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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

イチョウの実・宮沢賢治の世界・中村桂子

2011年01月18日 | つれづれ記

 毎日のブログ記事の題材にNHKの制作した番組を利用する場合が多くあります。利用するという表現は、本心を言い表していません。とても共鳴する番組が多く、記憶の中に埋没させるだけでなく、形に残したいという気持ちからです。

 利用というよりも勉強させていただいています、というところです。印象深い内容にはまり込むと時間というものがなぜ流れるのかと恨めしく思うときがあります。最近は休日に来年用の薪づくりの仕事もあり(これは中々面白い)まとまりのない文章に拍車がかかっています。

 自認しているので、精神的な問題はやや薄いのです。単純に読み返しが甘いのであります。もし読まれている方で、起承転結が素人だと思われる方は、正解です。

 という無駄な時間を費やすのはやめにして、今朝の本論に入りたいと思います。最近NHK教育の「こだわり人物伝」という番組から宮沢賢治の世界に触れました。

 現在2回まで放送され毎週水曜日が放送予定日になっています。1回目は宗教学者の山折哲雄先生で2回目が生命科学者で生命科学誌が御専門の中村桂子先生でした。

「自然には物語がある」と題して宮沢賢治の世界を語っておられました。この番組自体が「宮沢賢治の世界」なのですがこの番組は宮沢賢治の世界ではあるのですが、語り手の講師の先生方の思い入れから、先生方各自の人柄を見ることができ共感してしまいます。

 中村先生はスゴイ! 共鳴する部分が多いというよりもそのまま響いてくるからだと思います。

 先生は、宮沢賢治の作品を例に賢治の世界を語ります。

【中村桂子先生談】

 近年脳科学で共感覚の存在が指摘されています。人間の脳は見る、聞くなどの5つの感覚を独立して処理する一方で、脳内でそれらを関連づけています。その関連づけが強烈で、数や音に色が見えたりする人がいることがわかってきたのです。

                    

 賢治(の作品)を読んでいると、彼は共感覚の持ち主ではないかと思えます。自然を感じ取る力、自然の物語を読み解く力が私のような凡人と違い、とても強かったのだろうと思う場面にしばしば出会います。超常現象に関心があったと言われますが、実は、私たちに見えないものを見て、聞こえないものを聞いていたのではないでしょうか。形や色や音になるので、感じ取ったものをそのまま表現したのではないでしょうか。

と語り、何編かの作品を紹介していました。

 その中の一つに「いてふの実」という作品があり番組中のNHKの映像もまたスゴイ、テキストには「なんでもないところにある物語」と題し次のように語っています。

<引用>

 小説を読む時、筋を追っていることがよくあります。けれど、宮沢賢治の作品は一言一言が語ることを開きとる、そんな読み方を求めます。しかも、その多くは、自然が語ることを伝えてくれているのです。
                      
 例えば「いてふの実」は、秋になって銀杏(ぎんなん)が落ちるという何でもない話です。確かに銀杏って落ちるところが気になる実ですよね。イチョウの実は子どもたち、遠足前のように高ぶったり、心配したり。水筒やマントを確かめ合っています。そこに「突然光の束が黄金(きん)の矢のやうに一度に飛んで来ました。子供らはまるで飛びあがる位輝やきました」。そして「さよなら、おっかさん」と言いながらパッと枝から飛び降ります。お母さんの木は、、まるで死んだようになってじっと立っています。一生懸命に生(な)らせた実が落ちる時の気持ち、よくわかります。

 でも最後に「お日様は燃える宝石のやうに東の空にかかり、あらんかぎりのかゞやきを悲しむ母親の木と旅に出た子供らとに投げておやりなさいました」となります。これは別れであるけれども、次の世代を生み出すための生きものの大事な性質で喜びでもあり、輝きなのです。人間の親子も同じでしょう。近年の研究で、植物は動かないけれど子孫の残し方がとでも巧みでしたたかであり、生態系を支える大きな存在であることが次々わかってきていますので、この話に惹かれます。

 賢治が語る小さな物語が、科学での理解と重なり、私の中にさまざまな物語を引き出してくれます。きれいな言葉によってイメージが湧いてきます。その描写には、ちょっと他の人は使わない自然になりきった趣きがあり、生命誌とつながるのです。

 科学では「11月にいちょうの実がなって落ちた。次世代への継続だ」で終わるのですが、実は「突然光の束が黄金(きん)の矢のやうに一度に飛んで」くるのですね。生きものを見ている時、ある瞬間を美しいと捉える感覚が私たちにもあることを思い出させてくれます。

<引用終わりテキストp101~p102>

 中村先生は番組中に「あらんかぎりのかゞやきを」、お日様が母樹にそそいでいる様を感激を持って語られていました。

                    

 中村先生が感激を持って読まれ語った「いてふの実」よいう童話はどんな内容でしょう。

---いちょうの実---

 そらのてっペんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼きをかけた鋼(はがね)です。
 そして星がいっぱいです。けれども東の空はもう優しい桔梗(ききょう)の花びらのようにあやしい底光りをはじめました。
 その明け方の空の下、ひるの鳥でも行かない高い所を鋭い霜のかけらが風に流されてサラサラサラサラ南の方へ飛んで行きました。
 実にその微(かす)かな音が丘の上の一本いちょうの木に聞えるくらい澄み切った明け方です。
 いちょうの実はみんな一度に目をさましました。そしてドキッとしたのです。今日こそはたしかに旅立ちの日でした。みんなも前からそう思っていましたし、昨日の夕方やって釆た二羽の烏もそういいました。
「僕なんか落ちる途中で眼がまわらないだろうか。」一つの実がいいました。
「よく目をつぶって行けばいいさ。」も一つが答えました。
「そうだ。忘れていた。僕水筒に水をつめておくんだった。」
「僕はね、水筒のほかに薄荷水(はっかすい)を用意したよ。少しやろうか。旅へ出てあんまり心持ちの悪い時はちょっと飲むといいっておっかさんがいったぜ。」
「なぜおっかさんは僕へはくれないんだろう。」
「だから、僕あげるよ。お母きんを悪く思っちゃすまないよ。」

                    

 そうです。この銀杏の木はお母さんでした。
今年は千人の黄金色(きんいろ)の子供が生れたのです…
 そして今日こそ子供らがみんな一緒に旅に発つのです。お母さんはそれをあんまり悲しんで扇形の黄金の髪の毛を昨日までにみんな落してしまいました。
「ね、あたしどんな所へ行くのかしら。」一人のいちょうの女の子が空を見あげて呟(つぶや)くようにいいました。
「あたしだってわからないわ、どこへも行きたくないわね。」も一人がいいました。
「あたしどんなめにあってもいいからお母さんの所にいたいわ。」
「だっていけないんですって。風が毎日そういったわ。」
「いやだわね。」
「そしてあたしたちもみんなばらばらにわかれてしまうんでしょう。」
「ええ、そうよ。もうあたしなんにもいらないわ。」
「あたしもよ。今までいろいろわがままばっかしいって許してくださいね。」
「あら、あたしこそ。あたしこそだわ。許してちょうだい。」
 東の空の桔梗の花びらはもういつかしぼんだように力なくなり、朝の白光りがあらわれはじめました。星が一つずつ消えて行きます。
 木の一番一番高いところにいた二人のいちょうの男の子がいいました。
「そら、もう明るくなったぞ。嬉しいなあ。僕はきっと黄金色のお星さまになるんだよ。」
「僕もなるよ。きっとここから落ちればすぐ北風が空へ連れてってくれるだろうね。」
「僕は北風じゃないと思うんだよ。北風は親切じゃないんだよ。僕はきっと烏さんだろうと思うね。」
「そうだ。きっと烏さんだ。烏さんは偉いんだよ。ここから遠くてまるで見えなくなるまで一息に飛んで行くんだからね。頼んだら僕ら二人ぐらいきっと一遍に青ぞらまで連れて行ってくれるぜ。」
「頼んでみようか。早く来るといいな。」
 その少し下でもう二人がいいました。
「僕は一番はじめに杏(あんず)の王様のお城をたずねるよ。そしてお姫様をさらって行ったばけ物を退治するんだ。そんなばけ物がきっとどこかにあるね。」
「うん。あるだろう。けれどもあぶないじゃないか。ぱけ物は大きいんだよ。僕たちなんか鼻でふっと吹き飛ばされちまうよ。」
「僕ね、いいもの持ってるんだよ。だから大丈夫さ。見せようか。そら、ね。」
「これお母さんの髪でこさえた網じゃないの。」
「そうだよ。お母さんがくだすったんだよ。何か恐ろしいことのあったときはこの中にかくれるんだって。僕ね、この網をふところに入れてばけ物に行ってね。もし。今日(こんにち)は、僕を呑めますか呑めないでしょう。とこういうんだよ。ばけ物は怒ってすぐ呑むだろう。僕はその時ばけ物の胃袋の中でこの網を出してね、すっかり被っちまうんだ。それからおなかじゅうをめっちゃめちゃにこわしちまうんだよ。そら、ばけ物はチブスになって死ぬだろう。そこで僕は出て来て杏のお姫様を連れてお城に帰るんだ。そしてお姫様を貰(もら)うんだよ。」
「本当にいいね、そんならその時僕はお客様になって行ってもいいだろう。」
「いいともさ。僕、国を半分わけてあげるよ。それからお母さんへは毎日お菓子やなんかたくさんあげるんだ。」
 星がすっかり消えました。東のそらは白く燃えているようです。木がにわかにざわざわしました。もう出発に間もないのです。
「僕、靴が小さいや。面倒くさい。はだしで行こう。」
「そんなら僕のと替えよう。僕のは少し大きいんだよ。」
「替えよう。あ、ちょうどいいぜ。ありがとう。」
「わたし困ってしまうわ、おっかさんに貰った新しい外套が見えないんですもの。」
「早くおさがしなさいよ。どの枝に置いたの。」
「忘れてしまったわ。」
「困ったわね。これから非常に寒いんでしょう。どうしても見つけないといけなくってよ。」
「そら、ね。いいばんだろう。ほし葡萄がちょっと顔を出してるだろう。早くかばんへ入れたまえ。もうお日さまがお出ましになるよ。」
「ありがとう。じや貰うよ。ありがとう。一緒に行こうね。」
「困ったわ、わたし、どうしてもないわ。ほんとうにわたしどうしましょう。」
「わたしと二人で行きましょうよ。わたしのを時々貸してあげるわ。凍えたら一緒に死にましょうよ。」
 東の空が白く燃え、ユラリユラリと揺れはじめました。おっかさんの木はまるで死んだようになってじっと立っています。
 突然光の束が黄金(きん)の矢のように一度に飛んできました。子供らはまるで飛びあがるくらい輝きました。

                    

 北から氷のように冷たい透きとおった風がゴーツと吹いてきました。
「さよなら、おっかさん。」「さよなら、おっかさん。」子供らはみんな一度に雨のように枝から飛び下りました。
 北風が笑って、
「今年もこれでまずさよならさよならっていうわけだ。」といいながらつめたいガラスのマントをひらめかして向うへ行ってしまいました。
 お日様は燃える宝石のように東の空にかかり、あらんかぎりのかゞやきを悲しむ母親の木と旅に出た子供らとに投げておやりなさいました。

<以上>

とても短い物語ですが、中村先生の語りの中でさらに輝いていました。

とても小さな物語ですが、とても大きな輝きのある物語です。

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銀杏(いちょう)と銀杏(ぎんなん)について

 いちょうの実のことを銀杏といいます。実の中の核(さね)が白色であることから銀の杏(あんず)、「しろあんず」と呼び、銀杏と書いて「銀杏」というのだそうです。

 葉の形が鴨の水かきに似ていることから鴨脚と書き、宋音で「いちゃお」と読み、それが「いちょう」に変化したのだそうです。

 銀杏は、「公孫樹」とも書くことがあり「いちょう」の木を植樹して、孫の代(およそ40~50年)にならないと実がならないことから貴重で時間をかけた樹という意味でそう書かれ、「桃栗三年、柿八年、柚子(ゆず)は九年でなりさがり、梅の馬鹿奴(め)は十八年、銀杏はなんと五十年」というわけです。(参考:『話のついでに 』三宮庄二著 京都修学社)

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