思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

生きる・意識、認識という言葉(2)

2011年10月26日 | ことば

 今朝は6度まで気温が下がるという話でしたが、体感的にはさほど寒くありません。昨日は春風のような生温かな風が吹いていましたが、今日はそうはいかないようです。

 写真は昨朝の美ヶ原高原から昇る朝陽です。

[思考] ブログ村キーワード

 今朝は昨日に続き「意識」「認識」という言葉に焦点を当て書きたいと思います。

 自分の行為を見つめるときに、ある法律理論を用いてそれらに該当させながら考えると意外に説明しやすい場合があります。

 私がある結果を導き出すために、そのようにするためにある行為を選択し、その結果を実現させるために、その行為を行う先にその結果の発生も予測して行為をしているいます。

 刑法理論の中に「故意」という用語があって、一般的な法律用語辞典には、多数説として、

【故意(こい)】
 罪を犯す意思をいう。
 故意とは、罪となる事実を認識し、かつその実現を意図するか、少なくとも認容する場合をいう。

と説明されています(法律学小辞典 有斐閣)。

 時々聞かれる故意に関わる言葉に「未必の故意」という言葉があります。これは次のように説明されています。

【未必(みひつ)の故意】
 行為者が、認識した犯罪事実の発生を積極的に意図したかあるいは希望はしないが、その事実が発生してもやむを得ないと認容した心理状態をいう。認容を欠くときは認識のある過失である(認容説)。

 ここで法律論を云々するものでありませんが、話の都合で「違法性の意識」という話を追加します。

 これは何かと言うと、故意の成立要件として犯罪事実の認識・認容のほかに、その行為の違法性を意識したかその成立要件として必要か否かという話で、「全面的に不必要、自然犯・法定犯区分説、必要説、可能性説、責任説」などと必要だと考える人から、道路交通法の赤信号無視のような場合には、必要で、刑法犯の殺人罪のような場合は必要ない・その可能性があれば足りるなどといろいろな意見があります。

 「違法性の意識」とはどういう意味なのか、素人でもその意味がわかりそうですが、学生時代の古い教科書『刑法講義総論 藤木英雄著 弘文堂』を引っ張り出して紹介しますと次のように説明されています。

<引用>

違法性の意識
 故意には、行為者が自己の行為の違法性を意識したことを必要としないが、違法性の意識を欠いたことについて相当の理由があるときは、故意を形成したことについて非難をすることができないから、違法性の意識の可能性があることが、意思形成を非難することができる条件となる。
 
 道義的責任の立場からすれば、故意、すなわち犯罪に向かった意思形成が非難されるのは、犯罪事実に当面したときには、当然、その行為の違法性を意識し、違法行為を避ける抑止力の形成が可能なはずであると考えられるのに、その期待に反して違法行為に踏み切ったことにある。その点からすれば、現実に違法性を意識した場合に故意非難を及ぼすことが可能である。さらにそのような場合ばかりでなく、違法性を意識すそることが可能であったときにも、行為者を非難することが可能であり、故意の責任を問うことができる。

犯罪事実の認識を有するときには違法性の意識の可能性はそなわっているのが通常であるから、違法性の意識を欠いたことについて相当の理由がある場合にかぎり故意が否定される、ということになる。

<以上p212から>

 ここで注目するのは「意識」「認識」という言葉の使い方で、ここでは「違法性の意識」「犯罪事実の認識」と言葉表現になっています。

 この違法性の意識ですが、先程いろいろな説があるという話をしましたが、その中の「可能性説」を具体的に紹介します。

 参考はこれまた学生時代の古いもので『刑法総論Ⅰ 福田平・大塚仁著 有斐閣』を使用します。

<引用>

可能性説
 故意には違法性の意識そのものはかならずしも必要でなく,その可能性があれば足りるとする見解である。この見解に対しては,故意概念に「認識の可能性」といった過失的要素を導入するものであるという批判が加えられている。この点につき,この見解は,人格責任論の立場から,故意責任の本質を人格態度の直接的な反規範性にもとめ,ここから,事実の認識がある以上,行為者は規範についての問題に直面しており,違法性を意識していたか,その意識の可能性があったかの間にはなんら質的差異はないのであって,事実を認識・認容している以上違法性の意識がなくてもその可能性がある以上(その可能性もなければ非難可能性がない),直接的な反規範的態度をみとめることができるから・違法性の意識は故意の要件ではなく,違法性の意識の可能性が故意の要件であると主張する。

なお,この主張に対しては,違法性の過失にのみ何故に人格形成責任をみとめるのか,事実の過失についても,そのような不注意な人格を形成したことにつき・責任をみとめてよいのではないかという疑問が提示されている。

<以上p262から>>

 ここで注目するのは解説内容ではなく故意概念に「違法性の意識」「認識の可能性」「事実の認識・認容」という言葉表現です。

 こうなると「意識」「認識そして「認容」という言葉、知っているようでいてわけがわからなくなりますが、専門家の凄さは完全な理解のもとにおいてその説を語っているのです。

 さらに複雑な話を追加します。明治維新後早期近代化を目指した日本は外国からその法律体系を学び、自国の法律を制定してきました。

 何が罪で何が罪ではないと言った社会情勢によって犯罪は制定されてきますが、犯罪に対する処罰に関しては、法律の条文に違反し、悪いと知りながら行なったので処罰するというように、その根幹は変わりません。したがって帝国主義であろうが自由主義であろうがその形式は変わりません。太平洋戦争後に日本の刑法学の世界が180度変化したということはなく、その流れは継続してきました。

 そこで刑法の古典的な教科書から、上記の問題を見てみたいと思います。使うのは学生時代に手に入れた『刑法解釈の基本的諸問題 第一巻 木村亀二著 昭和14年 有斐閣』です。

 木村先生は、「法律の過失と故意」の錯誤論の一問題としての論文中に、ドイツの刑法学者の主張について語りながら次のように引用しながら書いています。

 上記の現代の刑法上の言葉の使用を過去にさかのぼるわけです。

<引用>

 バゼドヴは、責任の意味を三分して、

(イ) 行為者が、結果を規範違反なりと表象(認識)して、しかもこれを実現せしめたる場合

(ロ) 結果につき表象はあったが、その規範に違反することはこれを表象しなかった、しかし、これを表象することは可能であったしかつこれを表象すべきであった場合、及び、

(ハ) 結果そのものについて既に予見がなかったのであるが、しかし、これを予見し得かつ予見せねばならなかったし、その上もし彼が予見したならば、結果の反規範性についてもこれを表象し得たであろう場合

と為した。そして、彼は右の三箇の場合について、二つの方法によりこれを故意と過失とに帰属せしめ得ると為したのである。即ち、第一の見地は因果関係の認識に重点を置き、故意を以って結果発生の認識なりと為し、その認識の欠けたる場合に過失ありとする。

したがって故意は、規範違反の認識があった場合、及び単に規範違反の認識あり得かつあるべかりしであった場合のいづれたるを問わず肯定せられ、これに対して、結果発生の認識が欠けた場合のみが過失と解せられることとなる。バゼドヴ自身はこの見地に立っていたのであるが、その後述のごとく故意の内容として違法(又は義務違反)の認識の可能性あればたりるとするエム・エー・マイヤー等の思想の先駆けとなったのである。・・・

<以上p372~p373から(旧漢字を現代漢字に訂正)>
 
と書かれています。ここでは、

 [
「故意の内容として違法(又は義務違反)の認識の可能性」

という言葉が書かれています。

 現代の「意識」の使い方、

 「故意には違法性の意識・・・・・・・・・の可能性」

と対比すると、

 違法=義務違反・・・・認識するもの

 違法性・・・・・・・・意識するもの

という関係が導き出すことができると思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ある事柄ないしある対象を意識したりその存在を認識する。

という文章を書き、ここで次の文章を作ります。

 神を意識する。神を認識する。

 仏を意識する。仏を認識する。

 他人を意識する。他人を認識する。

 私を意識する。私を認識する。

 魂を意識する。魂を認識する。

 順番は関係なく、「神・仏・他人・私・魂」を掲げ「意識」「認識」を加えると、その違いの中には、人それぞれの今段階の「つかみ」があるように思います。

 人はこのようなことを、日常の生活の中では考えていません。

 私はそれでいいと思います。喜びや悲しみ、森羅万象の移り変わり、出来事は常に目の前で展開して行きます。

 その中で言えることは

 「何かを感じなければならない」

そういう鋭さは常に持っていないといけないと思うのです。神経質になれという話ではなく感じる方向性で「空気を吸う」・・・生きる・・・ということです。

   人気ブログランキングへ

 ブログランキング・にほんブログ村へ
 にほんブログ村 このブログは、にほんブログ村に参加しています。