とんびの視点

まとはづれなことばかり

腰の曲がった年寄り

2020年08月07日 | 雑文
梅雨が明け、暑い日が続く。いつものことだが、夏になると長い距離が走れなくなる。無理をすれば走れるが、仕事に影響が出る。早朝、20分くらい軽く走るだけだが、汗が吹き出る。体のリセットにはなるが、メンタル的には物足りない。長い時間を走った時の瞑想っぽい感じがない。ちょっと残念だが、しばらくは仕方がない。

川上弘美のエッセイ集『ゆっくりとさよならをとなえる』を読了。この人の言葉は好きだ。

腰の曲がった老人を見た。1週間くらい前のことだ。すごく腰の曲がったおじいさんで、夏の朝の歩道をゆっくりと歩いていた。腰の曲がった老人を見たのは久しぶりだった。子どもころ、周りには腰の曲がった老人がたくさんいた。もう四十年以上も前の話だ。多くの年寄り(そう「年寄り」と呼んでいた)は、多かれ少なかれ腰が曲がっていた。時おり、すごく腰が曲がった年寄りもいた。年を取るにしたがって、人は自然と腰が曲がっていくものだ。言葉にすることもなく、そう思っていた。

実際には、腰の曲がっていない年寄りもいっぱいいたのだろう。しかし、人間というのは、自分の思い込みを世界に見るものだ。年寄りは腰が曲がっていると思っている人間には、腰の曲がった年寄りしか目に映らない。(いま、私の目にはいったい何が映っているのだろう?)

多くの年寄りの腰が曲がっていたのは、人生の長い時間をかけ、そのような姿勢を取ることが多かったからだろう。家事や日常の仕事の多くは、前かがみになることが多い。前かがみの姿勢の方が機能するのであれば、私たちの体はそのように変化する。すごく腰が曲がっていた年寄りは、おそらく農業を営んでいたのだろう。機械化される前の農作業、長い時間、土や稲や野菜に向き合うために、腰をかがめていたに違いない。

私たちは近代的な主客二分を前提とした対象操作的な世界観を埋め込まれている。理性を持った私がこちらにいて、対象は向こう側にいる。私は対象を正確に把握して、それを操作することで、何らかの目的を達成する。私は変わることなく、相手を変えることで何かを達成しようとする。そういうやり方だ。(変わることのない「本当の自分」みたいなものもここから出てくるのかも知れない。)

しかし、実際に何かを行うときには、自分自身も対象に合わせ変化させていることがけっこう多い。子どもと話すためにしゃがんで目を合わせる。耳の悪い人のために大きな声で話しかける。相手の機嫌を取るために作り笑いをする。目的のために相手を操作するのではない。自分が状況に合わせているのだ。

老人の腰が曲がったことは、ある種の適応の結果である。(それが健康に良いかは、別の問題である。)私たちが稲や野菜に働き掛けることは、そのまま稲や野菜から働きかけを受けることになる。私たちが稲や野菜を作ることは、稲や野菜に私たちが作られること(この場合「腰が曲がる」という形で)なのだろう。

そのような関係は、体だけでなく、心にも起こるだろう。田や畑を耕し、種を蒔き、芽が出るのを待つ。間引き、虫と戦い、太陽や雨を心配し、日々の成長を守る。やがて実り、収穫する。目にする植物の緑、聞こえてくる虫の声、太陽の熱や、雨の冷たさ、風が運ぶさまざまな匂い。それらが、どんどんと自分の中に入ってくる。それらが心を満たしていく。

日々の過ごし方も、種を蒔いてから収穫までのサイクルも、基準となるのは自然だ。日が昇り、日が沈む。それに合わせて働く。季節がの変化に合わせて、必要な仕事をする。そういう時間が私たちに埋め込まれても不思議はない。それは、『3日で出来る英会話』のような、私たちを追い立てるような時間とはだいぶ違うだろう。

日々の生活を作り出すことは、その生活によって私たちの心身を作り出すことである。だとすれば、現在の生活は、どのような私たちを「作っている」のだろうか。腰は曲がっていないが、デスクワークでひどい腰痛だ。よく聞く話だ。長い時間眺めているパソコンの画面に浮かぶ文字が、自分の中にどんどん入ってきて、心を満たしていく。それらを受け止められる器を作れれば、差し当たり社会に適合できる。受け止められないと、いろんなものがあふれ出る。あるいは、心にひび割れが起こる。大事なものが、外に流れ出てしまう。


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「ワンチーム」から「ソーシャルディスタンス」

2020年08月02日 | 雑文
8月に入った。やっと梅雨も明けた。本来なら(という言い方にも違和感を持つが)、真夏の太陽の下、オリンピックが開催されていたはずだ。個人的にはオリンピックにはそれほど関心がなかったので、延期が決まってもとくに残念とも思わなかった。それでも、何か空っぽの本棚を見ているような感じになる。本棚にはあまり興味のない本が並ぶはずだった。しかし、それらの本は届かなかった。何か別の本が並ぶのかと思ったが、いつまでたっても本棚は空っぽのまま。そんな感じだ。

先日、昨年のラグビーワールドカップの日本戦を録画で見た。あの頃も、台風の被害で試合が中止になるなど、けっこう大変な状況だった。それでも、人々にはその苦境を乗り越えようという意志と行動があった。ジャパンの選手たちも見事な戦いをし、立派な結果を出した。それは「空っぽ」とはまったく反対の世界だった。1つのボールに人々が密集する。体と体がぶつかり合う。汗と汗が飛び散りあう。大きな声をかけ合う。トライをすれば喜んで抱き合う。「ワンチーム」という言葉を何度も聞いた。

「密を避ける」「ソーシャルディスタンス」「飛沫を避けるためにマスクをする」。コロナに対処するために私たちが行っているのは、距離をとること、避けること、動かないこと。果敢にチャレンジしながら苦境を乗り越えるのではなく、コロナに捕まらないようにびくびくすることだ。試合を見ながら、まだ1年とたたないのに、社会はずいぶん変わってしまったなと感じた。

ワクチンや治療薬が開発されても、社会は以前と同じように戻りはしないだろう。私たちは「人(というウイルス)を避ける」という感覚を無意識のうちに身に付けてしまったと思う。(ここ数十年で、「自己責任」という感覚を身に付けてしまったように。)マスクした人に目の前で咳をされた時、以前と同じような感覚でいられる気がしない。どこかで「避けたい、逃げたい、離れたい」という感覚を持ってしまうと思う。その人からではなく、ウイルスからだ。咳をした瞬間、目の前の人は人でなくウイルスになる。

コロナの厄介なところは、感染していても発症しない時期や人があることだ。原理的には、目の前にいる人は咳をしようがしまいが、ウイルスである可能性がある。人として「親しくなりたい、捉まえたい、近づきたい」と思いつつ、ウイルスとして「避けたい、逃げたい、離れたい」とも思う。こういう、相反する感覚を同時に抱えながら、日々の生活をすることになる。かなりのストレスを感じるに違いない。そして、ちょっとでも気を抜いて感染をすれば、おそらく「自己責任」という言葉と向き合うことになる。耐えられるのかな?

そんなことを考えながら、今日もランニングをした。梅雨明けの土手、午後2時すぎ。夏の太陽は心地よいが、暑い。ゆっくり、ゆっくり走った。熱中症にならないように。結局、7月の走行距離は145km。もう少し距離を稼ぎたかったが、まあ、悪くはない。とりあえず、今年の年間目標を1500kmにした。1ヶ月に125km、12ヶ月で1500kmだ。計算上は7月末で875km走っていることになるが、実際は787km。まあ、今年の前半はほとんど走れなかったので仕方ない。残り5ヶ月で少しずつ取り戻そう。

走る時間が増えれば、走りながら思いを巡らす時間も増える。そうすれば、巡らせた思いを言葉にし、こうして文章に起こすことも出来る。文章にして自分の外側に出すことで、自分の中に新たなスペースが生まれる。そのスペースで新たな思いを巡らす。繰り返しだ。

梅雨も明けて夏が来た。何十年も通い続けていた館山での海水浴はなくなった。福島でのキャンプもなくなった。だからといって、空っぽの本棚のようにしておくことはできない。さて、何を並べようか。
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