部下の3名が形式犯とはいえその罪を犯したことを告白し、有罪になる可能性がほぼ100%の時、上司たるものの道義的責任は如何にあるべきか、休日のテレビ番組は評論家のそれぞれの思いが噴出していました。
自分だけが今の日本を建て直すことができるという崇高な使命にある者、この本人にとってはそれが最高善であるに違いありません。
一方道義的責任をとるということも、職業柄一つのアイテムなわけで人によっては最高善と考える人もいます。
善と善との立たされてのジレンマ、軍配は国家に上げ、取り巻きの群衆は、この御仁に何を(夢)みるのでしょう。
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宗教化のひろさちやさんが時々話される「自灯明・法灯明」の中で次のことをいわれていました。
お釈迦さまは、80歳の生涯を閉じるとき、「私が入滅したあとは、あなたがたは自分を灯明として修行を続けなさい。そして私が教えた法を灯明として修行を続けなさい」と遺言しました。これは有名な「自灯明・法灯明」という教えですが、それは「もっと自分を大切にしなさい」、そして「真の自由人」になってほしいということです。ここで言う自由とは「自分に由(よ)る」ということですね(『狂いの説法』無着成恭・ひろさちやぶんか社P46「自分を大切にすれば他人にもやさしくなれる」から)。