とんびの視点

まとはづれなことばかり

2月20日(水)のつぶやき

2013年02月21日 | 雑文
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次男骨折、熟読ノート

2013年02月20日 | 雑文
日常がドタバタしている。月曜日の昼過ぎに学校から連絡が入り、次男がジャングルジムから転落したとのこと。相方と車で急いで迎えに行き、整形外科へと向かった。見事に脚の骨を折っていた。

月曜日は家仕事のはずだった。日曜日は、昼に6kmほどスピードのあるランニング、夜には合気道の稽古を3時間。月曜日の朝には筋肉痛がひどく、疲労もたまっていた。1日、体を休めながら頭をじっくり使っていろいろ仕事をするつもりだった。

ところが次男が骨折。その後、今日現在までドタバタが続いている。さいわい頭などは打っていないが、みごとに脛骨を骨折(ひび?)した。脚のスネの部分の骨だ。スネの部分には脛骨と腓骨という2本の骨がある。脛骨は腓骨の4倍くらいの太さで、体重を支える骨だ。その骨が損傷したのだから厄介だ。

とりあえず最低一週間は学校も休んで安静、脚が着けるようになるまでに5週間、全治2ヵ月とのことだ。家に帰ってきたものの全く動けない。トイレも1人で行けない。まだ少しでも動かすと痛みが走るようで、1日に何度も泣きながら痛がっている。(痛み止めを飲んでいても)。時間とともに痛みは引くだろうが、風呂に入れたり、学校への送り迎えを考えると、しばらくは大変そうだ。

そんなわけで月曜日から一挙にドタバタしだしたが、じつはその前から少し忙しくなりはじめていた。きっかけは佐藤優の『読書の技法』を読んだことだ。佐藤優といえば元外務省主任分析官だ。ロシア関係に詳しく、鈴木宗男絡みの事件で偽計業務妨害容疑で有罪となり外務省を失職した。

『読書の技法』というタイトルだが、単なる読書論ではない。著者は「本を読み、内容を整理・分析し、原稿にする」ことを仕事にしているので、ある意味では仕事論といえる一冊だ。どんな世界でも一流の評価を得られる人間は、自分のやりたいことをやるのではなく、求める結果から逆算したやり方に自分を従わせる。

著者は1ヵ月に最低300冊の本を読むそうだ。読み方には1冊を5分で読む「超速読」、1冊を30分で読む「普通の速読」、そしてじっくりと読む「熟読」の3種類がある。まず「超速読」で本を、①このまま終えて良いもの、②普通の速読をするもの、③熟読をするもの、の3種類に分ける。そしてそれぞれにあった読み方をする。

実際、著者が熟読をするのは月に4、5冊だそうだ。(それでも凄い量だ)。そして熟読が出来ない人間には、超速読も普通の速読も出来ないという。僕が感心したのは、徹底した熟読の仕方だ。熟読では1度目は、シャープペンで気になった部分をマークしながらじっくり読む。2度目はマークした部分を再読しながら重要なものを囲み、ノートにきちんと書き写し、コメントなどをつける。そして3度目はもう一度読み返す。

特に感心したのは、ノートへの書き写しだ。用語を抜き書きしたり、まとめを書くのではなく、本文をそのままノートに書き写している。これはインプットの段階で、自分のバイアスをかけないようにするためだろう。用語の抜き出しやまとめは、それ自体、読み手の価値判断が入っているからだ。(もちろん重要部分を選択していること自体がバイアスとも言える)。

そこで僕も、読んでいる本の重要部分をノートに書き写しはじめた。とにかく時間がかかる。そのぶん、本を読んだり、ブログを書くなど他のことをする時間が減る。やっていてどこかいらいらする。その反面、情報がきちんとインプットされていく。聞けばわかるというレベルから、ほぼ正確にアウトプットできるレベルになる。(例えば、先日福島では3万8000人が甲状腺の検査をした。その結果、悪性の甲状腺腫瘍は疑いを含めて10名。そのうち3人は手術ずみ。ヨーロッパでは50万人~100万人に1人の発病比率だという。というのが頭に入っている)。その意味では手応えを感じる。

自分でやろうと決めたことに、いらいらしながらも手応えを感じている。こういう日々がほぼ一週間ほど続いていた。月曜日はその辺りも含め、少し落ち着いて頭を使おうと思っていたら、次男が骨折をし、さらなるドタバタに発展した。やっとこうして文を書く時間が確保できた。こんなことを書くつもりはなかったのだが、とにかく書いたら少しは落ち着いてきた。さて、これからまたノートでも作ろう。



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2月10日(日)のつぶやき

2013年02月11日 | 雑文
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「思い違い」と「考え違い」の社会

2013年02月10日 | 雑文
2月8日の新聞に気になる記事が二つ載っていた。一つは「虚偽説明 東電、国会を愚弄」で、もう一つが「審議官が資料提供 原子力規制庁 無責任体質いまもなお」だ。どちらも原発絡みの記事だが、別に原発の問題として考えたいわけではない。

最初の記事は、昨年の2月に国会事故調査委員会が福島第一原発の1号機の建屋内を調べようとしたら、東京電力が「建屋内は真っ暗で危険」などと虚偽の説明をして調査を断念させた問題だ。調査目的は、1号機に設置されていた非常用冷却装置(IC)が壊れた原因を調べることだ。東電側は原因を津波としていたが、国会事故調は地震の可能性もあると疑っていた。当然のことだが、地震によりICが壊れたのであれば、原発の安全対策の基準に大きな影響を持つ。

東電側は「建屋内は真っ暗で危険」と調査を断念させたが、その後に公開された映像から建屋内はある程度明るかったことが判明した。東電広報部は、騙す意図はなく、「単なる思い違い」だ。現場が危ない状況だったのは間違いないと説明している。「単なる思い違い」というところがポイントだ。

もう一つの記事は、敦賀原発の断層調査をめぐり、原子力規制庁幹部が日本原電側に報告書の原案を渡していた問題だ。原電(日本原子力発電株式会社)は、茨城県那珂郡東海村と福井県敦賀市に原子力発電所を持つ卸電気事業者だ。原発が動いていないにも関わらず、2012年度上半期の純利益が209億円と過去最高だったことが少し前に報道された。

まったく発電しなくても利益が上がる電力料金システムや、原子力規制庁という組織の問題点など調べることはいろいろある。しかしここでは、規制庁のナンバー3が業者側とたびたび密会(?)し、公表前の資料を渡していたことに対して、原子力規制委員会の委員長が「個人の考え違い」と組織責任を否定したことに注目する。「考え違い」というのがポイントだ。

「思い違い」と「考え違い」が原因である。なるほど、人間は必ずしも完璧な存在ではない。思い違いをすることもあるだろうし、考え違いをすることもあるだろう。ただこれは、ほうれん草だと思って小松菜を買ってしまったとか、高速増殖炉と聞いて、電気が高速で増えていくんだと考えてしまうようなのんきな話しではない。福島原発を受け、今後の日本をきちんとしていくという大きな話しである。そういう話しを単純な「思い違い」や「考え違い」する人に任せていいのか。そのように、相手の能力の問題として組み立てることは簡単だ。

もちろん、東電にしろ規制庁にしろ、そんな簡単に「思い違い」や「考え違い」をするような人たちはではない。いずれもかなりの知的訓練を受けているはずだ。みな高学歴だろうし、それなりの業務遂行力もあるはずだ。そんな簡単な「思い違い」や「考え違い」をするような人たちではない。つまり彼らにとって「思い違い」や「考え違い」という言葉は、自らの欠点を明確にし、次に同様のミスを犯さないようにするための自戒には繋がらない。(「そうか、俺は建屋の明るさを思い違いしてしまう人間のか。よーし、次はきちんと電気がついていることを確認できるようになろう」とはならない)。

それならば、彼らはなぜ「思い違い」や「考え違い」という言葉を使うのか。当然、その言葉を受けとる相手に向けて、つまり、私たちに合わせて使うのである。不手際や失敗があった。それを問題視する相手がいる。相手が納得できるような説明をしなければならない。たぶん、そう考える。計算できる人間であるほど、自分の言いたいことではなく、相手に合わせて言葉を選ぶ。

だとすれば、「思い違い」「考え違い」という言葉は、私たちに合わせて選ばれた言葉なのだ。そう言っておけば、いずれ事態は収拾すると考えているわけだ。日本社会では何かあるたびに、こういう言い方がされる。(日本社会だけではないのだろう)。専門家の指摘が事前にあったにもかかわらず、社内にもそういう情報があったにもかかわらず、「津波は想定外だった」と言った。「想定外」というのも、「思い違い」「考え違い」と同じ言葉だ。そう言っておけば、あんな大きな問題でも、いずれはみんな忘れてしまい事態は収拾するだろう、と考えているのだと思う。

問われているのは、彼らの能力ではない。私たちの能力なのだ。「思い違い」「考え違い」という言葉を聞いて、「あいつら、どうしようもないな」と呆れていればすむことではない。それは結局、「思い違い」「考え違い」という言葉を許すことにしかならないからだ。それは相手の能力を低くする事に繋がる。私たちの能力も相手の能力も低いまま、「思い違い」や「考え違い」で動いていく社会になってしまう。どんなやり取りであれ、お互いの能力が高まるようなやり方をとり、社会そのものの質を上げていくしかない。そのためにはまず、自分の能力を高めて相手に臨むしかない。





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2月9日(土)のつぶやき

2013年02月10日 | 雑文

『彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力』(荻上チキ著、扶桑社)を読了。荻上氏はPodcastでDigを聞いて知った。なかなか興味深い若手の評論家である。日本の社会に興味がある人にはお勧めできる。同様のジャンルで個人に焦点を当てるなら鈴木大介氏の本が良い。


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自由ではなく、自在に走る

2013年02月09日 | 雑文
2月になり少しは暖かくなったのかと思えば、また真冬のような寒さだ。窓から遠くに見える洗濯物が屋上で北風に揺れている。昨日も昼休みに荒川の土手までランニングに行った。家から土手まで2kmちょっと。土手に着くと、秒速10メートルを越える冷たい北風が吹き続けていた。時折、さらに強い突風が追い討ちをかける。桜の枝は揺れ、川面には白い波頭が立つ。

北に向かって走った。風が体を押し返す。ウィンドブレーカーが波打ちながら体に張り付く。顔が冷たい。手足の指先から熱が奪われていく。「ざーーっ」という風の音が吹き続ける。午後の仕事のことを考える。あまり体力を消耗するわけには行かない。13km走るつもりだったが、今日は短めにしようと思う。

ランナーたちの姿も少なかった。2人乗りをした自転車の高校生が、風に向かってまっすぐに走れないで騒いでいる。寒そうにした小型犬を寒そうにした老人が散歩させさている。そんなものを見ながら、フォームを意識しながら走る。骨盤の辺りと、重心の移動に意識を集中する。

1kmも走っただろうか。いつの間にか風が気にならなくなっていた。もちろん風の影響は受けている。体は流されるし、いつもに比べスピードも落ちている。でも苦痛を感じていない。うまく風と調和が取れている。ランニングの調子が良いときは、大抵、こういう感覚になる。そう、「自在」という言葉がふさわしいのかもしれない。

「自由自在」という言葉があるが、かつて「自由」と「自在」を分けて考えた。「自由」というのが、状況に縛られずに自分の思うままに行動することだとすれば、「自在」というのは、自らが置かれた状況で滞りなく振る舞えることだ、というところに落ち着いた。

「自由」を追い求めれば、自分の行動を阻害するものとの戦いが起きる。(だから「自由は勝ち取るもの」となるのかもしれない)。「自在」であるためには、そこでよりよい状態を引き起こすために、流されるのでもなく、逆らうのでもなく、状況と自分を調和させることが必要になる。北風が吹いているからいつものような走りが出来ない、と言う事なかれ。北風と調和が取れている走りが結果的にはもっとも良い「自在」な走りなのだ。

こういう調和のとれている感覚は大事にしている。たとえば、新聞の見出しを音読するということをほぼ毎日行なっている。竹内敏晴氏の本からヒントを得たのだが、声を出して新聞の見出しを読みながらその内容が自分に伝わっているかを確認する。音読というと、書いてある言葉を音として口から出す事になりやすい。読むことに気を奪われ、内容が入ってこない。そういう読み方だと、仮に相手がいても、音のみが伝わって内容は伝わらないだろう。まずは自分自身に伝わる声の出し方をしなければならない。やってみれば分かるが、自分に伝わるときには、ちゃんと「ぴたっとした感覚」がある。

何であれ、そういう「ぴたっとした感覚」を土台に物事を積み上げていくべきだろう。「ぴたっとした感覚」というのは、結局は世界と自分との調和の程度だ。すべてが「ぴたっと」していることなどないだろうが、その感覚があまりに少ないと、世界からリアリティーが失われていく。どんな思考や行動も、そういった感覚にもとづいて組み立てられているからだ。世界と調和の取れた感覚がないままに思考し行動すれば、それらはどんどんと世界とズレていくことになる。言い方を変えれば、世界とは自分が思うように行動できないような障害の多い場所となる。当然、そんな世界は打ち壊されるべきだし、それを打ち壊す人を恃むようになる。

「ぴたっとした感覚」を確認できないほど、今の日本社会は息苦しいものになっているのかもしれない。しかし本当は、1日5分の新聞の音読のようなものでも確認できる。何より、ここ数年、ランニングがブームになっているのは、そういう感覚を実感できるからではないかと思っている。特別な技術もいらない。1人でも出来る。走った分は距離や時間で計れ、それに合わせて達成感が味わえる。シンプルなのだ。

だから今日も土手まで走りに行く。昨日ほどではないが、今日も北風が吹いていそうだ。自分の身体の声や北風の声を聞き、それらとぴたっと調和し、自在に走れるようになるために。
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2月8日(金)のつぶやき

2013年02月09日 | 雑文

『ユダヤの民と宗教 イスラエルの道』(A.シーグフリード著、岩波新書)を読了。15年くらい家にあるが自分で買ったものではない。誰かに貰ったのだろう。処分しようかと思ったが、とりあえず読む。知らないことばかり。


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2月4日(月)のつぶやき

2013年02月05日 | 雑文

昨夜の合気道の稽古で全身筋肉痛。体をほぐそうと昼休みに8キロほどランニング。荒川の土手は立春にふさわしいおだやかさ。芝生に少しずつ緑色が混じる。


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長男、節分の豆できな粉を作る

2013年02月04日 | 雑文
若潮マラソンから一週間が過ぎた。いつもならマラソン後、一週間くらいは休むのだが、今回は水曜日、金曜日、土曜日とランニングをした。3日で25kmと距離は短いが、それでも走ることは走った。週末、春のように心地よかったこともある。土曜日には次男に自転車で並走させ、荒川の土手を走った。土手にはたくさんのランナーがいて、汗を流していた。次男も自転車を降りて、1kmほど一緒に走った。

筋肉疲労は抜けきっていなかったが、それでも1km5分程度のペースで走れた。(僕にとっては速めのペースだ)。どうやら若潮でタイムを見ずに、フォームだけを気にしたのがよかったようだ。良いフォームが体に残っている。このフォームをきちんと定着させることが3月の板橋cityマラソンまでの課題となる。(あとは体重を3kg落すことかな)。

フォームを意識しながら若潮を走って実感したことがある。一度に二つのことは身に付けられない、ということだ。同時に二つの言葉を思い浮かべられないとか、二兎を追うもの一兎をも得ずなど、頭では分かっていたが、少し違って実感をした。二つのことを同時に追い求めると失敗する、ということではない。本当は二つのことを一つのことと勘違いして追いかけると失敗する、ということだ。

ランニングでは、フォームを意識することと、タイムを追い求めることは、ある意味ひとつのことだ。やっているのは、時間の中で走る、ことだからだ。以前の僕は、時計を見ながらフォームを意識して走っていた。どちらにもそれなりに気を配っていた。しかし結果的には、タイムを意識してオーバーペーストなり、フォームが維持できずタイムも落ちる、ということを繰り返していた。

フォームとタイムの二つを求めているつもりはなかった。「フォームとタイムを意識しながら走る」という一つのことをやっているつもりだった。今回、たまたまフォームだけを意識して走ったことで、自分が二つのことを同時に追い求めていたのだと気づいたわけだ。もちろん、こういう気づきは他にも応用が利く。何か身に付けようとして上手くいかないときに、自分では気付かずに、二つのことを一度に身に付けようとしているのではないかと疑うということだ。

厄介なのは、出来ない人にとっては二つのことが、出来る人にとっては一つのことであることだ。だから、出来る人が出来ない人に「教え」ようとしても上手くいかないことがよく起こる。そこで「気合い」と「根性」が出てきて、体罰や暴力を生み出すことにもなるのだが、それには踏み込まずにおこう。(先日『世界が土曜の夜の夢なら』を一読してこの辺りを考えた。再読しようか迷っているところ)。

さて、今日から立春である。七十二候で言えば、立春の初候「東風凍を解く(とうふうこおりをとく)」、暖かい春風が吹き、川や湖の氷が溶けはじめるころだ。窓の外の太陽の光も心なしか強く感じる。凍ることなどない荒川の川面の色も少しずつ変わっていくだろう。

先週の金曜日、子どもたちは学校で節分の豆まきをした。長男はいつもよりも1時間近く遅く帰宅した。何をしていたのかと思えば、男友達4人で公園で、大豆を「きな粉」にしていたというのだ。大豆を新聞紙で包み、それをさらに何かでくるみ、石で何度も何度も潰したそうだ。小さな子どもを連れた母親たちが何人も見に来て感心していたそうだ。500ミリのペットボトル1本分くらいのきな粉を作った。

翌日の昼過ぎには、レンジで柔らかくした「もち」をタッパーに入れ公園に持っていき、友だちと「きな粉もち」を食べていた。きな粉に少し粒が入っていたのがいまいちだった、と長男は言っていた。きっと「石うす」の大切さを知ったことだろう。

この時期、クラスメートの何人かは中学受験をしている。一方には難解な問題を解いている6年生がいて、もう一方には公園で大豆を石で潰して「きな粉」を作っている6年生がいる。どちらが良いということでもないが、個人的には「きな粉」を作っている方が好きだ。与えられた状況を楽しめる、というのがこれからの社会で必要な能力だと思うからだ。

仕事においても、日常生活においても同じだが、ある状況に陥ったときに、そこに多様な選択肢(つまりは可能性)が見いだせる人と、何も出来ないと見えてしまう人では、思考や行動に大きな違いが出てくる。学校の節分で使った「まめ」が、ただの「残り」と見えれば、いくつか口にして、あとは投げたり、捨てたりだ。でも「まめ」に「きな粉」という可能性が見えれば、公園でのきな粉作り(これも思い出になるだろう)、そして翌日の「きな粉モチ」にまで広がる。

与えられた状況で楽しむ、というと受動的な言葉に聞こえるかもしれない。しかしよく考えれば、自分たちで新たな状況を作り出している。状況に不満を言うよりもよっぽど建設的である。(そもそも私たちがこの世界に生まれてくること自体が、ある状況に放り出されることなのだ)。

私たちは長らく、ハイスペックで便利な機器に囲まれた社会を追い求めてきた。でもそんな社会は思いのほか盤石でもなく、長続きもしなさそうな予兆も出てきた。手持ちの雑多なものにさまざまな可能性を見いだし、自分たちで愉快な社会を作り出すことが必要な時代になりつつあるのだと思う。
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