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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編359~

2021-10-18 06:24:16 | 食~番外編(都内)

レストラン ゴリノス

東京都北区滝野川2-2-1

TEL 03-3949-3859

定休日 無休

王子の飛鳥山から明治通りをちょこっと行った右側にある一見ただの喫茶店に見えるが、

実はその見方は裏切られる穴場のレストランであった。

入口の所では乱雑に貼られたメニューが迎えてくれる。

店内に入っても年季を感じる雰囲気が漂っていて、

何かすごく落ち着く空気が流れていた。

前に先客が一組、後からテニス帰りだと思われる中年カップルが一組。

皆なんとなく常連客のようだ。

写真には撮っていないが、店を采配している年配の女性と、

こちらのシェフの2人でやっているようだ。

最初は夫婦でやっていると思ったが、おかみさんに聞いてみると、

シェフは先代から技を教授された弟子だそうだ。

出てきた料理をいただいて、かなりのすご腕シェフだとわかった。

メニューを見ると洋食屋さんとして一通りのメニューがありオーソドックスだ。

価格も都内としては安く、良心的だ。

さらにメニューをよく見てみるとなんとラーメン(塩・味噌・正油)600円があるではないか。

他にパスタ、ミラネーゼ、肉料理でカチャトラ、

ご飯類でリゾット・オ・セーブなど意外にもお洒落なメニューもある。

当店の夜は居酒屋風に変身するのか、おつまみ類に素敵なメニューがある。

菜の花とベーコンオリーブオイル焼き、エスカルゴのニンニクバター焼き、

しめじホイル焼き、もちのグラタン、あじの唐揚げなど。

本日のおすすめがまた良い。

どれもオーダーしたくなるのが並んでいる。

こういう店、いいんだよナー!

イカバター、砂肝きのこのガーリック炒め、春巻き、パリパリ鳥皮ギョーザ、

大根のシャキシャキサラダ、ミラノ風なすのチーズ焼き。

メイン料理以外にパリパリ鳥皮ギョーザ(380円)という

名前に惹かれてサブメニューをオーダー。

鉄板鍋の中に5個もあり、これで380円とは安いですよネー。

見た目もとても餃子には見えない超優れもの。

しかもパリパリの皮で旨い!

これは素晴らしいメニューだ。

次にお店の人に勧められて本日のランチ・自家製ハヤシライス

(スープ、フルーツ付。フルーツはみかん1個だ)720円(税込)を注文。

これも肉がいっぱい。

彩りにミニトマト、ゆで玉子に香草。

この3点があるだけで見た目の美しさが全然違う。

味の方といえば、これは旨いに決まっています。

これを食して、このレストラン、すっかり気に入った。

隣りの青いみかんも素朴でなんとも雰囲気があるでしょう。

そして当店イチオシと看板に書かれたハンバーグセット

(ライス、スープ、サラダ付)1,230円+消費税。

見た目は普通といえば普通だが、目玉焼き、野菜の付け合わせの

配置バランスを見ると余裕の美を感じてしまう。

肝心のハンバーグももちろん絶品でした。

以上の料理をシェアしていただき、より満足感が数倍に増して

とてもハッピーな気分になった。

サラダとスープ。

スープが少しボケてしまいました。

水菜のスープは歯ざわりがいい食材ですよネー。

このジンジャエールも気のせいかお洒落に見えてしまうから

人間って不思議な動物です。

NHK大河のドラマ館が王子飛鳥山にでき、

しかもここ北区が東京23区で初とは知らなかったなー!

ややマイナーな北区の区民は他区を退けて、

ヤッターという気分ではないですかね。

飛鳥山には紙の博物館がある。

王子駅の東口には前の王子製紙(株)が創業した。

これも渋沢栄一が深く関わった。

「何より先に西洋紙の製造をやらなければなるまい」

これで近代製紙業が王子ではじまった。

王子は洋紙発祥の地だ。

このポスターに使われている渋沢栄一の写真は

明治5年~6年頃のもので初めて見た。


青天を衝け大河ドラマ館 IN飛鳥山

2021-10-16 06:35:19 | イベント

渋沢栄一翁が人生の拠点とした王子飛鳥山。

ここは渋沢翁のテーマパークといわれている程、

飛鳥山周辺には渋沢翁に関するコンテンツがたくさんある。

渋沢栄一の足跡を訪ねる旅、第3弾です。

大河ドラマ館の外で広報キャラクターのしぶさわくんが出迎えてくれた。

ここは北区飛鳥山博物館。

ここで今年の2月20日から12月26日まで

NHK大河ドラマ「青天を衝け」の大河ドラマ館が開かれている。

因みに東京23区で北区のここが初の大河ドラマ館となったそうだ。

大河ドラマ館の入場券販売場は公園内に作られた洒落たプレハブで行われていた。

料金は大人800円と結構高めだ。

館内に入るとまず最初に吉沢亮さん(渋沢栄一役)の特大グラフィックがお出迎えしてくれる。

パリ万博編の洋装姿の栄一はこちら北区にある旧醸造試験所第一工場で撮影された。

そしてここのところダブルで脚光を浴びている渋沢栄一ののぼりも迎えてくれる。

すなわち2021年大河ドラマの主人公であり、

2024年には1万円札の新しい顔になるからである。

また、入口では「栄一を支える一言」パネルで栄一の歩みを振り返ることもできる。

①母の一言

「あんたがうれしいだけじゃなくて みんながうれしいのが一番なんだで」

②少年栄一に芽生えた熱き思い

「承服できん!承服できっこねえに!」

③千代が答えた一言

「強く見える者ほど弱き者です」

弱き者とて強いところもある

人は一面ではございません

④旅立つ栄一に恩人(平岡円四郎)

「だから渋沢、おめえはおめえのまま生き抜け 必ずだ いいな」

「青天を衝け」の世界を満喫できるコーナー。

撮影で実際に使用された衣装や小道具、相関図パネルなどが展示されている。

渋沢史料館の井上館長らによるとパリ万博解説パネルや

パリ万博幕府ブースのセットの再現が見られるのは北区ならではの事とか。

大河ドラマ「青天を衝け」の作は大森美香さんという女性。

題字は杉本博司氏、そして音楽は「ALWAYS 三丁目の夕日」の佐藤直紀氏だ。

部屋のセンターには各役者の衣装が展示してあった。

上は民部公子・徳川昭武(板垣李光人)の衣装。

真ん中は主役・渋沢篤太夫(栄一)(吉沢亮)の衣装。

下は医師・高松凌雲(細田善彦)の衣装。

「青天を衝け」の人物相関図。

やはり先日深谷に行ってきたばかりなので渋沢家の中の家・東の家・新屋敷(喜作)、

尾高家(惇忠、長七郎、平九郎、千代)の一族の関係がとても興味がある。

パリ万博での幕府ブースのセット。

日本瓦というよりも中華風の屋根瓦に日章旗。

ジャポンの国名がとても新鮮に感じる。

フランスの人が日本ブースをどのように飾ろうと考えたのか、

映像デザイナーの方は実際残っているデザイン画を元に、

時代考証の先生に協力していただいて作ったとか。

苦労の跡がよくわかりました。

ガラスケースの中に4人の衣装と写真、グッズなどが展示されている。

右から順に德川慶喜(草彅剛)の黒地ウール仏陸軍礼装軍服に生成り地ウールズボン。

徳川昭武(板垣李光人)の鉄紺色ウール四釦三つ組背広と

木蘭色縁取り付き漆黒地三釦上着に生成色乗馬ボタン。

渋沢篤太夫(吉沢亮)の濃紺色ウール地ベストズボンに

紺青色シングルフロックコート、シルクハット。

土方歳三(町田啓太)の漆黒地ウール多釦丸首ベストにズボン漆黒地シングルフロックコート。

パリ万国博覧会の招待状。

これは第20回「篤太夫、青天の霹靂」で撮影使用品。

ここでしか見られない高さ8mの大型スクリーンにドラマの世界観を表現した映像作品。

圧巻の映像と会場を包み込むドラマのオープニング曲により、

ドラマの世界に一気に引き込まれる。

「なりきり1万円札」 あなたも1万円札の肖像に!?

お手持ちのスマートフォンでダウンロードできるほか、

「渋沢✕北区飛鳥山おみやげ館」隣で印刷(有料)してお持ち帰りできる。

迫力のドラマシアター!

「渋沢栄一と徳川慶喜 運命の出会いから新しい時代へ編」

パリ万博そして明治へ。

激動の時代に奔走する栄一と慶喜の姿を描く4Kドラマシアター。

製作の舞台裏をのぞけるメイキング映像もたっぷり。

栄一役・吉沢亮さんはもちろん、五代才助役・ディーンフジオカさんや

杉浦愛蔵役・志尊淳さんなどの貴重なインタビューも必見です。

地元の中学校の生徒さんが渋沢栄一についての新聞を作ったそうです。

これが本当の歴史教育で良い教育をしていますネー。

大河ドラマ館のある北区飛鳥山博物館は平成10年3月に開館した北区の郷土資料館です。

1階部分が常設展示室で、1つの象徴展示、13の時代別に分類したテーマ展示、

そして荒川の生態系を取り上げた展示により構成されている。

 


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編358~

2021-10-15 06:19:30 | 食~番外編(都内)

御酢所 醍醐

東京都大田区田園調布3-1-4(駅西口前)

TEL 03-3721-3490

定休日 火曜日

https://daigo-sushi.net/

田園調布駅西口から徒歩1~2分。

ほぼ駅前にある80年余りの歴史のある老舗の寿司屋さん。

創業は江戸時代末期、深川で帆掛寿司という屋台で始まり、日本橋、銀座でも営業し、

先代が昭和11年、ここ田園調布で開業したという歴史を誇っている。

当店は江戸前寿しと玄関横に掲げてある大阪酢、茶きん寿司、

京風ちらしすし、むし寿司、鯖棒すし、鮎姿すしといった

関西寿司の両方を扱うといった二本立てのお客にとってはうれしいスタイルの寿司店だ。

また、田園調布駅構内にテイクアウト店もある。

当店はカウンター席8席、テーブル席22席あり、

この写真の奥にも半個室テーブル席があった。

この日はご覧のようにほぼ満席。

しかも田園調布マダムなのか、結構な高齢の女性がほとんどを占めていた。

特に1人で来ていた数名の女性客は常連なのか、

1つ1つ味わいながら黙々と食べていたのが印象的だった。

板場の中にはかなり高齢な職人さんが2人、一生懸命握っていた。

当店は出前もやっているようで板場を見るとすごく忙しそうで

その集中力が伝わってきた。

当店のメニューは写真付きで1ページ1メニューで本になっている。

はじめは江戸前の握り寿司、ちらし寿司は2,430円。

茶きん寿司の並が968円、上が1,331円。

手籠の茶巾と大阪寿司の組み合わせが1,089円。

見た目に美しい菊花酢3色で1,996円、小鯛雀酢2,178円、鯖棒酢2,178円。

京風ちらし寿司は並1,331円、上1,936円。

むし寿司は並・上ともに不明。

小鯛丸型すし1,815円、あゆ姿すし968円。

他にバッテラ、太巻寿司、穴子箱ずし。

さらに醍醐セット3,080円、新発売・むし寿司丼などがある。

それにしても価格は良心的だということだが、細かいのにはビックリ。

このメニューを何回も見て江戸前はいつでも食べられるので関西寿司に絞り、

茶きん、菊花昆布其の他盛り合せの欲張りメニュー2,295円にした。

ご覧のように、まず見た目が美しい。

そして職人のやさしさが伝わってくる美味しさだ。

押し寿司はあくまでふんわり、職人技が出ている。

特に真ん中の締めたキスは絶品だった。

海老の菊花酢は美しいのに反して食べにくく、しばしどうやって食するか考えてしまった。

店頭には大田のお土産100選で「茶巾寿司と穴子の箱寿司の詰合せ」が

最優秀賞をとった表彰状と食品衛生優良施設の盾が誇らしげに置いてある。

線路沿いのバスターミナルの前、左に当店など住宅地の中では珍しく、

商業店舗のビルが数軒並んでいたのがとても新鮮な風景に映った。

 

 


大田区田園調布エリアの豪邸

2021-10-14 06:29:24 | 建物

文京区大和郷エリア以来、約1年振りの豪邸シリーズアップとなりました。

どうしてかというと、コロナ感染防止の緊急事態宣言により

都内への移動を真剣に自粛していた為であります。

今回の田園調布エリアで通算8エリア目になりますが、

この豪邸シリーズはスミダマンのほのぼの奮戦記の中で最も人気の高いシリーズであります。

そして今回田園調布エリアを選んだのは

渋沢栄一によってこのプロジャクトが立ち上げられたという

「渋沢栄一の足跡をたどる旅」に相応しいと考えたからであります。

では渋沢栄一シリーズ第2弾始まり始まり!

田園調布エリアの駅は東急東横線、東急目黒線の交差駅の田園調布駅になります。

そして地図的には大田区の最西端、世田谷区の最南端に隣接し、

西に多摩川が流れ、神奈川県川崎市との都県境に位置しています。

こじんまりしたお洒落な空気の流れる駅構内には

ベーカリー&カフェのお客の姿もあります。

改札口を出るとどことなく南欧の雰囲気に包まれた

ショッピングセンター「東急スクエアガーデン」が優しく迎えてくれます。

やはり低層の建物は人にとても温かみを感じさせる。

ただでさえ人の温もりを感じさせるスパニッシュ風の屋根に

ベージュ系の外壁のショッピングセンターの建物に

生きたグリーンの服装をまとわせるような花壇の植栽と花々。

駅を降りるなりいきなりこの風景は高級な気持ちにさせてくれる。

そしてこの建物が田園調布のランドマーク、復元された駅舎。

屋根がマンサードルーフで欧州中世の民家をモデルにしたもの。

2000年1月15日に駅のシンボルとして復元され、関東の駅百選に認定された。

噴水を中心とした西口ロータリー。

そこから広がる放射状及び同心円状の道路、街路樹の銀杏並木、そしてこの旧駅舎。

この周辺風景はまるで絵に描いたような美しさだ。

駅前の噴水公園があるロータリーのベンチの所には

アールの石に田園調布の由来についての長文が書かれている。

この碑は昭和34年秋、社団法人・田園調布会・会長名で出されたものだ。

それによると「約80万㎡のこの地域は渋沢栄一翁が田園都市に着目して

都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅地を実現させようと

自ら老体を運んで土地を選定した所である。

そして大正7年に我が国初めての近代的大計画都市が実現した。

この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、

建築の申し合せ、境界には花壇、低い生垣にするなどを厳格に実行した。

大正12年3月、当地に駅が設けられ田園調布という駅名に改められた…等々」が書かれている。

西口駅前にある木造の素敵な建物の2階に「PASTA RI」というイタリアンレストランがあり、

ここでランチをと思ったらなんと1時間45分待ちですって。

それでは田園調布の街巡りを先にと、とりあえず予約をして店を出た。

なお、1階にはお惣菜とお弁当のお店「DELI BREEZE」がある。

それではこれから豪邸巡りをスタートしましょう。

この道は駅を背にして左から2本目の放射線の道。

しばらく行くと交差している店の形が田園調布の最大の特色、

アールのゆるやかな曲線の道が見える。

このアールにすることによって道の先はすべて緑が見える潤いの造りになっている。

このお宅は大きすぎて全体を撮ることができませんでしたが、

おそらく最近建て替えられた和をベースにした

田園調布の建物では珍しいコンセプトの豪邸だ。

このように周囲の雰囲気に溶け込んだシックなRCの豪邸が続く。

両宅ともガレージが大きく複数台の車庫になっているのだろう。

こちらの豪邸は道路角地を活かしてかなり大きなアールのファザードの2種のタイル貼り。

とてもアピール度の強い邸宅だ。

大正14年、田園調布の開発に際し、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために

田園都市(株)は街の一画の汐見台の土地を公園用の広場として残した。

この宝来公園は多摩川の沿岸旧荏原郡下沼部村の丘陵に位置し、

付近は亀甲山古墳を始めとする多くの遺跡に富んでいる。

園内には梅、桜をはじめ、クヌギ、シイなど約70種1,500本の樹木が繁り、

四季折々の自然の美しさは今も武蔵野の面影を残している。

この通りにはご覧のようなメルヘンチックな夢のある豪邸が並んでいて、

この一角をちょっと違った雰囲気の楽しい空気が流れていた。

それぞれ個性の違う豪邸で見応えがある。

特に3枚目の邸宅は重々しい石貼りの圧倒的存在感がある建物なだけに

逆に生け垣の優しさが生きている。

2枚目の豪邸はまだ新しい邸宅ではないか?

他の豪邸とは意匠のコンセプトが違い印象的な感じがした。

1枚目の豪邸はちょっと古い感じがしたが、門扉の存在感がすごい。

まだ植えたばかりか?

小さな生け垣だが糸杉のようで成長すると振り返りたくなるような生け垣になるのでは。

この邸宅の門扉のすごさには驚いた。

これだけでも威圧感がある。

こちらの豪邸の意匠はかなり違いがある。

上の邸宅はとてもオーソドックスなディテールだが、

下の邸宅は石貼りのアールの壁がすごいアピールをしている。

両邸宅とも素晴らしい。

田園調布に居住し、この街の開発を推進した渋沢栄一の子・渋沢秀雄によると

「田園調布の西側に半円のエトワール型を取り入れ、道路を造り、

街路樹を植え、広場と公園を整備し、庭を広くとり緑地の一部とし、

街全体を庭園のようにするなど良好な住環境をめざせ」と奮闘した。

なんと田園調布に外国大使館を発見。

アフリカのナイジェリア大使館だ。

この大邸宅だけを見ると、ここはアメリカか?と勘違いしてしまいそうな建物だ。

はたして住宅なのか、あるいは大使館等事務所系の建物なのかわからないが、

田園調布の中では異彩を放っていた豪邸だ。

荒っぽい表現だが丸と四角と長方形のそれぞれすごい豪邸が続く。

イギリスで提唱された田園都市構想をモデルに

日本有数の高級住宅地として開発された約30万坪のエリア。

日本で初めて庭園都市(ガーデンシティー)として計画的に分譲された地域で、

関東大震災後に都心から多くの人が移住してきた。

今回、田園調布の全豪邸を見たわけではないが、

この邸宅が一番すごく強烈なインパクトのある豪邸であった。

玄関の両サイド、石の擁壁の前には2つの枯山水の庭園を配し、玄関扉のすごいこと。

道路の角地にあり、圧倒的な存在感のある豪邸中の豪邸といった感じだった。

いったいどんな人が住んでいるのだろうか素朴にそう思う。

このすごい豪邸と張り合うかのように向い側にもまたすごい豪邸が建っていた。

昔(1980年代)漫才の星セントルイスが

「田園調布に家が建つ」のギャグネタでヒットしたが、

そんなレベルはすっとんでしまう程の豪邸が続いている。

駅が正面ストリートの左側一等地にあるケーキ屋さん「レピドール」。

2階はカフェになっている。

建物を見るととてもケーキ屋さんとは思えない素晴らしさだ。

こちらは線路沿いにある南欧地中海風の商業ビル。

その向かい側がバスターミナルになっている。

最後に田園調布の安心安全を見守っている駅前交番。

交番までもが南欧風のオシャレチックな造りに見える。

なお、参考に田園調布に住んでいる有名人は石原慎太郎、五木ひろし、

犬丸一郎(帝国ホテル)、牛尾治朗(ウシオ電機会長)、梅沢富美男、

曽野綾子、長嶋茂雄、鳩山由紀夫、中井貴一、鳥羽博道(ドトールコーヒー)。

かつて住んでいた人は渋沢秀雄、石川達三、石坂浩二、石坂洋次郎、

高峰三枝子、中内功(ダイエー)、霧島昇、小暮実千代、岡田真澄 等々。

錚々たる人達だ。

 

 


レタスチャーハン ~その13~

2021-10-13 06:03:46 | 料理

スミダマンの料理の中でも最も長く試行錯誤を繰り返してきたのがチャーハン。

未だ未完成の料理だが、納得の領域まで達したと思っている。

スミダマンのチャーハンは余った冷凍ごはんが溜まってくると

休日の昼に作りたくなるメニューだ。

これがレタスチャーハンの完成したものです。

今回は彩りも兼ねて紅しょうがをあしらってみました。

紅しょうがは好物なものですから。

ブログ掲載のためチャーハンの形作りをしたところ、

皿にごはんつぶが散ってしまい汚らしくなってしまいました。

これは今後の反省点ですネ。

 

 

(スミダマンのチャーハンの材料)

豚バラ肉、長ネギ、玉ねぎ、レタス、グリーンピース、卵、

鶏がらスープの素、サラダ油、ごま油、深谷ネギ油、

塩、こしょう、醤油、味の素、冷凍ごはん

スミダマンは最初は長ネギの小口切り(やや厚め)だけを使っていたが、

甘味(旨味)を出すため玉ねぎのみじん切りも加えることにした。

今回はレタスチャーハンにしたのでレタスは3cmくらいのざく切りに。

レタスチャーハンのポイントはレタスを入れるタイミングです。

シャキシャキ感を出すため、具材として最後に投入。

レタスチャーハン以外にたまにカニチャーハンも作っている。

今回は家にある豚肉ということで豚モモ肉スライスを使ったが、

通常は豚バラ肉がおすすめ。

食べやすい大きさに切り、軽く塩・コショウをして下味を付けておく。

溶き卵(2個)の中に隠し味として塩と砂糖を少々。

ごま油でなるべく半熟トロトロで他の器へ。

今回はブログ掲載のためデジカメで撮っていたらちょっと炒りすぎてしまった。

今回はグリーンピースを使った。

グリーンピースは好物だが、好き嫌いがあるようだ。

最近感じるにグリーンピースの缶詰のものは色が緑色から黄緑色に変わったみたいだ。

着色料のせいか?

サァー、これから炒め工程に。

最初にサラダ油で豚肉を炒め、色が変わったら長ネギ、玉ねぎをその中に加え、

ややしんなりするまで炒める。

ここで残りごはんの整理として冷凍していたごはんを、できれば自然解凍。

時間がなければ電子レンジで解凍する。

ほぼ解凍したごはんを炒めた具材の中に入れ、

ダマがなくなるまで丁寧に炒める。

いよいよここから味付け工程。

隠し味として鶏がらスープの素(顆粒)を入れる。

今回、片手でデジカメを撮っていたため、ちょっと入れ過ぎてしまった。

そして味を調えるため、塩、こしょう、深谷ネギ油、味の素、

香り付けに鍋肌から醤油を少々入れ、全体に行き渡るように炒める。

ここでの塩の量でかなりチャーハンの味が決まってしまうので注意。

ここで炒めた半熟トロトロ卵を入れ、ごはん全体にまんべんなく行き渡るよう炒め続ける。

最終工程としてグリーンピース、そしてレタスを投入。

レタスが若干しんなりしてきたら火を止める。

レタスチャーハンの上に紅しょうがを添えて完成でーす。

チャーハンにはパラパラ系のものと、しっとり系のものがあるが、

スミダマンのはしっとり系で旨いと思いますヨ!

以前はパラパラ系にも挑戦してみましたが、自分的にはこのスタイルが好みです。

最近改良の気持ちが薄くなりましたが、このブログを書いているうちに

さらにレベルアップに挑戦しようという気持ちになってきました。


日本煉瓦製造(株)資料館

2021-10-12 06:13:16 | 地元企業

渋沢栄一の足跡を訪ねる深谷の旅も午後3時を過ぎ、だいぶ疲れてきたが、

どうしても一ヶ所行きたいところがあり、足を延ばしてみた。

それは日本煉瓦製造であります。

その理由は後で書いてみたいと思います。

この建物は明治21年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たった

ナスチェンテス・チーゼ技師が住居兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。

地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれている。

チーゼは娘・クララと共に明治22年12月にドイツに帰国するまでここで生活し、

彼の帰国後は会社事務所として使用された。

現在は煉瓦資料館として土・日曜日(9:00~16:00)だけ無料で一般に公開している。

なお、この建造物は平成9年に国の重要文化財の指定を受けた。

日本煉瓦製造(株)は明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、

煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。

工場建設地は当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、

ナスチェンテス・チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、

良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現・深谷市上敷免新井に決定された。

そして日本近代化に大いに貢献した。

東京駅、現在の迎賓館、法務省のビル、丸の内の三菱ビル群などに当社のレンガが使われた。

現在施設として残っているのは重要文化財の前述の旧事務所、

同じく重要文化財の旧変電室、

そして現在改修工事中のホフマン輪窯6号窯のみとなってしまった。

最盛期には下の模型のように6基の窯が稼働して月産65万個の煉瓦を焼いていました。

昭和53年からは煉瓦資料館として貴重な文書、写真などを展示している。

先日紹介した煉瓦仕様の深谷駅の模型も展示してあった。

この6枚の額には昭和2年、渋沢栄一翁と秩父セメントの創業者・諸井恒平、

ドイツ技術者はじめ創業期の人々、

明治5年の諸井家の家族(恒平の父親はまだちょんまげを結っている)、

明治37年、諸井恒平と長男・貫一(経団連の創設、日経連初代会長、

経済同友会の初代代表幹事、秩父セメント社長、秩父鉄道社長、

埼玉銀行会長、日本煉瓦製造会社会長など歴任した)の写真。

そして渋沢正雄(栄一の三男)から諸井恒平への添え状、

恒平の礼状原稿など貴重なものも展示してある。

こちらには明治から昭和にかけての煉瓦の製造過程の写真が展示してある。

右上の蒸気機関車の写真は民間企業では日本最初の専用鉄道だとか。

ドイツ人フリードリッヒ・ホフマンが考案した

最新式「ホフマン式輪窯」の図面をドイツから取り寄せた。

現在残っているのはそのうちの6号窯。

この輪窯は平成31年2月から改修工事の為、公開を休止している。

また、ここで製造された各種のレンガサンプルも展示してあった。

こちらの方々が日本煉瓦製造(株)の創立から約140年の歴史を支えた経営者の人々。

渋沢栄一、益田孝、ナスチェンテス・チーゼ、諸井恒平(つねへい)、

諸井四郎3代会長、諸井貫一4代会長、大友恒夫5代会長。

そして当社は平成18年6月30日、日本近代化の歴史的使命を終えて解散した。

当社、日本煉瓦製造(株)を原点として諸井恒平氏らによって創立された秩父セメント(株)は、

その後、小野田セメント(株)と合併。

秩父小野田(株)となり、さらにその後、日本セメント(株)と再合併し、

現在太平洋セメント(株)に至っている。

スミダマンは一時期、秩父セメントの仕事をしており、

こちらのごあいさつにある諸井恒一社長とも親しくさせていただいた。

通称「ニチレン」と言っていた当社の工場も大部以前に視察に来たことがあり、

今回、ものすごく懐かしく思い出します。

 

 


誠之堂と清風亭

2021-10-11 06:26:22 | 建物

渋沢栄一記念館から尾高惇忠生家に向かう途中、

カーナビの入力を間違えたのか迷子になり道をさまよっていたら

偶然、誠之堂・清風亭のある大寄公民館敷地に出てしまった。

当地には時間に余裕があれば寄る予定であった為、急遽予定変更して立ち寄った。

ここに写っているのは大寄公民館の公民館棟と体育館棟。

この誠之堂は大正15年(1916年)渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して

第一銀行行員たちの出資により建築された。

明治29年に第一国立銀行が第一銀行となってから栄一は初代頭取を務めた。

喜寿を迎えるのを機に、頭取を辞任した。

「誠之堂」の命名は栄一自身のもので中庸の一節から取った。

設計者は当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉。

設計にあたっての条件は「西洋風の田舎屋」で建坪は30坪前後で、

これを守りつつ独自の発想を凝縮して造り上げた。

平成15年5月30日、国の重要文化財に指定された。

この誠之堂と後述する清風亭はともに東京都・世田谷区瀬田にあった

第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていた。

昭和46年、敷地の過半は聖マリア学園に売却され、

平成9年、学園の施設拡充計画に伴い、取り壊しの危機に瀕することになった。

これを深谷市は譲受けに名乗り上げ、平成11年8月にこの地に移築復元を完成させた。

建築面積112㎡、煉瓦造平屋建。

外観は英国農家に範をとりながら、室内外の装飾には東洋的な意匠を取り入れている。

大広間の円筒状の漆喰天井(ヴォールト天井)は石膏レリーフにより、

雲、鶴、松葉の緑、寿の文字が配され朝鮮風。

一方、次の間の天井は日本的な綱代天井で、数寄屋造りの様式を取り入れている。

暖炉の上には渋沢栄一のレリーフが描かれている。

なお、解体の際に外壁、基礎の各所から「上敷免製」の刻印のある煉瓦が発見され、

これらの煉瓦は深谷市上敷免に所在した日本煉瓦製造(株)で

焼かれたものであることが確認された。

堂内にはこの建物の歴史、設計、煉瓦についての資料などが展示され、

ちょっとしたミニミュージアムになっている。

昔の大集合写真。

前列真ん中に渋沢栄一翁を中心に渋沢家一族、

そして多くの関係著名人が写っている貴重な写真だ。

こちらの清風亭は大正15年(1926年)、当時・第一銀行頭取であった

佐々木勇之助の古命(70歳)を記念して誠之堂と並べて建てられた。

建築資金は誠之堂と同じく、すべて第一銀行行員たちの出資によるもの。

佐々木は大正5年、栄一を継いで第一銀行・第2代頭取に就任した。

設計者は銀行建築の第一人者の西村好時。

建築面積は168㎡で鉄筋コンクリート造平屋建。

外壁は人造石掻落し仕上げの白黒に黒いスクラッチタイルと

鼻黒煉瓦がアクセントをつけている。

屋根のスパニッシュ瓦、ベランダのアーチ、出窓にステンドグラスや円柱装飾など

西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していた

スペイン風の様式が採られている。

平成16年3月23日、埼玉県指定有形文化財に指定。

こちらが清風亭の室内の写真。

こちらの建物には中に入らなかった為、展示してある物の詳細はわからない。

室内の雰囲気は誠之堂に負けず劣らずの重厚でシックで大人の空気を感じた。


渋沢栄一記念館

2021-10-09 06:03:56 | 建物

旧渋沢邸「中の家」から東へ尾高惇忠生家へ向かう

ちょうど中ほどに渋沢栄一記念館がある。

この記念館は平成7年(1995年)11月11日(栄一の祥月命日)に開館した。

中に八基公民館も併設している。

ご覧のように渋沢栄一の偉業を称える堂々とした趣きの記念館だ。

館内に入ると正面に受付がある。

その後ろにある階段の踊り場の所に栄一が尽力した日米の平和交流の

もの言わぬ大使の人形を抱える渋沢栄一の写真が展示してある。

今年5月1日(土)に放送されたNHKブラタモリ「深谷編」の取材写真も展示してあった。

この番組をご覧になった方も沢山いらっしゃると思いますが、

偉人・渋沢栄一がなぜ深谷で生まれたのか?

深谷はなぜネギの産地なのか?

この番組はとてもわかりやすく解き明かし、思わずガッテンと手をたたいてしまいました。

今まで栄一の様々な写真を見てかなり身長が低い方だとは思っていたが、

この展示を見て身長が153cm~155cmと具体的に表示されていて

改めて小さな巨人だったことがわかった。

こちらの写真は栄一の従弟(尾高惇忠の末弟)であり、

1867年にフランスへ出立にあたり見立て養子になった尾高平九郎。

平九郎は背が高くかなりのイケメン、ハンサムであったと言われている。

幕臣の子として彰義隊、振武軍に参加して飯能戦争を戦ったが敗北し、22歳の若さで自害した。

基本、1階資料室は写真撮影禁止になっていたので、

栄一の遺墨や写真展示、貴重な資料など、

ご紹介はできませんが見応えたっぷりの記念館でありました。

2階の講義室では渋沢栄一アンドロイドの講義が受けられるが、

この講義を聞くには事前予約が必要で、残念ながら覗くだけで終わってしまいました。

1階の階段の奥にはまるで体育館のような上部吹抜けの多目的室があり、

ご覧のような仮設タイプの座席が設置され、

渋沢栄一と深谷についての映像が流されていました。

記念館の北側、館の屋外に約5mの渋沢栄一の立像の銅像があり、

どことなく遠くを見つめているように見える。

この日で、この渋沢像が3ヶ所目のご対面だ。

記念館の裏手には中の家で紹介した「青淵公園」がある。

清水川沿いに帯状の公園で98,000㎡の広さもある。


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編357~

2021-10-08 06:35:18 | 食~番外編(県内)

麺屋忠兵衛 煮ぼうとう店

深谷市血洗島247-1

TEL 048-598-2410

定休日 年中無休

営業時間 11:00~14:00

駐車場 大型駐車可

http://http://shinyoshi.co.jp/

渋沢栄一の生家「中の家(なかんち)」の蔵と蔵の間を抜けていくと

隣りに煮ぼうとう専門店「麺屋忠兵衛」に出る。

昔から深谷に伝わる郷土料理「煮ぼうとう」は渋沢栄一翁の好物で

帰郷時にはいつも好んで食べたと言われている。

歴史を感じ趣きのある古民家のこのお店は渋沢家大番頭の家屋だったそうだ。

この古民家を改装して昨年(2020年)1月11日にオープンしたとか。

これは大河ドラマ「青天を衝け」に合わせて開店したにちがいない。

田舎の郷土料理を召し上がっていただくにふさわしい雰囲気のお店だ。

店内は畳のテーブル席とフローリング席、

そして別の個室コーナーと3つのゾーンに分かれ42席ある。

店内にいる皆さんは渋沢栄一の誕生地訪問の後(あるいはこれから向かう人も)

渋沢栄一を偲んで煮ぼうとうを食しているように見えた。

メニューは極めてシンプル。

煮ぼうとう(850円・税込)と、それにとろろご飯が付いたセット(1,100円・税込)の2つのみ。

その人のお腹の空き具合で決まってしまうメニューだ。

飲み物のなかに深谷の地下からくみ上げた天然水

「ふっか水」なるものが目に付いた。

煮ぼうとうは平麺に深谷ねぎ・人参・大根・白菜などの

地元の野菜がたっぷり入ったとろみのあるしょうゆ味のうどんです。

とろろご飯のとろろも地元の大和芋を使用している。

味付けをしてあるので、そのままで美味しい。

平麺のコシはとても凄く、旨味もすごい。

付け合わせの漬物は地元産の長芋のうま味昆布漬けだ。

当店の調理・接客などは郷土料理を受け継いできた

地元のおかあさんたちが行っていて、とてもアットホームなお店だった。

当店のおてもとの箸袋には渋沢栄一が唱えた「夢七訓」が書かれていた。

夢なき者は理想なし

理想なき者は信念なし

信念なき者は計画なし

計画なき者は実行なし

実行なき者は成果なし

成果なき者は幸福なし

故に幸福を求める者は夢なかるべからず

床の間には栄一翁直筆の88歳の時の大変貴重な書が掛けられている。

栄一翁が昭和2年に当店の大家さんの祖先に贈ったもの。

この青淵の書には次のようなことが書かれてある。

「天意夕陽ヲ重ジ 人間晩晴ヲ貴ブ」

人の一生に、おろそかにしてよいという時はない。

一分一秒といえども貴重な時間に相違ないが、

その中でも人間は晩年がもっとも大切ではないかと思う。

若い時に欠点があった人でも、晩年が美しければその人の価値は上がるものである。

各テーブルには渋沢栄一翁と煮ぼうとうについてと

前述の掛軸の書の説明文のファイルが置いてある。

煮ぼうとう(地元では「にぼうと」)を待っている間に

是非ご覧くださいと言っている。(渋沢翁と煮ぼうとうについて)

若かりし頃に、裏の田圃で稲刈りをした後に食べた”にぼうと”の味が忘れられずに、

地元に帰る度に食べたがったとも言われていますが、

地元の人にあまり気を遣わせたくない渋沢翁が

「自分が来た時は”にぼうと”や”いも・なす等の野菜の煮物”が

何と言っても一番の故郷のご馳走だ」と言って、

地元の人達への気配りをしたのではないか、と解説する人もいます。

生地「血洗島」の地名には幾多の伝説と言い伝えがある。

そのうちの3説が説明してある。

先日放映されたNHKの「ブラタモリ深谷編」でも説明していたのを思い出した。

 

 

 

 


旧渋沢邸「中の家」と尾高惇忠生家

2021-10-07 06:12:58 | 建物

この屋敷は渋沢家の住宅等として使われてきたもので、

通称「中の家(なかんち)」と呼ばれている。

渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。

「中の家」もその1つで、この呼び名は各渋沢家の位置関係に由来するものである。

渋沢栄一はこの中の家で天保11年(1840年)、市郎右衛門・えいの長男として生まれた。

幼名は市三郎、雅号は青淵といった。

後に「近代日本経済の父」と呼ばれる活躍をすることになる。

旧渋沢邸「中の家」の前はかなりゆったりした駐車場と大きな公衆トイレがある。

明日アップする煮ぼうとうの店と駐車場が共用にもなっている。

やはりこの地は観光名所として多くの人が訪ねてくるのだろう。

旧渋沢邸「中の家」の配置図。

中の家に残る現在の建物は主屋、副屋、4つの土蔵、門、塀から構成されている。

明治時代の埼玉県北部の豪農の屋敷として貴重な歴史遺産である。

正門を入ると池のある所に若き日の栄一の全身銅像がある。

1867年パリでの姿の銅像のようだ。

栄一は幕末の青年期をこの家の長男として過ごした。

尊王攘夷論に傾倒した栄一は高崎城乗っ取り、横浜外国商館焼き討ちを計画するが、

その計画中止の混乱から文久3年(1863年)に満23歳で中の家を離れた。

正門と銅像の間にそびえ立つ椨の木(たぶのき)。

中の家のシンボルツリーのようだ。

中の家は代々農業を営んでいたが名字帯刀を許され、

市郎右衛門(元助)の時には、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、

雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。

現在残る主屋は明治28年(1895年)、市郎(栄一の妹の婿)により上棟されたものである。

屋根に煙出しと呼ばれる天窓がある養蚕農家の形を残している。

梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建て、

西側に3間×3間の平屋部分等を持っている。

玄関土間には様々な展示がされ、先日放映されたNHKブラタモリ深谷ゆきのポスター。

大河ドラマ「青天を衝け」の主演・吉沢亮のイメージポスターなども飾られている。

特に奥の十畳の部屋は帰郷する栄一のために市郎が特に念入りに作らせたと伝えられる。

その奥の部屋には渋沢栄一のアンドロイドが和装姿で鎮座していた。

このアンドロイドは深谷出身の鳥羽博道氏(株式会社ドトールコーヒー名誉会長)からの

寄付を財源に寄付者の意向を踏まえて製作されたものです。

栄一は多忙の合間も時間をつくり、たびたびこの家に帰郷したという。

東京飛鳥山の栄一の私邸は空襲によって焼失したため、

この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所と言えます。

配置図を見てわかるように主屋を囲むように4つの立派な土蔵がある。

一つは米蔵として建てられたもの。

また、藍玉づくりの作業場として使われた大谷石でつくられた地下室をもつ土蔵(Ⅱ)もある。

この土蔵の模様はブラタモリでも紹介されていた。

また、裏手にある竹林も素晴らしい。

土蔵の前の緑の植物が藍の葉。

家業の藍の買付けに独りで出かけたこと、血気盛んだったころのことなど、

栄一はこの地での出来事について後に懐かしく語っている。

主屋の裏手、樹々に囲まれた中に栄一の母・えいの招魂碑と

栄一の義子・渋沢平九郎の追懐碑がある。

えいは慈悲深い逸話が多く残され、愛情にあふれた人柄で知られている。

えいの亭主・市郎右衛門(元助)は親戚の「東の家」から

男子のいなかった「中の家」に婿入りした。

学問に長け、持ち前の勤勉さで、養蚕や藍玉づくりとその販売により財を成し、

一時期家運が傾いていたという「中の家」を再興した。

平九郎は尾高惇忠の末弟で栄一がパリ万博に旅立つ際に養子となった。

旧幕臣で構成された振武軍に身を投じ、飯能戦争で自刃して果てた。

栄一が平九郎を追懐して作った詩が刻まれている。

この林の奥に尾高惇忠が栄一の雅号を付けた「青淵由来之跡」の碑がある。

そして平成7年から青淵公園整備事業が始まり平成21年に完成した。

この公園の随所には渋沢栄一没後80年記念として

渋沢栄一の言葉(今、日本に必要な精神)20のうちの2番目の記念板がある。

「未来があるのがすなわち若い人」

・若い人は過去が少ないゆえ、未来ばかりを説く。

その未来のあるのがすなわち若い人の生命で、

勉めて止まなければ必ず名をなすものである。

平成29年、論語の里をご視察の天皇皇后両陛下行幸記念で副屋前に植樹された。

中の家を出て副屋の前には渋沢家歴代の墓地がある。

2枚目の写真、手前から栄一の母・えい、父・市郎右衛門、栄一の祖父などの墓が並んでいる。

大河ドラマ「青天を衝け」の役者を通じて父母が今生きている我々に

何かを語りかけてきているように思えてならない。

 

 

 

渋沢栄一の生家「中の家」から東へ歩いて20分ほどの所に

栄一の人生に大きな影響を与えた尾高惇忠の生家があるので足を延ばしてみた。

尾高惇忠(雅号は藍香)は渋沢栄一の従兄にあたり、

栄一は少年時代から惇忠のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を学んだ。

知行合の水戸学に精通し「藍香ありてこそ青淵(栄一)あり」とまで言われ、

栄一の人生に大きな影響を与えた。

この生家は江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、

若き日の惇忠や栄一らが、ときの尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城を乗っ取り、

横浜の外国人商館の焼き討ちの密議をしたのもこの家の2階と伝わっている。

尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)は天保元年(1830年)下手計村に生まれた。

幕末期には彰義隊に参加、その後振武隊を結成して官軍と戦った。

明治維新後は官営富岡製糸場の初代工場長、第一国立銀行の仙台支店長などを務めた。

また、惇忠の妹・千代は栄一と結婚し、末弟の尾高平九郎は栄一の養子となった。

また、尾高長七郎も従兄にあたる。

この一帯は論語の里と呼ばれ、まだ畑が広がっているのどかな中で、今脚光を浴びている。

この地にそのことを伝えるのぼりが風になびいていた。