、高橋先生、渡辺先生をはじめとするすべての先生方の努力、そして職員のかたがたの暖かいサポートのおかげだと思います。長い間、どうもありがとうございました。

また、王子小学校で先生と生徒がともに学びあう。そんな日々を安心して過ごせるのは、地域というしっかりとした器があるからであり、地域のかたがたのつねなるご協力があったからです。これまで、どうもありがとうございました。そしてこれからも王子小学校をよろしくお願いします。

さて、それでは最後に卒業生のみなさんへの私からの言葉です。じつを言うと、私もこういう場所で話をするのは今日が最後です。月並みな言い方をすれば、私もみなさんと一緒に卒業というわけです。これまでこういう場で話をするときには、自分の言葉で話すことに決めていました。でも、最後に人の言葉を借りて、みなさんに贈ります。

谷川俊太郎さんの「さようなら」という詩です。詩の中では「ぼく」という言い方をしていますが、女子のみなさんは王子小学校で身に付けた豊かな想像力で補って聞いてください。

ぼくもう行かなきゃなんない すぐ行かなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど 桜並木の下をとおって
大通りを信号でわたって いつも眺めてる山を目印に
ひとりで行かなきゃなんない すぐ行かなきゃなんない
どうしてなのか知らないけど お母さんごめんなさい
お父さんにやさしくしてあげて
ぼく好き嫌いいわずなんでも食べる
本も今よりたくさん読むと思う
夜になれば星を見る
昼はいろんな人と話をする
そしてきっといちばん好きなものを見つける
見つけたら 大切にして 死ぬまで生きる
だから遠くに行ってもさみしくないよ
ぼくもう行かなきゃなんない

これからさき、みなさんにはいろんな出来事があって、いろんな経験をすると思います。
でも恐れることなく勇気を持って、前へ、前へ、踏み出してください。
これからのみなさんに、よいことが、たくさんのよいことがあることを心から祈っています。

卒業、ほんとうにおめでとう

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とにかく何か書かねば

2017年03月22日 | 雑文
なんと。気がついたら3月も20日を過ぎていた。いつの間にか夜よりも昼が長くなっていた。あっという間だ。3月もあっという間だし、ブログを書かない日もあっという間に過ぎていた。何でもよいから書かねばならない。ブログを書くことはランニングと同じだ。ランニングは継続しているからこそ、楽に走れるようになるし、タイムも速くなるし、細かい体の使い方も修正できる。間隔を空けすぎると、走るたびに疲れるだけだ。

だいぶ書いていない日が続いた。そろそろ書くことを面倒に感じ始めている。(あるいは書かないことが日常になってきた。)いまはまだ自分が書いていないことに気付いている。でもあと一週間もすれば、そのことにすら気付かなくなるだろう。何でもよい、何かを書いておこう。

何がそんなに忙しいかというと、年度末でPTAが最後の山場を迎えているのが理由のひとつだ。たとえば今月は、謝恩会があり、区の小学校PTA連合会の役員会があり、PTA総会があり、中学校(ファミリー校)の卒業式があり、地区のバレーボール大会の引き継ぎがあった。時間でいえば、イベントひとつごとにブログを一本書くくらいはできた。

とくに謝恩会はティンパニの練習に時間をとられた。会の少し前、卒対の委員長から誘われたのだ。「今年は会長も卒業生の保護者だから、保護者の合唱でティンパニを叩いてくれないか」と。快く引き受けた。ティンパニを叩くのは初めてだが、小学校の時にブラスバンドに入っていて、同級生の中村君(あだ名はタコちゅう)がティンパニを叩く姿をよく見ていた。それを思い出して楽譜を見ながら、音源に合わせ、家でエアのティンパニを叩きまくった。(けっこう時間をとられた。でもとても楽しかった。楽器っていいなぁ。)

練習のかいがあって、謝恩会では大きなミスもなくティンパニを叩ききった。でも、ティンパニに意識が行き過ぎて、会長あいさつはかなり「ゆるい」ものになった。ああいう場で2つのことを引き受けたときの準備の仕方や、意識の分配の仕方について学んだ。(その後、憲法学者の石川健治さんがコントロールとは対象を操ることではなく、目的に合わせて自分を操ることだと言っていたことを深く考えた。そのことをブログできちんと書きたかった。)

PTAの仕事は明後日の卒業式でいちおう終わりだ。昨日あたりから卒業式での「お祝いの言葉」の練習を始めた。昨年度の入学式と卒業式、そして今年度の入学式とこれまで3回、壇上であいさつをした。これまで「自分の言葉で話す」「メモや原稿を見ないで話す」ことを自分に課してきた。毎回、小さな反省点を見つけ、少しずつ修正してきた。回を追うごとに「良かったよ」と言ってくれる人が増えている。先日も「去年の卒業式のあいさつはよく覚えています。プレッシャーをかけるわけではありませんが、今年も期待しています」とある先生から言われた。

人から期待されているうちが華だ。期待に応えられるようにしっかり練習をしておこう。じっさい、練習をすればするほど、自分に足りないところが見えてくる。足りないところは伸びしろだ。次の課題がおのずと見えてくるわけだ。その課題をまた練習をする。そしてまた伸びしろが見つかる。そして行けるところまで行く。そこがどんな場所であれ、そこが自分の行き着く場所なのだろう。

まあ、とりあえずの行き場所は、明後日の体育館だ。あまり伸びしろばかりが露呈するのもまずかろう。今日と明日、できるかぎりの練習をしておこう。さて、練習の時間だ。

そうそう、先日、村上春樹の新作『騎士団長殺し』を読み終えた。まだうまく言葉にできないが、とりあえず「すごかった」と言っておこう。読み手にとってすごい作品とは、読み手がすでに持っている価値基準に収まらないものだ。うまくこの「すごさ」を言葉にできれば、僕にとって新しい価値基準のようなものが見いだせるだろう。
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なぜぼくはPTA会長を引き受けたのか

2017年03月08日 | 雑文
気がついたら3月も1週間以上すぎていた。年度末でいろいろ忙しい。いちばんの原因はPTA絡みの行事だろう。しかしそのPTAとも今月いっぱいでさよならとなる。次男が小学校を卒業するので、僕も同時に会長を卒業というわけだ。

PTAという組織には根本的な課題がある。(戦後の日本社会が自らの姿を直視できないのと同じ構造をしていそうだ。)また、社会の変化に合わせて変えねばならない課題もたくさんある。そういうものを横においておくとすれば、僕としては会長を引き受けたことはとても良かったと思っている。

学校や教育行政や地域などをある程度じかに見れたのは良かった。(子どもたちを見れたのが一番良かったが。)どんなものごとであれ、現場を見なくても意見は言える。でも、現場を見ずに何かを語ると、どうしても批判的なことを口にしてしまいがちだ。(悪い情報の方が伝わりやすい。)じっさいに現場を見れば、さまざまな事情も見えてくる。その中で、事情に耳を傾けつつ、問題点は指摘し、そして落とし所を探す。そういう力が求められてくる。

残念ながらそういう力はほとんど発揮できなかった。何が起こっているのか、現場を見ているので精いっぱいだった。見て、いろいろ考え、なるほどと気付いたころには、終わりが近づいていた感じだ。(僕は、現状を理解するのに時間がかかるし、判断は遅いし、行動はのろのろしている。)どうやら、気付いたことはべつのところで活かすしかないようだ。

そろそろ終わりも近づき、なぜ会長を引き受けたかを書いておこうと思った。たいした役割ではないが、人がPTA会長(どちらかといえば敬遠されている)を引き受けるには何らかの理由がある。ほかの学校の会長たちに話を聞くと、ほとんどの人が「たまたま、声をかけられたから」と答える。(もちろん声をかける方には理由がある。学校行事に積極的に参加しているとか‥)

僕もそうだ。たまたま推薦委員会の目に留まり、それで連絡が来た。いちおう断ったが、他に誰もやり手がいないなら受けようと思っていた。こういう話があったら逃げてはいけない、2年前はどこかでそんな風に思っていた。(いまは違うことを考えている。)

僕にそう思わせた理由は、福島の原発事故だ。東北で大きな地震と津波があり、その後、原発事故が続く。地震と津波は天災だが、原発事故は人災だ。事故後、たくさんの本を読み、学べば学ぶほど、原発事故が人災だと思った。(人災の割には誰も責任をとろうとしない。)また、事故をべつにしても原発が正しい選択肢とは思えなかった。(先の見えない核燃料サイクルや最終処分場の問題など‥)

事故が起こるまで原発についてほとんど知らなかった。同じ程度に日本社会について知らなかった。そのことを自覚した。知らずに事故が起こった。廃炉には少なく見積もっても40年はかかり、費用は10兆円とも20兆円とも言われた。知らなかったから仕方がない。そういう人たちはたくさんいた。でも、子どものことを考えたら、「知らなかった」という事実と「仕方がない」という結論は一致しないと思った。「知らなかった」という事実は「無責任だった」という結論になるのかもしれない。

事故からしばらくたったとき、10歳の長男のことを思った。こいつが50歳になるまで事故の決着はつかないんだ。そしてその費用も負担させることになる。ひどい話だと思った。原発事故当時にある程度の年齢にたっていた大人は、子どもたちから責められても仕方がないと思った。「これ、あなた達のせいじゃないの。なんで、私たちに尻拭いをおしつけるの」と。

ほかの人がどう考えるかはどうでもよい。少なくとも僕は、知らなかった、関係なかったとは言いたくないと思った。自分の興味や関心に使う時間を削っても、少しは社会について知らないとまずいなと思った。それと何かできる機会があれば、とりあえずやってみようと思った。そこにたまたま、PTA会長の打診がきた。まあ、受けるのが自然だと思った。(親鸞ならば「廻向」とか「弥陀の御はからい」というのだろう。)

震災後、日本社会が変わるのではないか、社会がよくなるのではないか、そういう話が巷に広まった時期があった。僕も社会がよくなることを期待していた。でも、気付いたら震災で変わったのは社会じゃなくて自分自身だった。震災がなければ、PTA会長をなんぜったいに引き受けなかったと思う。不思議なものだ。でも、その役割もあとちょっとで終わりだ。きっと終わってからいろいろ考えるのだろう。
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