思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

再びニーチェの永劫回帰

2010年02月23日 | 哲学

 ニーチェに関する著書を読んでいますと必ず出てくる言葉に「永劫回帰」または「永遠回帰」という言葉があります。ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』におけるツァラトゥストラの根本思想なのですが、超訳『ニーチェの言葉』の白取春彦先生は、

040少しの悔いもない生き方を
今のこの人生を、もう一度そっくりそのままくり返してもかまわないという生き方をしてみよ。
『ツァラトゥストラはかく語りき』

とニーチェの言葉を意訳しています。

 永劫回帰については、私はこれまでにもブログに書いてきましたが、どちらかというと「今の状態が永遠に続くとしたら自分は変わる必要があるか。否か」というニュアンスで心にとめ活用しています。

 白取先生の意訳は、非常に優しい投げ掛けの言葉になっていることに新鮮さを受けます。

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このツァラトゥストラの永劫回帰は、『悦ばしき知識』に凝縮されたかたちで出てきます。

  最大の重し・・・・・・・もしある日あるいはある夜、おまえのこのうえない孤独のなかに悪魔が忍び込みこう告げたとしたらどうか。
 
  「おまえが現に生きており、また生きてきたその生を、おまえはもう一度、いやさらに無限回にわたって、生きねばならぬ。

 そこには何ひとつとして新しいことはなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思いとあらゆるため息、おまえの生の言い尽くせぬ大小すべてのことが、おまえに回帰して来ねばならぬ。

 しかしすべてが同じ順序と脈絡において(中略)と。・・・・・おまえは身を投げ出し、歯ぎしりして、その悪魔を呪うのではないか。

 それとも、おまえは突如としてとてつもない瞬間を体験し、「あなたは神だ、私はかつて一度もこれほど神々しいことを聞いたことがない!」

と答えるであろうか。

 もし生の回帰という考えが、お前を圧倒したとすれば、それは現在のおまえを変えてしまい、砕きつぶしてしまうかもしれない。

 何事につけても

 「おまえはもう一度、いやそれどころかさらに無限回、それを欲するするか」

 という問いが最大の重しとなっておまえのうえにのしかかるだろう!そうはならずに、生の回帰というその究極的で永遠的な確証と確認のほかにはもう何もいらないと思うためには、おまえは自分自身とその生とをどれほどいとおしまねばならぬことであろうか。(『悦ばしき知識』341)
※ 講談社現代新書『これがニーチェだ』永井均著引用

 永井先生は永遠回帰としますが、ニーチェの言おうとしているところはここにあるようです。

 ニーチェの哲学ですから、ニーチェの発想でありニーチェの創作です。

 哲学者によって「永遠」「永劫」の言葉で解説されるのですが清水真木先生は、この創作(清水先生は仮説とします)の経過を次のように解説しています。
 
永劫回帰
 すべての事象が全体として同一の順序に従って繰り返し生起すること。正確には、「等しきものの永劫回帰」と言います。これは仮説であって、事実を指し示す表現ではありません。したがって、永劫回帰が本当に生じることを観察し確認できるのかといったことは問題にもなりません。また、輪廻や時問体験などの非H常的な出来事とも関係ありません。永劫回帰は、あらゆることがすでに無限回にわたって繰り返し生起しているから、私たちがこれから試みるすべてのことの結果が予め決定されていること、したがって努力や希望や責任がすべて無駄であり、生存が無意味で苦痛に満ちたものであることの可能性を暗示する、認識の実験のために産出されたペシミスティックな仮説ないし妄想に過ぎません。

 生存が無意味であり苦痛に満ちたものであることを承認するばかりではなく、生作が一屈旧無意味で、一層多くの苦痛に満たされることを求め、自ら進んでペシミスティツクな妄想を産出し、自らの生存を試煉にかける意欲、これこそ健康と強さの証でした。それゆえ、もっともペシミスティックな認識が真なるものであることを承認し願う者は、権利上もっとも健康でもっとも強い人間・・・・すなわち「超人」・・・・であるはずです。永劫回帰は、「人問を箭にかけ、弱者にも強者にも決断を迫る一つの見解」(1884年初めのノート)、もっとも健康でもっとも強い人問としての超人を選び出すための「試金石」として機能すべきもっともペシミスティックな仮説に他なりません。「試みの時代。私は大いなる試煉を課する。つまり、誰が永劫回帰の思想に耐えるのかを試す。・・・・『いかなる救済も存在しない』という命題によって根絶されてしまうような者を死なせてしまおうではないか……」(1884年初めのノート)。

 二ーチェが永劫回帰の仮説を乎に入れたのは、1881年夏のことです。1881年7月、シルス・マリアを偶然発見し、夏のあいだここに滞在していた二ーチェは、白分宛の郵便物を局留めにして受け取ることにしていました。「千紙は予告なしの訪問であり」と二ーチェは語ります。「郵便配達人は失礼な不意打ちの仲介者である。千紙を受け取るためには毎週一時間が充てられるべきであり、そのあとで入浴すべきである」(『漂泊者とその影』)。そのため、村の東側に広がる湖を挟んで反対側にある隣村の郵便局まで数Hおきに散歩を兼ねて出かけるのが習慣になっていました。8月上旬のある日、いつものように郵便物を受け取るため、湖畔の道を隣村に向って歩いていたとき、二ーチェの心に、すべてが永遠に回帰するとしたら……というアイディアが浮かびます。シルス・マリアで二ーチェが使っていたノートのある頁には、「等しきものの回帰」という標題を持つ断章が記されており、最後には「1881年8月上旬、海抜六千フィート、人間と時代からはさらに高く隔ったシルス・マリアにて」と記されています。二ーチェが永劫回帰を思いついて立ち止まった場所には、湖に突き出した小さなピラミッド型の岩があり、「ツァラトゥストラの岩」と呼ばれています。永劫回帰は、翌年公刊された『悦ばしき知識』の341番の断章・・「最大の重し」・・においてペシミスティツクな問(「お前はこのことをもう一度、否、際限なく繰り返し欲するか」一として予告されたのち、主著『ツァラトゥストラはこう語った』(1883~1885年)、特にその第2部の「幻影と謎」や「恢復しつつある者」などの章において、明確な表現を与えられます。「……万物は行き、万物は帰って来る。存在の輸は永遠に回る。万物は死に、万物は再び花咲く。存在の年は永遠に巡り駆ける……」。(『知の教科書 ニーチェ』清水真木著 講談社選書メチエP96~P98から)

長い引用ですが、私自身の意が入らないためです。

  ニーチェの「永遠回帰」「永劫回帰」をどのように捉えるか。自分の人生に生かす言葉にするか、捨ておくか。・・・・・・・

 何事も、生かすも、殺すも、自分自身です。

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飼い猫ソラと養生訓

2010年02月22日 | 東洋思想

 以前アップした写真とは違います、飼い主が言うのもなんですが今朝はほほ笑んでいます。

 わが家の「ソラ(猫)」は、物言うこともなく、日々元気に私が早朝茶の間にコーヒーを入れに行くと、必ず定番の位置に鎮座します。

 まるで招き猫のようです。最近いろんな猫が雑誌やタウン情報誌などに「わが家のペット」と紹介されています、が、やはり「うちのソラ」と親ばか(飼い主ばか)を云っています。
 
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 雪のためランニング、散歩をサボり久しぶりに1時間半ほど散歩しただけで、何故か朝起きると体が痛いのです。

 『養生訓』で知られる江戸期の儒者貝原益軒の最後の和歌は、

 越方は一夜ばかりの心地して八十路あまりの夢をみしかな

というものでした。
 養生訓を書いた貝原でしたが、妻を亡くしてからは旅好きの貝原も家に閉じこもりがちになってしまったそうです。

 とある本に「晩年期の男性のストレスの最たるものは配偶者の死である」と書かれていましたが、巷で聞く話にもその例が多くあります。

益軒は『養生訓』の中でこう書いています。

 「人生五十にいたらざれば、血気いまだ定らず。知恵いまだ開けず、古今にうとくして、世変になれず。言あやまり多く、行悔多し。人生の理も楽もいまだ知らず。五十にいたらずして死するを夭(わかじに)と云。是亦、不幸短命と云べし。長生すれば、楽多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能(よく)せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なる事も、長生せざれば得がたし」

 人生は五十歳くらいにならないと血気がまだまだ不安定で、知恵も出ないし、昔から今までの歴史的な知識にもうとく、社会の変化にもなれていないので、間違った言も多く、行いに後海することがしばしばである。人生の道理も楽しみも知らない。五十歳にならないで早世することを夭という。これは不幸短命といわなければならない。長生きすれば、楽しみ多くそれだけ益も多い。これまで知らなかったことを日々に知り、月々にいままで不可能であったことも可能になる。だから学問知識の進歩発達も、長生きしなければ得られないのである)【巻第一の十九】(『知的巨人達の晩年』稲永和豊著「書き忘れた養生訓」から)

 妻をいたわり、わが身のも気を配りほどほどに長生きをしたいものです。

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道祖神のある風景(2)二十三夜塔など

2010年02月21日 | 民俗学

          大きな大黒天像があります。

 大黒天は、福徳の神、農作物・養蚕豊穣の神として奉られています。
 特に甲子の年に建立されたものが多く、穂高地区には60基の大黒天が確認されています。
 裏面には「一村安康・百穀豊登」の文字が保高翁拝書と刻まれています。

 保高翁とは、高島章貞(たかしま・あきさだ)1806年~1869年の穂高の人で、医師で歌人。星園塾という私塾を開き子弟を輩出しました。明治初年の自由民権運動の志士として活躍した松沢求策がいます。


 二十三夜塔もあります。二十三夜講は、毎月陰暦二十三日という遅い月の出を立ったまま迎え、この晩につきを拝むとすべての願い事が叶えられるといわれ、特に十月二十三日の夜は農業の収穫を祈念する講が各地で開かれていました。園年の当番の家で遅い月の出を拝み、この講の主尊である勢至菩薩の掛軸の前で念仏やお題目を唱え、飲食を共にしたいたようです。

 二十三夜塔は、穂高地区に51基あります。その数だけ講が開かれていたことになります。

       
 耳塚のお堂と呼ばれる、お堂です。このお堂には木造阿弥陀如来坐像がおられます。

       
 道の途中白馬・大町市方向を見ます。安曇米はとても美味しいです。水と空気すべてが作用しています。

       
 穂高川の清流です。遠くは松本平になります。この川は常念連峰から日本海へと流れています。

 この穂高川は、犀川と合流し長野市で千曲川と合流し信濃川に名が変わります。

 犀川とは、上高地から来る梓川(あずさがわ)、木曾楢川から来る奈良川(ならかわ)、大町から来る高瀬川、そしてこの穂高川の総称ということです。

       
JR有明駅を大町行の特急列車が通過していきます。前方に白馬連峰が見えます。

       
特急列車が過ぎ、左に視点を向けるとご覧のとおり、燕岳(つばくろ)が白く見えます。右手前の有明山は頂上付近が雲に覆われ、富士山型の有明富士には今日は見えません。

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道祖神のある風景 安曇野(1)

2010年02月21日 | 風景

 安曇野は道祖神は、文学碑と像碑を遇わせて900余基を数え、とくに双体像が半数以上を占め、質量ともに県下はもとより、全国的にみても有数な道祖神の宝庫となるようです。

 したがって道祖神専用の観光用パンフレットもあり、観光の目玉でもあります。一昨日長野市で飲み会があり、車を会社の駐車場においてきたため午前中に取りに行きました。

 JR大糸線の有明駅まで普通ならば妻に送ってもらうところですが、早朝の曇り空が一転し、春のような陽射しとなりのんびりと、運動を兼ね駅まで歩くことにしました。

 電車の発車時間も1時間に1本ある程度の認識で、時間の制約を抜きに歩いて見ました。囚われという制約が一切ない状態で、片手にデジカメを持ち途中道筋の道祖神やお堂などを見ながら約1時30分ほど散歩でした。

       
       歩いて10分ほどで道祖神群に出会いました。

      
        中央に観音菩薩、右端は双体道祖神です。

     
小さなお堂があります。真言宗の無量山 常勝寺があった場所だそうです。

       
          お堂のバックは、常念連峰の山々です。

       
  安曇野子ども病院を舞台にしたテレビドラマの舞台にもなった、分校跡にある道祖神です。


親鸞上人と阿弥陀仏

2010年02月21日 | 仏教

今朝は小雪舞う寒い朝です。写真は昨日の朝のご来光です。

 浄土真宗について書かれているというよりも、親鸞上人について語られているブログをに見入るときがあります。

 いろいろ親鸞上人のお歩きになった道を探求することがあります、その中に「絶対者」との出会い、「阿弥陀仏」との出会いがあります。

 なぜ「阿弥陀仏」にお任せすることになったのかという疑問です。
 
 さきほど絶対者と書きましたが、あくまでも私見です。西洋的な神の絶対性と同列に、な(成)れる阿弥陀仏をみるのはやや異なるように感じています。

 宗教学者の中には共通する絶対存在として信仰の姿から、あの使徒パウロと親鸞上人の擬似性を読みとろうとする方もおられます。

宗教学者真木由香子先生は、著書の中で「従来の比較研究から結像される親鸞とパウロの擬似的一致」点として、

(1) 罪の自覚とその構造
(2) 絶対他者との出会い
(3) 彼岸からの来臨
(4) 信による救済
(5) 罪悪人の選び
(6) 迫害を超える布教

を掲げ述べています。特に「(2)絶対他者との出会い」に惹かれます。

 要約すると、私の私見になりますののそのまま引用させていただきます。

絶対他者との出会い

 この人間存在の暗闇に対して、救済はどのように考えられているのだろうか。
すでに罪悪が根源的には自分個人の意志や行動に起囚するのではないとしたら、自分が自分の力でその悪を止め善をなすという道は、究極的には断念されざるを得ないことになる。

 善に向かう倫理的努力は"やらない”というより、むしろ"できない”のである。自分の意志を超えた力で悪に押し出されていく人間は、ついには「誰がこの死のからだから私を救ってくれるだろうか」(ローマ7・24)と哀訴せざるを得ない。このように歎くほかない人問においては、自力でその泥沼から這い上がることは出来ないのであるから、自分を越えた他者が、救済者として求められざるを得ないのである。
 
 親鸞にとって、罪悪深重の凡夫を救済する能力を持った他者は"阿弥陀仏”である。「正に弥陀の弘誓(ぐぜい)のよばいたまふにもうあへり」(25)と記されている。
 
 パウロにおいては、罪の支配から人類を解放し得る他者は"イエス・キリスト”である。「御子を私の内に啓示して下さった」ガラテア1・16)と回想されている。この他者との出会いが、両人に回心をもたらすのである。
 ではこの他者いかなる者であり、この他者と人問の問に救済という出来事はいかにして成立するのであろうか。
 
 まず、この他者は人間とは全く異質の存在者、すなわち絶対他者である。阿弥陀仏は「塵点久遠劫(ぢんでくおんごう)よりも、ひさしき仏とみえたまふ」(492)と示されて、測り知れぬ昔から永遠に存在する者である。イエス・キリストもまた「御子は見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れた方である。」(コロサイ1・5)
 
 だがそれと同時に、彼らはわれわれと同じ人間としても描かれている。阿弥陀仏は「この一如宝海よりかたちをあらわし、法蔵菩薩となのりたまひて無凝のちかひをおこしたまふをたねとして阿弥陀仏となりたまふ」(617)と説かれ法蔵菩薩は「世饒(せにょう)王仏のみもとにましまして菩薩の道を行じ」(137)たと示される。

 イエス・キリストは「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえっておのれをむなしうして僕のかたちをとり、人問の姿になられた」(ピリピ2・6)のであり、「時の満ちるに及んで神は御子を女から生れさせ」(ガラテヤ4・4)たのであr。このように絶対者が人問と等しい者になったという事実によって、はじめて絶対者と人問との関係基盤が形成されたといえよう。だが、絶対者が人問となる行為は、そのまま直ちに人問を救済する力とたるわげではない。

 親鸞とパウロが救済の原点として指し示すのは、かけがえのない次の一点である。親驚にとってそれは、「菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発して、一一の願に言はく、若し我仏を得んに十方の衆生、我名号を称して我国に生ぜむと願ぜむ、下(しも)十念に至るまで、若し生ぜずば正覚を取らじ」(137)という四十八願であであり、わけても「設(たと)い我仏を得むに十方の衆生、至心に信楽して我国に生れむと欲ふて乃至十念せむ、若し生れずば正覚(しょうがく)を取らじ」(48)という第十八の本願である。

 バウロは言う。「私がもっとも大事たこととしてあなた方に伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが聖書に書いてあるとおり、私たちのために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り三目目によみがえったこと、ケパにあらわれ次に十二人に現れたことである。」(Iコリント15・3)これがいわゆる宣教内容(ゲリュグマ)である。

 この二つの救済の原点は不思議たほど類似している面がある。それは一言で言えば、絶対者の自己否定である。しかもまず絶対者であることを否定して人問となった者が、次に人間として自己否定を行うのであり、他者のための二乗された自己否定である。つまり法蔵菩薩すなわち仏道の修行者であった彼にとっては正覚を得ることが、身命を抛っても求めるべき生涯の究極無上の目的である。まさにそれを彼は、ただ一人でも救済されない者があるならば、という条件の下で拒否する。一切衆生の救済のため「不取正覚」という自己否定で貫かれたものが弥陀の誓願である。

 イエス・キリストの場合、人問としての自己否定は、その生命自体の否定として徹底を極める。すなわち「私たちの罪のために」(Iコリン15・3)イエス・キリストは「おのれを低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで」(ピリピ2・8)低くし尽くした。十字架刑は最も残酷な処刑であり、彼は衆人環視の中で「その血」(ローマ3・25)を滴らせて死んだ。

 この深い自已否定の行為とその核心にある無差別の愛が、時問空問を突き抜げ、親驚とパウロという単独者の堅い自我の殻を突き破って、その魂を射るのである。

 親鸞は言う。「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれぼ、ひとへに親驚一人がためなり。」(792)

 パウロも呼応する。「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をさささげられた神の御子を信ずる信仰によって生きているのである」(ガラテヤ2・20)

 唯一人の私・なかんずく罪悪人である私のために、彼の人が彼にとって最も大切なもの、「成仏」、「生命」を犠牲にしてくれたという愛が、無言の感動の内で受げとめられ、このような深い応答を生む。この上なく深い愛の関係性がここに生起しているのである。(『親鸞とパウロ』真木由香子著 教分館P18~P28)
 ※ 親鸞引用文献()内数字は、は『真宗聖教全書第二巻』の頁数だそうです。

 パウロの他者は、イエス・キリストであり、親鸞の他者は阿弥陀仏。この他者との出会いが回心への道であったとみるのですが、この他者の認識には大きな違いがあるように思います。それは絶対他者の存在のあり方に起因するような気がします。

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 親鸞上人にとっての阿弥陀如来とは。他力成仏とは。

 これも勝手ながらの真宗の専門家ではなく、戦後初期の文学博士の黒岩一郎先生が『親鸞と現代』という本を書かれています。戦前戦後を生きられ、戦争直後の民心の心で書かれているものです。

・・・・かくて阿弥陀如来を、人間の概念でとらへられる一定の形象だなどとはゆめゆめ思つてはなりません。それは今まで幾度もくり返して来ましたやうに、形なき無量・無限・絶対の慈悲.寿命.智慧.光明にかりにつけられ名称にすぎないのです。だからそれは如来(tathagata)----真理・或ひは真理より来つたもの----であり、真如(bhutatathata)----宇宙万有に偏在する根源的な実体----としなければならぬものなのです。だからまた、それは万有に具有せれててゐるのです。聖人が、

 仏性即ち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。即ち一切群生海の心にみち給へるななr。草木国土ことごとく皆成仏すと説けり。(唯信鈔文意)
 
 と言つてをられるものであります。しかして人間に具有せられてゐる仏性は、究極のところは誠心・誠意・真実一路といふことにたりませう。即ち親鸞が、
 真実といふは涅槃経に日はく、実諦といふは一道清浄にして二あることなきなり、真実といふは如来なり。如来即ち真実なり。(教行信証)

といひ、また、
よしあしの文字をも知らぬ人は皆
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは
おほそら言のかたちなり(正像末和讃)

と詠まれてゐるのがこれであります。だから何もむつかしく考へることはないのでありります。私達は真実の生命を授かっているのですから、その真実を見失ふことなく真実に生きさへすればそれでよいのです。それが他力成仏の所以なのです。(『親鸞と現代』P225~P226)

 真宗の僧侶ではない方が書かれたものですが、立場は私も同じなので同じ場において、今まで自分なりに見てきた親鸞にその思いが重なります。

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押尾被告にMDMA譲渡認める、男に求刑

2010年02月20日 | つれづれ記

【押尾被告にMDMA譲渡認める、男に求刑  元俳優・押尾学被告(31)に合成麻薬「MDMA」を譲り渡した罪に問われている男の初公判が19日、東京地裁で開かれ、検察側は懲役1年6月(ろくげつ)を求刑し結審しました。判決は3月12日の予定。
 ※ 「結審」とは審理を尽くしたということです。

 押尾被告の友人のネット販売会社役員・泉田勇介被告(31)は去年、東京・港区のマンションで押尾被告にMDMA約10錠を譲り渡した罪に問われた被告人事件ですが、泉田被告は「間違いありません」と当初から起訴事実を認めており、社会的に反響の高い事件ですが罪を認め反省していることから、この求刑から察すると執行猶予5年~3年が付きそうです。

 なお、裁判の中で、泉田被告は、押尾被告が起訴事実を否認していることについて「なぜ本当のことを言わないのだろう。自分のしたことを認めて罪を償ってほしい」と話したということで、押尾被告は譲り受けは否認していませんい泉田被告人の法廷内の供述は補強的な要素にしかなりません。

 一方、保護責任者遺棄致死の罪に問われている押尾被告は、「泉田被告から渡されたのは粉末のMDMAで、女性と飲んだのは女性に渡された錠剤のMDMAだ」などと主張しているようです。

 成分鑑定からどの程度、粉末・錠剤別の判別できるかは疑問ですが、裁判員の前でどの程度信用されるか注目されます。

 それにしても、押尾被告は最近、法律や英語の本を読んでだり、「拘置所は寒くてつらい。やることがないから早く出たい」と話しているそうですが、このと重大性の認識が相当欠如しているようです。

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 これまでに似たような事件は、あったのだろうかと判例集を見ていたところ、次のような覚せい剤使用に係わる判例がありました。


覚せい剤を注射された女性が、その薬理作用により心身に異常を来たし、救護しなかった暴力団構成員がこの罪に問われた事件ですが、最高裁はこの男性に「病者として他人の扶助を必要とする者」に該当すると認定した判例です。

(最決平1.12.15集43巻13号879頁)。
【事案の概要】
 暴力団構成員である被告人が被害者(当時13歳の女子)をホテルに連れ込んで覚せい剤を注射したところ、同人が苦しみだし、ホテルの窓から飛び降りようとするなど錯乱状態に陥ったのに、覚せい剤使用事実の発覚をおそれ、同女をそのまま放置して立ち去ったため、その後ほどなくして被害者の女子は同室で覚せい剤による急性心不全で死亡したというもの。

【判決要旨】
 原判決の認定によれば、被害者の女性が被告人らによって注射された覚せい剤により錯乱状態に陥った午前零時半ころの時点において、直ちに被告人が救急医療を要請していれば、同女が年若く(当時13歳)、生命力が旺盛で、特段の疾病がなかったことなどから、十中八九同女の救命が可能であったというのである。そうすると、同女の救命は合理的な疑いを超える程度に確実であったと認められるから、被告人がこのような措置をとることなく漫然と同女をホテル客室に放置した行為と午前2時15分ころから午前4時ころまでの間に同女が同室で覚せい剤による急性心不全のため死亡した結果との問には、刑法上の因果関係があると認めるのが相当である。したがって、原判決がこれと同旨の判断に立ち、保護者責任遺棄致死罪の成立を認めたのは、正当である。

とするものです。

 押尾被告人の事件とは状況が違いますが、救護義務、保護者責任を見た場合今回の裁判員に示される参考判例となります。


文化財指定と白隠禅師の巡錫

2010年02月20日 | 仏教

  このたび長野県文化財保護審議会は2月16日、東筑摩郡朝日村の「光輸寺薬師堂」と、下伊那郡下条村の龍獄(りょうがく)寺にある「紙本画彩隻履達磨図(しほんぼくたんさいせきだるまず)」の2件を県宝に指定するように長野県教育委員会に答申し、来月の県教委で決定しそうです。

 光輪寺薬師堂のある朝日村は、全国でも残り少なくなった村の一つにあるお寺で、江戸時代中期の1760(宝暦10)年の建立です。

 かやぶきの入り母屋造りで、随所に写真のような具象的な彫刻が施されており、県内でも数少ない五間堂で信濃毎日新聞写真を拝借しましたが保存状態も良く建物の歴史を知る上で重要な建造物です。

       
              (朝日村公報パンフから)

 紙本墨画淡彩隻履達磨図」のある下条村も上記の朝日村と同様に残り少ない村の一つですが、大きく異なるのは唯一村民の力が結集し自律する村で全国的に有名な村です。
         
           
そして、タレントの峰竜太さんの出身地であることでもかなり知れ渡っている村です。その村の龍獄寺にある「達磨図」は、臨済宗中興のの祖とされる白隠禅師が1757(宝暦7)年に龍嶽寺に立ち寄った際に描いたとされるもので、縦190㌢、よこ108㌢の大きさで、これも信濃毎日新聞の写真をお借りしましたが、片方の履物を手にした達磨の上半身を墨を使って大胆な筆遣いで描いているものです。答申理由は、「県内に残る近世の絵画作晶の中でも、画格の高さ、から十分に県宝に値する」としています。
 
 3月の県の重要文化財指定は確実で、また後世に残したい文化財が増えます。

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 白隠禅師のが宝暦年間の信州伊那谷の巡錫ですが、宝暦7年(1757)に飯田市飯島町の西岸禅寺で佛祖三教を、松川の瑞応禅寺で法華経を講じられたことや、布教を目的とした禅画を数多く残されたことは広く知られています。

 伊那谷は、信濃における知識層が庶民の中に厚いという得意な地域で、郷土史家桃沢匡行さんによりますと、高名な俳人大島蓼太が、白隠禅師より印可を授かるほどの深い交わりがあったようです(写真 機関紙『伊那』から)。

             
 桃沢さんの研究によりますと、大島蓼太は、享保3年(1718)伊那に生まれ、江戸へ出て雪中庵二世の櫻井吏登に入門し、33歳の寛延3年(1750には雪中庵三世を継承して、江戸俳壇の大御所となたという人物です。

 写真は印可の証と目される「龍杖図」で、本図の賛から宝暦9年(1759)12月8日に授与されていることが分かり、この当時白隠禅師が江戸に滞在していたことが明らかなことから、江戸で授受されたもののようです。
 
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自分を忘れている時

2010年02月19日 | 哲学

 「人の怖さ」というものを自分自身が気がつかず、当然のごとくにその怖さを実行しているときがあるだろうか。

 組織なり国家なりがその存続するなかで、他の組織、他の国家とは異なる独自性を表明するために境界線、国境を設定します。

 これは物理的なものである場合もあれば、自分達を際立たせるための「同一性」の政治思想なり教義などの場合もあります。

 このような同一性の論理が自然と圧倒的に強くなった組織体制、国家体制において、所属する個人はどうなるか。

 ある書籍を読んでいましたら、納得することがありましたので紹介します。

 所属する人々は独自の判断を止めて、自発的に、つまり自らの”自由意思”に基づいて、「全体」の目的に「同調」するようになる。自分の利益を自分の責任で孤独に追求するよりも、(自分をその一部として包んでくれる)「全体」の利益に合わせた方が楽である。

 「個人の自由」と「体制への同調」いわゆる「全体主義」です。
 
 閉塞的な所属に身を委ねる個人はどうなるのか。言葉を代えれば全体主義において「個人の自由」とはどのようになるのか。

 そこには、次のように語られていました。

個人の自由と「全体性」との関係を、もう少し哲学的に詰めて問題にしたのが、アウシュヴィッツの収容所での毒ガスによるユダヤ人殺害の責任者アドルフ・アイヒマンの「裁判」記録として書かれた『イェルサレムのアイヒマン』(1963)である。アイヒマンは戦後・国外逃亡していたが、60年にイスラエルの秘密警察モサドによって、アルゼンチンで発見され、そのままイスラエルの首都イェルサレムに連行された。イスラエルは、翌61年に世紀の大犯罪者であるアイヒマンを裁くための国際法廷を開いた。----当然、アルゼンチンから直接連行したことも、独断で「国際法廷」を開いたことも国際法的には大間題である。アーレントは、『ザ・ニューヨーカー』誌の特派員としてこの裁判を傍聴した。
多くのジャーナリスト・知識人たちは、数百万人のユダヤ人を計画的に虐殺したアイヒマンを、「悪」の化身のようなものとしてイメージしていた。ところが、実際に法廷に現われたアイヒマンは、アーレントの目から見て、上からの命令を黙々とこなす、どこにでもいる平凡な役人でしかなかった。殺人を楽しみにするような、めったにいない「異常者」には見えなかった。アーレントはむしろ、そうしたアイヒマン的な平凡さ、個性のなさこそ、巨大な「悪」を可能にしたのではないかと考えた。裏を返して言えば、平凡な我々のほとんどすべてがアイヒマンになる可能性がある、ということだ。『イェルサレムのアイヒマン』の副タイトルは、「悪の陳腐さ」である。
アイヒマンの分析を通して、アーレントが到達した「悪」の本質とは、日常的な「陳腐さ」の中で、自分で考える能力を喪失していくことである。組織の中でルーティン的に決まったことをやるだけで、他者に対して自分の意見を表明し、自らの個性を際立たせることを怠っていれば、人は次第に「人間らしさ」、つまり他者の外的影響から自由な思考を働かせられなくなる。そうなると、大いなる「全体」へと同化する全体主義の罠に陥りやすくなる。いったん「全体」と同化してしまえば、自分(たち)以外の存在に対する関心がなくなり、彼らが死のうと生きようと、どうでもよくなってしまう。人問的な自由な思考を奪って、動物の群れのような本能的で野蛮な集団行動へと駆り立てる傾向こそが、「悪」なのである。

アーレントは・平凡な市民である我々が、「陳腐さ」ゆえの「悪」に陥る危険に対して警告を発したわけであるが、問題は、現代において、そうした「陳腐さ」を最終的に回避することが可能かということである。人間には生れつき、自分の頭で自由に考え、他者の存在を意識する能力があるとすれば、「陳腐さの悪」は何かの間違いで偶然生じてきたものにすぎず、克服可能である、ということになるだろうアーレント研究者たちの多くは彼女は、全体主義者がが作り出した「悪」から、万人に生得的に備わっている「一人問性=自由に考える能力」を守るべくアーレントが闘つたかのように言いたがる。そういうことにしておかないと、「平凡さ」の中に「悪」の根源を見ようとする彼女が、正義の闘士ではなく、単なるペシミストになってしまうからである。
筆者に言わせれば・そうし毒でのアーレント擁護論は見当外れである。すべての「人間」に生れつき「自由に考える能力」があるのだとすれば、放っておいても、人々はいつしか自己の「本質」を自覚し、「陳腐さ」に打ち勝つようになるはずである。終末思想を語る宗教家か、「マルクス・レーニン主義の前衛党の闘士たちのように、一夜明けは近い、「目覚めよ!」と叫んでいれば充分であろう。しかし、アーレントは決してそのように声の叫びはしなかった。
アーレントは、デカルト----カント以来、近代思想の大前提になってきた「人間性=自由に考える」能力の普遍性・生得性に疑間を感じた。彼女は、アウシュヴィッツ以降も、依然としてそうした「人問性」を自明の理であるかのごとく見なしている"ヒューマニスト"に対して警告を発したのである。「人間性」とは作られたものなのである(『「不自由」論 仲正昌樹著 ちくま新書』)。

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 人間の怖さの例としては、重い話なのですが、原爆使用もその例の内にあります。

 しかし実際には、重い話だけではなく「全体」の利益に合わせた方が楽であったり、集団の中にいるほうが楽であったりする場合がほとんどのような気がします。

 世の中をそのような視点で見てみますと、確かに全体主義的な組織体、構成員が一丸となっているものを見ることができます。

 世の中と言うものが満ち溢れている世界であり、垣根を超えた共通認識が果たしてありえるのだろうかという疑問を持ってしまいます。

 「愛を守る」と語るものが、あまりにも「愛」より遠いところにいるように感じることがあったり、醜態が醜態ではないと感じる若者、是認する大人。

 彼らの所属する組織体、集団には被害者がいませんから独裁的なものとは言えません。しかし、知らないうちに所属するようになり、代わらない私であい続けたならば当然予想がつくような結果になります。

 個人の自由と思い行動する中に、自分を忘れている時があるのではないかと思うことがあります。

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高まるために捨てる

2010年02月18日 | 哲学

 今朝は、白取春彦先生の超訳『ニーチェの言葉』(ディスカヴァー)から次の言葉を選んでみました。

039高まるために捨てる

 人生はそれほど長いものではない。夕方に死が訪れても何の不思議もない。
だから、わたしたちが何かをなすチャンスは、いつも今この瞬間にしかないのだ。

 そして、その限られた時問の中で何かをなす以上、何かから離れたり、何かをきっぱりと捨てなくてはならない。しかし、何を捨てようかと悩んだりする必要はない。
 
 懸命に行動しているうちに、不必要なものは自然と自分から離れていくからだ。あたかも、黄色くなった葉が樹木から離れ去るかのようにだ。
 
 そうしてわたしたちはさらに身軽になり、目指す高みへとますます近づいていくことになるのだ。『悦ばしき知識』

 ニーチェ好きな人は、これは白取先生の言葉ではないかと言う人もいるかもしれません。

 ニーチェが一人歩きをしている。仏陀のことばが一人歩きしている。

 それに似たことになるでしょう。

 厳密にいえばそうでしょう。言を読めない私にとっては、訳本を読むか、解説書を読むかしか、ニーチェに接することができません。

 その中で、「白取春彦」という先生がどのような本を世に出してきたかと見た時に、このような方が訳したらそれをよしとしようと決めています。

 短い人生、残り少なく。市井の凡夫は、最近執着することが少なくなってきました。

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若者文化と躾(しつけ)

2010年02月17日 | こころの時代

 テレビ番組をもとに、我が家の高校生に聞いてみると事実なので、そのことをお話します。

 それは高校生ぐらにの年齢の若者を中心とした言葉です。一時話題になった「KY語」ではありません。話し言葉の言葉の組立て、一種の暗号化のようなものです。

 例えば、「私は、この人が嫌い」と友だちに話すときに、「この人」に分からないように友だちに次のように話します。
 
 「わバたバしビはバ、こボのブひビとボがバきびらバいビ」、すると友だちが「わバたバしビもボそボうぶよぼ」と答えます。

 友だちは、「私もそうよ」と答えたのです。

 これが実際話されているのを聞くと、東南アジア、ベトナム方面の言葉に聞えます。

 これは新しい単語を発明したわけではなく、会話の単語一音一音の間に、一定の法則で「バ行」を挿入しているのです。

 その法則ですが、一語一語の言葉の母音を母音が同じバ行の言葉を入れているのです。ですから「は」でしたら「バ」、「ま」でしたら「バ」母音が同じですからバ行の「バ」がはいるわけです。

 なんと面倒な言葉と思われるかもしれませんが、やってみるとさほど難しいことではないようです。簡単な単語で試してみると分かります。

 挿入する言葉は、「行」の5語でなくとも、とくていの1語でもよいのですが、やってみると分かりますが、直ぐに理解されてしまいます。

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 実施の検証はまだしてないのですが、これは一種の言葉遊びで古くからあるのだそうです。

 この言葉遊びは、ハングル語ならば同じようにできそうですが、英語や中国語では不可能なような気がします。

 先ほど言いましたが、これが単なる言葉遊びの一種で、知らないのは私だけであったならば、なるほどそうかなのですが、言葉の乱れは度外しにして若者の発想に感動に似た驚きを受けました。

 文化とは何かと聞かれれば、私は、一言にして言えば、身についた生活経験による形態の洗練であると答える。

 と有名な昔のジャーナリスト(長谷川如是閑)が居られましたが、常識、世間体、躾、場のわきまえ等その手の批判を受けることが多いのですが、反面若者らしい思考の強さを感じ、感動します。

 国母選手のスタイルもその点、若者の中に生まれた発想で、流行ですが場をわきまえない、ある種の観の鈍さを懸念します。

 それは躾(しつけ)にあると思います。愚直に形から入る。高校生ならば高校生らしい服装、行い。葬儀ならば葬儀にふさわしい服装。

 服装だけをいっているのではありませんが、私は出家僧ではありませんが多分、なにごとも形から入るのだと思います。そうすることでその精神等が身についていくのだと思います。

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 日本人の偉さに、真似から、比類なき本物を作り出す素質があります。そこには魂を打ち込む姿があります。魂とは何か、説明できない物作りに潜む情熱です。

 その情熱が低下すると、最近のトヨタ等に見られる問題に発展しています。
 
 躾がなっていないのだと思います。
 
 躾(しつけ)という感じは、日本の独特の言葉(国字)です。「身を美しくする」と言う文字です。「美しいとは」「美しい日本」の美しいであると思います。

 「美しい日本であれ」という心、最近お上から乱れているようです。

 今の若者に「美しき日本精神」を体得してもらいたいものです。それは大人に課せられた課題です。

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 最後に、真似と本物の違いの例を紹介します。そこに本物があることが分かります。

 何かの文化財をつくりだす職人は必ずスタイルをもっています。そのスタイルが科学的の行動を完全にするスタイルなんで、だからスタイルを完全につかめば、その仕事が上達する。大工なら大工が丁鉋(ちょうな)を使うという場合に、スタイルがあります。そのスタイルを完全にもつことができればうまく使える。ところがそれにはその行動を何十年修行しなくてばいけない。これは明治の、私の子供の時代のことですが、五代目の音羽屋、菊五郎です、それが丁鉋を舞台で使って、スタイルを見ると大工が使っているのとちっとも変わらない。ところが丁鉋で足をはってしまった。だからスタイルだけをただ一時的に俳優が学んだのでは、そういう大怪我をする。私の見た時には、もう怪我をしてしまって、足に包帯をして舞台に出ていました。ところがそのスタイルを見た大工に聞くと、「実にうまい使い方だったが、あれでも怪我をしましたねえ」と言ってました(『私の常識哲学』長谷川如是閑著 講談社学術文庫P62~P63から)。
 
 ここには、深イイ何かがあることに気づきます。
 
 今朝も早めの行動を設定しましたので、ここまでとします。
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