とんびの視点

まとはづれなことばかり

サロマからはや1年

2010年06月29日 | 雑文
先週の土曜日は、長男の学校で「学校公開日」があった。昔で言うところの「授業参観日」だ。僕が子どものころの授業参観というと、ちょっとだけ着飾った親達が教室の後に並んで静かに授業を見ているというものだった。ところが今の「学校公開日」というのはもっとくだけている。土曜日の1時間目から4時間目まで、好きなときに行って好きなだけ授業を見ることができる。突然奇声を発するような小さな子を連れていっても構わない。かなり自由な雰囲気である。

公立の小学校だからなのかもしれないが、子どもたちには非常にばらつきがある。先生のすべての質問に背筋を伸ばして手をあげて答える子がいると思えば、教科書の波に合わせて鉛筆を転がしている子もいる。ずーっと消しゴムで机をこすりながらケシカスを長くしている子もいる。母親と祖母が真後ろに立って、やれ教科書を開け、ノートを丁寧に取れ、と怒っているものもある。子どもは、黙っていると言ったじゃないか、と文句を言っている。さらには一切を放棄して完全に飛んでしまっている子もいる。

学力をつけるという観点から考えれば、習熟度別にクラスを編成した方がよっぽど効率的だろう。ただ、雑多な種類の人間が1つの場所に集まって、何とかみんなが生き延びていけるような共同体を作るのも人類的には悪くないのだろう。で、我が長男はどうかと言うと、授業は聞いているが半分飛んでいるという感じだ。時おり、後を振り向いて、目が合うとにやりとする。ぎすぎす勉強するのでもなく、落ちこぼれるのでもない。細く長く生きるにはいい感じである。

4時間目には、高橋勇市さんというアテネパラリンピックでマラソンの金メダルを取った人の講演会があった。1年生から6年生までが体育館に座り話しを聞く。希望する保護者も聞くことができる。マラソンということなので僕も話しを聞くことにした。話しをする高橋さんの姿を見て、ああこの人かと思った。僕が荒川の土手にランニングに行くと、時おり見かける人だった。〈盲人〉というタンクトップを着てランニングをしている人だ。いつも奥さんが伴走をしている。ずいぶん脚の速い人だなと思いながらいつも見ていた。

質問の時間に、子どもが「何が一番辛かったですか?」と訊いたら、「練習です」と即答した。それを聞いて、そうだろうな、と妙に納得してしまった。フルマラソンは本番よりも練習の方が厳しいというのは、僕程度の市民ランナーにもわかる。練習では、伴走を見つけるのが大変だったそうだ。最初は知り合いに自転車で、次はスクーターで、さらにはタクシーの料金を払って伴走してもらったそうだ。そんなことをしているうちに、やっと伴走をしてくれる人が出てきたとのこと。

伴走の話しを聞いていたら、去年のサロマ湖ウルトラマラソンで、知的障害の二十歳くらいの子どもの伴走をしている父親を見かけた。確か70kmを過ぎたあたりでしばらく一緒に走った。親子で100km一緒に走る。当然、長い時間いっしょに練習をしてきたのだろう。2人の姿を見ていて少し力を貰えた。

そんなふうに時おり、サロマ湖100kmのことを思い出す。実は、昨日の日曜日は第25回サロマ湖ウルトラマラソンだった。口蹄疫の件で開催が危ぶまれたようだし、当日の気温は30度を超え半数以上がリタイアしたそうだ。今年トライしていたら完走できたか怪しいものである。想像するとちょっと怖くなるが、また走りたいなと純粋に思う。

東京で気の抜けた日曜日を過ごしながら、時おり腕時計に目をやる。もし走っていたら今ごろ、サロマ湖の湖畔に出た頃だとか、今ごろはレストステーションで着替えている頃だとか、今ごろはワッカ原生園を走ってる頃だとか、いろいろ想像してしまう。想像というより、一瞬、自分がサロマにいるような気分になる。僕はこういう感覚がとても好きだ。今ここにいながら、別の時間の別のところにいる。現在の東京と過去のサロマが1つに重なっている。何というのか、世界がちょっとだけ厚みを持ったように感じる。

そういえば去年、100kmを走り終わったあと、同じ宿のメンバーと銭湯に行った。(サロマに銭湯があるということにちょっと驚いた)。少しでも疲れを取るためだ。湯船を跨ぐときみんな、あっ、と声を上げていた。お湯が熱いからではない。筋肉痛で脚がやられているからだ。僕は早めに風呂を出て、一人銭湯の外でほおけていた。レースの活気が嘘のようにシンとしている。あたりは少しずつ青い空気で覆われ、薄暗くなる。川の水が蛇行しながらゆったりと流れている。風が草を揺らす。

僕は何を思うでもなく、そんな世界に溶け込んでいた。それほど印象的な風景ではなかった。その時、心地よかったことは覚えているが、ずっと覚えているとは思いもしなかった。時おり、銭湯の外でほおけて面に座っていた自分になる。ふとそのことを自覚した瞬間に、その出来事はもう終わってしまったのだと気づく。終わってしまったと気づいたとき、またあそこに行きたいなと思う。明日は去年のサロマ湖からちょうど1年。おそらく、1日のうち何度も腕時計を見ることになるのだろう。
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ひさびさの病

2010年06月25日 | 雑文
先週の木曜日の合気道の稽古で体調を崩し、日曜日まで臥せっていた。体質的にふつうの人よりも筋肉細胞が壊れやすいらしく、ちょっと過激な運動をすると多量に筋肉細胞が壊れる。そして筋肉細胞が壊れたときに出てくる酵素を処理し切れなくなり、腎機能が低下、しばし苦しむことになる。

症状が出はじめたのが17歳のころ。たいていはストレスフルな運動をした日の夜中。腰に不快で強烈な痛みが走り、救急外来にかかる。痛み止めの注射を打ってもらって帰宅し、数日後、改めて外来で検査をし直す。数値的に腎機能が落ちているのはわかるが、原因は分からない。何度か入院をし、さまざまな検査をした結果、やっと原因がわかった。初めて症状が出てから5年以上がたっていた。

退院の日に医者から説明を受けた。今でもよく覚えている。夏の暑い日で、窓の外には濃い緑の葉が風で揺れていた。その影が窓の側のテーブルに映っている。部屋の中はエアコンが効いて、シンとしていた。長めでクセのある白髪で、知的な表情をした60歳くらいの医師が説明をしてくれた。現場で患者の手当てをする医師というよりも、いかにも研究者という感じの人だ。白衣には染みひとつなく、しっかりと糊がきいていた。片足が悪いようで、歩き方がぎくしゃくしていた。

人よりも筋肉細胞が壊れやすいこと。筋肉細胞が壊れるとある酵素が出てくること。それを処理し切れないと腎機能が低下すること。現在は急性腎不全ですむけど、あまり繰り返すと慢性腎不全になり、人工透析をすることになる。だから「基本的には、これから先、運動はしないようにしてください。やるとしても遊びでテニスをする程度とか、軽いものにしてください」そう言われた。

ジャックラカンの言うように、欲望というものは禁止されることによって生じる。それまで特に運動をしたいと強く思ったことはなかった。中学も高校も体育会に属していたこともない。正直、ほとんど運動などしていなかった。だからかもしれない。これからは運動ができないと言われたら、かえって運動がしたくなった。まだ十分に運動をしていないじゃないか。このままじゃ、何かやり残した感じが残りそうだ。

そんなわけで、禁止されたことで僕は一般的な人よりも運動をすることになった。もちろん人工透析を受けることになったら大事だ。とても慎重に運動をするようになった。そんな中で、ランニングは最も適したものだった。一人で自分のペースで出来るからだ。誰と競争する必要もない。自分の身体の声を聞きながらやってゆけば良い。

5km走れるようになり、頑張れば10km走れる。その程度のランナーとして何年も過ごしていた。そしてある時、自分にもフルマラソンが走れるかもしれないと思った。フルマラソンが走れれば、あの医者の言葉をひっくり返せると思った。そして時間をかけて準備して初めてフルマラソンを走ったのが、もう7年も前のことだ。

これくらいじゃ医者の言葉をひっくり返したことにはならないかもしれない、不思議なものでちょっと時間がたつとそう思えてくる。フルマラソンくらいちょっとトレーニングすれば誰でも出来るじゃないか。もっと上がある。そしてウルトラマラソンを走ることになった。(このとき、フルマラソンのタイムを狙わずに、長い距離を目標にしたのは正解である。タイムを狙っていたら、きっと体を壊していただろう)

ランニングは1人で出来るから自分の身体と相談しながら進められる。ところが合気道には相手がいる。相手に合わせければ上達しない。でも相手に合わせていると自分の身体と相談が出来ない。特にハードな稽古をしたときにはそうだ。先週の木曜日にはハードな稽古をした。汗が滝のように流れ、息は上がり、脚がふらつき立っていることもできない。それくらい受け身の稽古をした。そして体調を崩し、週末はごろごろとしていた。

ゴロゴロついでに本を読んだ。小松和彦の『異人論』、堤未果の『ルポ貧困大国アメリカ』、植松努の『NASAより宇宙に近い工場』、山崎大地の『宇宙主夫日記』だ。この中で特に印象に残ったのが『貧国大国アメリカ』だ。これは『ルポ貧困大国アメリカ』に続くもので、教育、年金、医療、刑務所という分野に民間企業が入り込むことで引き起こされるアメリカの貧困の状況を描いたものだ。

著者の言うように、これはある角度からアメリカを切り取ったものであり、決してアメリカのすべてではない。それでも読んでいてとても気が滅入ってきた。教員、年金、医療、刑務所。どれも構造は同じである。かつてなら国が担っていた部分に民間企業が入り込む。そしてその分野を半寡占状態にし、人々から選択肢を奪う。そこで値段や利率のコントロールをする。そのために、政治家に巨額の献金をする。政治家は企業の意図に沿った政策決定をする。そして現状はさらにひどくなる。

教育であれば、かつてアメリカでは、教育を受けた人間は国家の財産になるという観点から奨学金の制度が充実していた。ところがレーガン政権あたりから、教育を受けて利益を得るのは個人であるから、そのコストも自己負担すべきだとの意見が強くなり、奨学金制度が弱体化する。そこに民間の学資ローンが入り込む。利率は高いし、さまざまな制約がある。そこで得た利益を政治家に献金する。そしてさらに企業に良い条件が法的に整備される。そんな感じだ。

それよりもさらに驚いたのが刑務所だ。そこでは服役囚が低賃金で働かされている。その人件費は発展途上国よりも安い。ある企業のホームページにある電話オペレーターサービスの広告には「第三世界以下の低価格で国内アウトソーシングを」とあるそうだ。その一方で、ホームレスを簡単に刑務所に送れるようにするための法律や、犯罪者が3度目の有罪判決を受けた場合、最後の犯罪の軽重に関わらず自動的に終身刑という〈スリーストライク法〉が出来たりしている。つまり犯罪者が労働力として滞りなく供給されるシステムが作られつつあるのだ。さらに刑務所RIET(不動産投資信託)は、ウォール街でもっとも価格が高騰している投資信託商品の1つになっているのだ。

この本を読んでいると、アメリカ中でこういうシステムが作られている気がしてくる。アメリカを向いている日本も似たようなことになってくるかもしれない。そう思うと、どんどん気が滅入ってくる。気が滅入って、起き上がる気力がなくなり、ゴロゴロしながら次から次へと本を手に取るのであった。
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やっと合気道が始まったような気がする

2010年06月14日 | 雑文
今日から梅雨。昨日までの暑さが嘘のようだ。風は冷たく、細目の雨が途切れることなく降り続く。梅雨が明ければ夏だ。それまでには1ヶ月ほどある。梅雨の間、いつも気づかずにやり過ごしてしまうものがある。夏至だ。あと1週間すれば1年で最も昼間が長い日になる。でも毎年、その日は梅雨の最中だ。梅雨が明けて夏が来たと実感したときには、日はどんどんと短くなっていく。いつもそのことにちょっとしたギャップを感じる。

左の脚の付け根と右の背筋が痛む。昨日の合気道の稽古のせいだ。ここ2週ばかり、木曜日の他に日曜日にも合気道の稽古にいっている。家族サービスに影響が出ない限り、これからは日曜日も合気道の稽古に通うつもりだ。その分、ランニングの時間を減らすことになる。(村上春樹のようにこれもウルトラマラソン達成後のランニングブルーなのだろうか?)

2年以上も合気道をやって来たが、正直、まったくものになっていない。理由は簡単だ。合気道が僕に要求するだけのものを提供していないからだ。何か物事を達成するには、それに必要なものをこちらが捧げなければならない。これは僕が経験的に学んだことだ。正確にいえば、そのような理屈を学問を通して学び、ウルトラマラソンの完走を達成することを通して身体で学んだ。

目標を強く持ち、やらねばならないことを洗い出し、時間軸に載せてきちんと計画を立て、あとは四の五の言わずに自分を従わせる。どんな物事もこのやり方で切り崩すことは出来る、理屈ではそうなる。しかし現実はそのようには行かない。「もういやだ」という思う瞬間が何度もやって来るからだ。

そこで辞めてしまえば物事は達成しない。だから歯を食いしばることになる。歯を食いしばって自分をコントロールし、自分を物事に提供する。その意味では、何かを達成するために自分以外の人間や物事を道具としてコントロールする考え違和感を持つ。何かを達成するためには出来る限り手間を省いた方がよいという考えにも違和感を持つ。

2人1組になって同じ技を繰り返す。汗が額を流れ、分厚い胴着が汗でずっしりとする。腕にも汗が光っている。急激に心拍数が上がらないように細く深い呼吸を繰り返す。ハイペースでランニングをしているような状況をイメージする。それでも少しずつきつくなってくる。気がつくと歯を食いしばっている。

相手が僕の右手首をつかむ。汗でぬるっとする。すべりそうになる。その相手の左手首をつかみ、足捌きをしながら相手の外側から脇の下をくぐる。くぐったと同時に剣を切り落とすように手を真下に切り下ろす。「相半身片手取り四方投げ」という技だ。相手をつかんだ手を通して、相手の重心が移動していくのがわかる。最初は自分が型通りに動くことで精いっぱいだったのが、少しずつ身体感覚が広がってきた。合気道を始めて2年。やっと自分を提供できる段階にきたと実感する。この先、ちょっと楽しみである。
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トラブルを起す人

2010年06月12日 | 雑文
今日のランニングは暑かった。久しぶりに暑さでペースが落ちた。土手のアスファルトは太陽の白い粉でまぶしい。白いアスファルトの上には干からびたミミズが何匹もいる。夏を前にして刈られた雑草が土手の斜面を多い、強い緑の匂いを発している。ゆっくりしたペースで1時間半ほどジョギングをする。太陽の光が肌を焼き、額からは汗が流れる。シャツも汗で濡れている。水飲み場ごとに顔を洗い、腕や脚に水をかける。風で乾いた汗がぬめっとする。走りながら去年の今ごろはサロマ湖100kmの準備で必死になっていたことを思い出す。早いものだ。

ここ2週間ばかり次男が続けざまに体調を崩す。先週は風邪で高熱を出す。月曜日だけ保育園に行き、火曜日から金曜日まで全滅。今週は復活したと思ったら、水曜日の夜からオタフクになる。またしばらく保育園に行けない。

子どもというのは高熱を出すとけっこう簡単にうなされる。(わが家の子どもたちだけだろうか?)相方が気づいたことだが、兄弟といえどもうなされ方には違いがある。長男は幻覚系。おびえた表情で空中を見つめながら「怖い、そこにいる。来ないで」というようなことを口走る。次男は幻聴系。「やめて、イヤなことは言わないで」というようにうなされる。

というわけで、次男がいつも家に居る。その分、仕事の作業効率は落ちる。予定していたことが出来なくなる。(子どもの病気だから仕方がないが、)予定していたことが出来なくなるような不測の出来事が起こったら、一般的にはそれを「トラブル」と呼ぶ。

ここのところトラブルを間近で見ることが重なった。眺めていたら「人間というのはトラブルを起しながら前に進んでいく人と、トラブルを解決しながら前に進んでいく人と、トラブルには関わりたくないと思っている人がいる」という言葉が頭に浮かんだ。

こう書くと、トラブルを起す人は厄介な人間で、解決する人は立派な人で、関わりたくない人はちょっと利己的な人と見えるかもしれない。そんなことはない。人間というのは、一方では昨日と同じように今日も過ごしたいと思い、もう一方では昨日とは違う今日になって欲しいと思いながら過ごしている。トラブルを起すのは昨日とは違う今日へのきっかけであり、解決することは昨日とは違う今日の完成であり、関わりたくない気持ちは昨日と同じ今日を求めることだ。

結局のところ、トラブルを起し続けるだけでもダメだし、トラブルがなければ解決することも出来ない。ほうっておいても歳をとるのだから、同じことをずっと続けるのも不可能だ。大切なのは按配である。出来事を変えるきっかけを作り出すこと、きちんと出来事を変えること、出来事をしばらくの間安定させること。状況に合わせてこの3つのスイッチの切り替えが出来ることが個人においても、組織においても必要になる。

一個人が状況に合わせてスイッチを切り替えるのはかなり困難である。困難だからこそ、トラブルを起す人はしょっちゅうトラブルを起すし、解決する人の元にはトラブルが持ち込まれるし、関わりたくない人はいつもトラブルから距離をとっている。そんな人たちが集まって組織ができ上がっていたりする。

組織が求める人材というと、コミュニケーション力があって(人の話をきちんと聴き取ることが出来て、自分の意見を誤解なく相手に伝えられる)、論理的な思考が出来て、計画性があって、リーダーシップがあって……、というようなことがよく言われる。組織に属する人間がすべてこういう人物になることを求めているのだろうか。そんな組織は現実的には不可能だし、何だか気持ちが悪い。(でもそんな基準で個々人を評価していたりする)

按配である。同等の能力を有する人が集まっているのが良い集団ではない。でこぼこな人たちが具体的な課題を通り抜けることで自ずと役割分担が決まって行くような集まりが良い集団である。他の集団であればトラブルを起すような人間がチャンスを作り出す人間となり、トラブルを解決する人間は過去の負の遺産を処理するのではなく新たなものを完成させる人となり、トラブルを避けるだけの人間が安定した日常を維持できるような人間になれる、そんな集団が良い組織である。そしてすべての按配を見るのがトップの仕事である。(なんだ、今日は仕事絡みの文章を書いていたのか。書き終えて気づいたりする。何も考えずに書きはじめちゃったから)。

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喪に服すワールドカップ

2010年06月07日 | 雑文
ちょっと気を抜くとブログを書くのが滞ってしまう。先週、金曜日の分を飛ばしてしまった。今年に入って6本のビハインド。サボるのは楽だが、取り戻すにはちょっと苦労しそうである。先週は内田樹の『邪悪なものの鎮め方』という本を読んだ。予想通り過去のブログを集めたものであった。そんな気がしていたので、自腹を切らずに図書館で借り出して読んだ。

いくつか引っかかる言葉があったが、その中にこんなものがあった。

『「生き残った人間」たちは「葬礼」を行なうことになる。というのは、「死んだ人間」にはできなくて、「生き残った人間」だけにできる仕事といったら(原理的に言って)「弔うこと」しかないからだ。』
『死者について、その死者がなぜこの死にいたったのかということを細大漏らさず物語として再構築する。それが喪の儀礼において服喪者に求められる仕事である。』

なぜこの2つの文章がひっかかったかというと、週末に父親の墓参りに行ったからだ。はやいもので、7月の終わりになれば父親が亡くなってから16年になる。ワールドカップのアメリカ大会があった年だ。暑い夏の大会で、決勝では何人もの選手が脚をつっていた記憶がある。決勝戦はイタリアvsブラジル。ブラジルはドゥンガがキャプテン。フォワードはロマーリオ。左サイドバックは当時鹿島アントラーズにいたレオナルドだが、出場停止だった。

一方のイタリアはバレージがディフェンスラインをコントロールし、前線にはバッジオ。そして監督はサキ(サッキ?)だった。とにかく炎天下の試合でお互いの体力がどんどん消耗していく。得点は入ったのだろうか?入らなかった気がする。同点のまま延長戦に入り、それでも決着がつかずにPK戦になる。バッジオが外して、勝負が決まった。大きく外した気がする。その他にも誰かイタリアの選手がシュートをポストに当てて外した。ポストにボールが当たる凄い音がしたのを記憶している。ドゥンガが両手で優勝カップを持ち、すごい表情でそれを掲げた。

僕はそんなことを父親の病室のテレビで見ていた。記憶の細部はかなり作り替えられているのかもしれない。でも、父親の病室でワールドカップを見ていたことは確かだ。そのころ父親はすでに末期的な状態で痛みを抑える薬の影響で1日のほとんどを眠っていた。時おり目を覚ましては幻覚のようなものを見ていた。だから父親とまともなコミュニケーションをとることは出来なかった。

家族が交代で泊まり込みケアをするようになり、思いがけない形で父親と二人きりでいる時間を持つことになった。でも皮肉なことに、会話はほとんど成り立たない。そこで初めて、自分が父親のことをほとんど知らずにいることに気づいた。あまり自分のことを語る人ではなかった。

5歳くらいに父親を亡くし、8歳には母親も亡くし、親戚をたらい回しにされた。中学を卒業すると東京にいる遠縁の親戚の元で職人仕事を始める。そして母親と結婚して僕と弟が産まれ、一家の主となる。景気も良かったが、真面目に働く人だったので、ローンを組み小さな戸建てを買うことも出来たし、子ども2人を大学までやることも出来た。そしてローンを返し終わって、ちょっとしたら病気にかかり末期的な状態になった。

ざっと思い浮かべられるのはその程度だった。病室で眠り、やせこけていく父親を見ながら、1人の人間の人生を本当に不思議だと思った。「これはいったい何なんだろう?」。よく分からなかった。その意味では「その死者がなぜこの死にいたったのかということを細大漏らさず物語として再構築する」ということが僕には出来なかった。だから、今でもきちんと喪の儀礼を終えていない気がする。

にもかかわらず、父親の記憶がさらに薄れていく。(あるいは忘れないように、作り替えられていく)。夢に出てくることもどんどん少なくなっていく。その意味では、父親の死がワールドカップと重なっていたのは結果的によかった。ワールドカップの季節になると、とてもリアルにあの時のことを思い出すことができるからだ。それは父親の思い出というよりも、父親を巡る僕の思い出でもある。

ちょっと前にポールオースターの『The Invention of Solitude』(日本題『孤独の発明』)という本を読んだ。ずっと前にペーパーバックで買ったけど読めずにいたものを引っぱり出して読み直した。とてもきれいな文章で父親への愛情が感じられた。そして僕も父親について書いてみたいと思った。一つには、書くこと自体がかつて果たせなかった父親との対話になるからだ。そしてもう一つは、僕自身が父親だからだ。僕が父親になったことで、より彼を理解できるかもしれない気がするのだ。

僕にとって、父親を象徴的にあらわす話しがある。かつて父親から聞いたものだ。彼の人生や彼という人間をよく表している。

夏の暑い日。リヤカーを引く。鴬谷の坂は角度が30度もありそうで、そして長い。重い荷物が載ったリヤカーを引いてそこを上らねばならない。16歳の少年にはそんな力はない。でも、それは少年が任された仕事だ。汗が額から流れ、シャツはビッショリだ。何度も押してみるが、少し上ってはリヤカーが下がってしまう。誰も知り合いはいない。誰にも頼めない。ほとほと困ったが、気を取り直しては何度も上ろうとする。時間が気になる。惨めな気分になる。本当に困った。すると見かねた警察官がやって来て、後を押してくれるという。一緒に汗を流しながら、坂の上までリヤカーを押す。一生懸命働いていて偉いな、と警察官が褒めてくれる。それが本当に嬉しかった。

これからも少しずつ父親のことを書いてみよう。
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