「山の神」についての考察の中で、柳田國男監修の『民俗學辭典』の「山の神」の冒頭に、
山を領する神として全国一般に信ぜられている。十二サマ・サガミサマ・オサトサマなどとも呼ばれている。農民のいう山の神は春には山から里に下って田の神となり、秋の収穫が済むとまた山に帰って山の神となる。しかるに漁師・炭焼・木樵(きこり)など山稼する人の信ずる山の神は田の神とは関係がないらしい。神社の祭神としての山の神は大山祇命(おおやまづみのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)とされているが、山の神の性格については色々な伝えがある。・・・・
と書かれているのをみて、思うのですが、
山の恵み、海の恵みを採取する中でその生産性に視点をおいて、そこに「カミ」なるもの、神格化されないまでも何がしかの力の存在を認識し、認容する行為、それが共同体の共通認識に発展し神格化の固定概念とし言葉として成る。
そんな過程を想像するのですが、しょせん素人の考えること既に文化人類学者の岩田慶治先生は、次のように述べていました。
<引用『講座日本の民俗3神概念の民俗』から>
[一精霊と民族]
精霊と神という問題は、民族の生活の場に時を定めずに出没し、文化的に十分に型どられるまでに至っていないカミと、民族文化の意味と言語の場にくみこまれて、そこに常住する神との関係、両者のかかわりあい、そして恐らくはカミから神への変化過程を解明することにかかわる問題である。少なくとも私は、問題をそのように理解したうえで、今後の考察をすすめていくことにする。
未開のカミと文明の神、そういってしまっては性急にすぎるけれども、大筋の方向はそうなのである。発端におけるカミと形式としての神、そういってもよいかもしれない。必ずしも個々のカミ名称、神観念の枠組にこだわることなく、むしろそれを載せ、それを包みこんで動いていく文化的背景の趨勢に着眼したいのである。
<以上上記書「カミ(精霊)と神」の冒頭から>
認識主体である人の初発の能動的な感知の世界における、恵みをもたらせてくれる山も含めた大地や海の存在の中に、何モノかの力、産み出すモノ、人の行為に類似している何モノかの存在を感知し認知して行く・・・・その過程の中で、その初発に近いモノを「カミ」とし、その後の共同体の共通意識の中に形成されていくモノを「神」とするならば枠組みの中で新たな思考の世界がひらかれるように思います。
さらに「カミ」と個的に感知する過程においてもその純粋な体験認識の集約があるモノを形成させ、さらなる継続的な経験の中から何かしらの形への集約がやがて力を生出、産出させる「モノ」の存在へと変化して行く、そういうものも考えられないことでもないように思う。
その認識される「モノ」は、人の相似形であって、またその「モノ」の行為は人の行為との類似性を離れることはできない。
時に荒れる、時に穏やかな和む状態にある私に似たそのような「モノ」の存在、そこには雄大さはあるが、「カミ」の存在認識の根底はそういうものではないかと思う。
言い方を変えれば、そのような「モノ」の存在はあくまでも自分を超えた存在として自己の前に立ち現れているのであって、それが「カミ」の存在、共同体の「神」という存在者を形成していくのではないか・・・・・そういうことは考えられないことではないと思う。
「モノとなって考え」るという立場に立てば、「モノとなって行う」ことが想定でき、生産性の力をそのモノの意志の力とするならば、荒れや穏やかさの和の姿を重層させ、己に還って穏やかな生産性の結果を期待する願いは、「モノ」の荒れの鎮めを願う気持ちへと転化させるようになるようになり、したがって魂鎮めの根源には、その生産性への悪ある行為をなさないで欲しいという希求があるとおもう。
これ等の全ての始まりは、あくまでも純粋な経験から始まるのであって、それは「モノとなって考え、モノとなって行う」ことでもあるように思う。
共同体の中においては、その感性の強さはシャーマン的な存在を生み出し、また現代人ならばその科学的知識で別物の現象も「力の共鳴性」となって「占い」というある種の「こじつけ」が成立していくのではないだろうか。
自然界の現象というものは、当然人を離れたものであり不可抗力的なものが多い。そのような「モノ」の仕打ちに打ちのめさせられことは当然発生することで、悲しみは祈り(鎮魂)だけで癒されるものではないがそうせざるを得ないのが「信仰」の始まりだろうと思う。
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