思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

見えぬけれどもあるんだよ

2011年07月13日 | つれづれ記

 金子みすゞ先生の詩をブログに掲載したのは何時頃からだろう。手元に詩集がなかったわけではないのですが、どうも6年前のこのブログのようです。

ネコ一匹のえさ待ち姿[2005年07月05日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/a6a59f2bd20ab8e6c3af2f2a8ac4aecc

 このころはまだ松本市内のアパート住まいで、アルプス公園、城山公園と朝夕にジョギング三昧の生活をしていたころでした。

 城山公園で毎朝野良猫に朝食をもってくる散歩おばさんがいて、いつもネコは人待ちをしていました。どうしてこの詩を選んだのか今となるとよくわかりません。

 その後、ジョギングの走り三昧を繰り返し、時には北アルプスの常念連峰(蝶ケ岳、常念岳、燕岳)の登山三昧を繰り返していると大地を二本でしっかり立っているという感覚に目覚めると、何となく金子先生の詩やその他の童話作家に触れたり、

ヒトが直立二足歩行をはじめた理由(わけ)[2009年10月24日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/3f4d5b58e1b79eda9b08fac56d0700f8

などを書きました。

昨年暮れには、風の画家中島潔先生に作品とともに作品を作りだす心に触れ、

美徳の善のイデア(2)・風の画家中島潔[2010年12月28日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/0976e29f634c38bd65137b6c44dd8fbb

で金子先生の代表作「大漁」も中島先生の作品とともに紹介しました。

今年の春先には、松尾寺の福寿草を見て

いつもの大地に咲く福寿草・金子みすゞ「土」「私と小鳥と鈴と」[2011年03月22日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/0399c2e8ad394f2d7fe5f9aa819ccd3b

で、二つの詩を紹介しています。つらつら思うにその時々の場においている心で書き綴っているといえるように思います。

 ということで今朝は、日々の思考の流れ、というよりも心の流れ、と言った方が今の自分には合っているとおもいますが、金子みすゞ先生の二つの詩を紹介し話を進めたいと思います。

これはあまりにも有名な詩です。

「星とタンポポ」

  青いお空の底ふかく、  
  海の小石のそのように、  
  夜がくるまで沈んでいる、  
  昼のお星は眼に見えぬ。   

  見えぬけれどもあるんだよ、  
  見えぬものでもあるんだよ。   

  散ってすがれたたんぽぽの、  
  瓦のすきに、だアまつて、  
  春のくるまでかくれてる、  
  つよいその根は眼にみえぬ。   

  見えぬけれどもあるんだよ、  
  見えぬものでもあるんだよ。 

くり返される、

  見えぬけれどもあるんだよ、  
  見えぬものでもあるんだよ。

というフレーズ。わたしはこのフレーズがとても好きです。次に紹介するのは、

「見えないもの」

  ねんねした間になにがある。
  うすももいろの花びらが、
  お床の上に降り積り、
  お目々さませば、ふと消える。
  
  誰もみたものないけれど、
  誰がうそだといいましょう。
  まばたきするまに何がある。

  白い天馬が翅(はね)のべて、
  白羽の矢よりもまだ早く、
  青いお空をすぎてゆく。
  
  誰もみたものないけれど、
  誰がうそだといえましょう。

という詩で、「星とタンポポ」と「見えないもの」という二つの詩です。

 「見えぬもの」「見えないもの」

 見ようと思っても見えないもの、見えているのですが見えないもの。

 同じ様でいて違うのかもしれない。それぞれの感性で見つめることになると思います。金子先生は大正期の作家です。

 先生の時代は、大正ロマンの時代で、節電に努める必要もなく満天の星空をいつも見ることができ、都会にいても澄んだ空気と自然の輝く色彩の中で見つめることができた世界です。

 私たちが先生と時代を超えて情感を共有するには、私自身の身体をその時に戻さなければ本当の意味での共有はなかろうと思うのです。

 万葉集を口ずさんだところで、万葉の世界に居るわけではなく、24時間営業のコンビニの世界、LEDの光の中にいるのです。

 黒い煙を吐きながら、力強い上記の呼吸を聞かせながら走る機関車は、間もなくリニアに姿を変えます。

 隣村まで行くのに相当な時間を要したものが、5分足らずの道に折り込まれ、7日余りの日数を要したと回までの道のりは、ひと眠りの夢の中になってしまいました。

 いろいろな言葉によるいろいろな語り、すべてはその場、その時の物語を形成させていきます。

 やまと言葉の哲学も、今の時代に必要なのか・・・・ふと疑問に思う。

 歴史から学べと言いますが、いったいぜんたい何を学ぶのでしょう。

 語られる教えにもその場その時の感慨が折り込まれ語られています。

<見ようと思っても見えないもの、見えているのですが見えないもの。>

 それは自分で目(こころ)を肥やすしかないように思います。

 今の3.11以降「見えないものを見なければいけない」そんな場(空間も含む)と時が来ているように思います。

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