前回青山墓地へ行ってから約2年半が過ぎた。2月とはいえ
ポカポカ陽気の暖かい日だったので青山墓地第2弾訪問に行って来た。
青山墓地についての詳細は2016-6-3付ブログを参照して下さい。
前回は14名の著名な故人と対面して来たが、今回は土地勘も
多少分かってきて、25名の方々のお墓にお会いして来た。
この通りが青山墓地の真ん中を通るメインストリート。
桜並木が続き、ここは隠れた桜の名所だ。
次回は桜が咲いている時に行くつもりだ。
この写真は逆に青山墓地から青山通りに向かって撮った一枚。
最寄りの地下鉄駅は外苑前駅だ。
正面の高層ビルが伊藤忠商事の本社ビル。
この通りには墓地に必ず付き物の石材店が何軒も並んでいた。
都心のど真ん中ではちょっ違和感を感じる程だ。
墓地のトイレにしてはとてもお洒落で素敵なデザインの公衆トイレ。
さすが天下の青山墓地のトイレは違うナー。(変な表現かな 笑)
第58~60代の内閣総理大臣「池田勇人」の墓。
1899年(明治32年)広島県竹原市で生まれた。京都大学を
卒業後大蔵省に入省。維新の元勲広沢真臣の孫直子と結婚、
媒酌はこの墓地に埋葬されている、時の大蔵大臣井上準之助だ。
政界に転進後当選1回で第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された。
19世紀生まれの最後の首相として1960年に就任。
所得倍増計画を打ちだし、日本の高度経済成長の進展に
最も大きな役割を果たした。とても個性的な人柄でエピソードは事欠かない。
享年65歳、墓石をよく見ると吉田茂謹書と彫られてあったのには感銘を受けた。
日本の思想家、ジャーナリスト、政治家の「中江兆民」。
フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーを日本に紹介した
自由民権運動の理論的指導者で、東洋のルソーと評された。
兆民は号で億兆の民の意味。幸徳秋水は弟子だ。
幕末の長州藩士「周布政之助」一族の墓。政之助は
1823年(文政6年)生まれ。周布氏は益田氏の支流にあたり
近世以降は代々長州藩毛利家に仕えた家柄。
禁門の変や第1次長州征伐に責任を感じて山口市で切腹した。
享年42歳。この政之助がなぜ青山墓地に葬られているのだろう?
日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官として活躍した
「大鳥圭介」の墓(天保4年~明治44年 享年78歳)
日本初の合金製活版(大鳥活字)を作成した。
緒方洪庵の通塾で蘭学、西洋医学を、その後勝海舟の知遇を得て
中浜万次郎に英語を学んだ。幕臣時代は鳥羽・伏見の戦い
箱館戦争を戦い五稜郭で降伏した。
「藤村操」(明治19年~明治36年)は北海道出身の旧制一高の学生。
華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書
「厳頭之感」(2枚目の写真)によって当時のマスコミ、知識人に
波紋を広げた。厭世観によるエリート学生の死は
「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え
後を追う者が続出した。私も青春時代この厳頭之感に大いに
感銘を受けたのをこの墓碑を発見して思い出した。
ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた「御木本幸吉」(安政5年~
昭和29年 96歳没)。真珠の養殖とブランド化などで
富を成した人物で、御木本真珠店(現ミキモト)創業者。
資料による場所を探したが、御木本家の墓地はこれしか見つからず
内心おかしいなと思ったが、帰って調べるとこのお墓ではなかった。
申し訳ありません。
「黒田清隆」(天保11年~明治33年 59歳没)
薩摩藩士で薩長同盟のため奔走し、戊辰戦争、箱館戦争
西南戦争を戦った。大久保利通が暗殺されると薩摩閥の重鎮と成り
明治21年に第2代内閣総理大臣に就任した。
墓地内を歩いていたら珍しく墓の説明文がある立派な墓地を見つけた。
「高島鞆之助」(弘化元年~大正5年)の墓で、薩摩に生まれ
明治天皇の侍従を勤め、その後陸軍へ。
海外視察をして教育の重要性を痛感。
明治21年大阪偕行社附属小(現追手門学院小学校)を開設した。
追手門学院創立120周年記念事業として
この墓所の整備を行ったと記されてある。
現 山形県上山市で明治15年誕生、70歳で没した「齋藤茂吉」の墓。
日本の歌人、精神科医伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期に
かけてのアララギ派の中心人物。長男は随筆家の斉藤茂太
次男は「どくとるマンボウ」こと北杜夫だ。
清楚な茂吉の墓の後ろには大きく重厚な「大久保利通」の
墓があり、うっかりすると見過ごしてしまいそうだ。
これが昨年の大河ドラマ「西郷どん」の準主役であった
「大久保利通」の墓。詳しくは2016-6-3付ブログを見て下さい。
青山霊園のほぼ中央に外国人墓地がある。ここには日本の
近代化に貢献された外国人や家族が永眠している。
外交官、政治家の「東郷茂徳」の墓。(明治15年~昭和25年 67歳没)
太平洋戦争開戦時及び終戦時の外務大臣。東郷は平和主義者
和平派であると知られているが、東郷が採ったソ連を仲介者とする
和平工作は愚策との厳しい意見がある。
今回の墓参りでどうしても会いたい人の1人「川路利良」
(天保5年~明治12年 45歳没)。昨年の大河ドラマ西郷どんで
後半出て来た薩摩藩士で内務官僚、陸軍軍人。
初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を
日本で初めて構築した日本警察の父。西南戦争では陸軍少将を
兼任し、警視隊で組織された別動第三旅団(抜刃隊)を指揮した。
大久保利通から厚い信任を受け、警察制度の創始者としての
評価は高いが、鹿児島では「西郷隆盛を暗殺しようとした男」
「郷土に刃を向けた男」として長らく裏切り者の印象をもたれて
評価が低かった。以前警視庁に見学に行って、川路のコーナーが有り
又、県安管の幹部の方に川路の話を何度も聞かされて興味を持った。