思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

一つをつくり上げるということ

2011年10月31日 | つれづれ記

[思考] ブログ村キーワード

 以前紹介した哲学者の植村恒一郎先生の、
 
<時間が我々に教えてくれることは、自分の人生というものをただ受動的に生きるのではなく、自分で改めて引き受けるとか、自分で能動的に引き受けなければならないのだと自分に教えてくれる、それが時間だと思います。>

 という「時間」についての言葉があります。

 自分なりに考えてみると、「時間論」などという小難しいことをことを言う以前に、時計を何気なく見る仕草には無意識のうちに時間の存在を認めとめているのであって問うまでもないことです。

 時と一緒に話題になる「空間」という言葉も、終極的に「死」を問うときにその「時」が最大の課題で、「畳の上で死にたいものだ」「家族の見守る中で・・」などと間違いなくその「死に場所」を前提にし、その前提とは「場所」でこれもまたとうまでもないことです。

 しかし問うまでもないことでも、自分なりにそういうものだという「つかみ」を持っていると経験的に楽であるように思います。

 生物としては38億年前の一つの細胞の時から時間の上にあるのであって、先験的に自分の中に組み込まれている受け身の話でないことは自明で能動的なものであることがうなずけます。

 そのような能動的な時間、これはまた他者との関係においては、その関係性を重視するならば他者との関係においても能動的な時間でもあるともいえることになります。

 「今日只今の時の大切さ」は、時の有効利用でもあるわけですが、それはすべての関係性の構築に当って、受動時でない自らの積極的な動的な精神活動を促す啓示でもあるように思います。

 最近自己の興味の中に詩歌があります。そういうものに接すると「時間」「空間」というものを感動的に感じることができます。

 最近金子みすゞの「積もった雪」という詩を紹介しました。ある童話作家はみすゞの他の詩人にはない特異な発想を述べていました。

「積もった雪」
 
  上の雪
  さむかろな。
  つめたい月がさしていて。
 
  下の雪
  重かろうな。
  何百人ものせていて。
 
  中の雪
  さみしかろうな。
  空も地面(じべた)もみえないので。

 ここでは積雪を上部の雪、下部の雪そして中間の雪と三層に分けています。私にはこんな発想は思いつきませんし、三層に分けたところで、それぞれの層を擬人化し、身の上に起きていることを重ね合わせて吐露することも出来ません。している。しかもその語りは、雪そのものが語るのではなく「さみしかろうな」と作者の感慨の言葉にするのですからこのやさしさも当然表現できません。

 先験的にすり込まれている、実体感からこのような発想ができるのでしょうが金子みすゞという人物の存在は歴史の中に埋もれることなく今の世に生きていることにその意味も問いたくなります。

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 さて話を別視点に移します。

 この三層の詩を3人の詩人が別々に作ったとします。互いに同じ場で同じ時間を共有しつくり出す「連詩」のようにです。

 ※注:連詩の世界は、こういうつくりの場でないことは承知しています。

 もしこういう詩を別人の三名ががつくり上げたとすると全体の詩の持つ詩的感を三人が共有していることになります。

 それぞれの雪の層の持つ感情は異なり、受け持つ詩人は同情の意味合いでその層の詩をつくり出します。

 「さむかろうな」「重かろうな」「さみしかろうな」

 各雪に見る詩作者各人の感慨です。

 そもそも分ける意味はないのですが、詩歌に見る志向性の表現の視点からあえて分解しました。

 次のような川柳があるとします。

 休刊日
 きのうを探す
 地デジだよ

内容的には、新聞休刊日の話しで、テレビを見ようと思い夫は休刊日を知り、昨日の新聞はどこにあるのかと妻に声をかける。

 すると妻は「地デジですから番組表は表示されますよ」と応えた・・・という内容です。

 この場合は作者が一人で、登場人物は二人そこに流れる・・・夫婦の会話。

 連詩に続き、連句の話しでもなくこの場合は一句に焦点を与えています。

 この一つの川柳を三人が各部を作ったとするとこのホンワカとした休日の一コマは、三人に共有される共通感覚と言えると思います。

 本当の連詩や連句の世界は一つの知的勝負の世界で、参加者はそのプレッシャーに耐えることが要求されるようです。連詩についてですが、大岡信先生は「連詩」について次のように語っています。

<『連詩の楽しみ』(大岡信著 岩波新書)から。>

 私はなぜ連詩を作るのか。その動機の肝心な点は何なのか。答えはもうすでに書いてしまっているようなものですが、煩をいとわず書けば次のようなことになるでしょう。

 複数作者が一堂に会して作る連詩という詩の形式は、参加者一人一人に対して、単に作者であるのみならず、同時に他者の詩に対するきわめて親身で敏感な鑑賞者・批評家であることを要求します。
 
 この鑑賞者・批評家は、一座の参加者である以上、本質的には一瞬の切れ目もなく、作者として存在しています。ある参加者が仮に苦吟を強いられ、待たされている一座に白けた時間が流れ始めたとしても、一旦彼が詩句を作りあげた瞬間、今まで傍観していた次なる順番の人物の立場は一変し、脳髄はいきなり自分の前に置かれた数行の未知の詩句に対して鋭敏な鑑賞力を働かせつつ、同時に作者として自分の詩をこれに付けてゆく作業に取りかからなければならないのです。

 連詩全体の生き生きした進行が保たれるためには、一人一人が自作をも含めて全員の作品を常に柔軟に鑑賞する力を養い、時には他の参加者の作品に干渉して修正することさえも辞さないほどでなければなりません。共同制作の場における「協力」の真の姿は、そういうところ、にあるとさえ言えるでしょう。

 連詩とは、自分の書きたいことを書いたあとは知らぬ顔という一人よがりの態度の、まさに対極点にある詩作方法です。これは必然的に、精神生活をある決まったチャンネルを通して安直簡便に営もうとする態度とは相容れません。多チャンネル同時全開式なのです。

 私はこの項のはじめに、連詩という形式も不幸なら、現代における詩も不幸だと思うと書きました。連詩が不幸だとすればそれは、連詩が発生的に、上述のような現代社会の精神傾向を否定的な動因として連詩自体の中にかかえこんでいるからだと言えるでしょう。

 けれども、それが不幸であるといえるのもそこまでです。なぜなら、連詩は構造的に、その参加者各人が相互に積極的関係を結ぶことを本質とするものなので、不幸という、単独な個人にふさわしい静態的状態は、連詩の実行過程では、いやおうなしに乗りこえられてしまうからです。私たちはここでは、形式それ自体の必然によって、他者と創造的相互干渉の関係を持つことになるのです。

<以上同書p35~p36から>

この話は「連詩」という創作の世界ですが、このような世界を一つの話し合い、共通の世界観の構築のための議論に重ね合わせると非常に現実が見えてきます。

 TPP関連の議論

 その場の参加者が共通項として持ち合わせていなければならないことは何か。構築されるべきものは何なのか。

 参加、非参加のどちらを選択しても「夢破れる」ような話に見えてきてしまいます。

 一対全体この人たちは日本をどのような物語にしようとしているのか。

 互いに何かが足りないのか。感動的な詩は作れない。それだけは確かなように見えてなりません。

 「連詩は構造的に、その参加者各人が相互に積極的関係を結ぶことを本質とするもの」

 どちらを選んでも不幸になる。こういう時の流れに遭遇している日本。避けることのできない時代にあるとき、耐え抜く努力しか結果的には残されないように思います。

 しないままに耐え抜いていくのか、それとも、して耐え抜くのか。

 そういう話なのですが、一つをつくり上げることは大変なことです。

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