思考の部屋

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ケセン語の聖書

2010年02月07日 | 宗教

       (ギリシャ語聖書 マタイによる福音書第5章)

 今朝のNHK「こころの時代~宗教・人生 アーカイブス」は、「ケセン語で読む聖書」と題し、医師の山浦玄嗣先生のケセン語の聖書の話でした。

2002年7月7日に放送されたもので、キリスト教信者として聖書を学ぶ中で、自分の住む岩手県気仙地方の方言であるケセン語と、標準語で書かれている聖書の中にどうしても隔たりがあり、地元の言葉(ケセン語)で表現した方が本当のキリストの言葉が理解できるのではないかと疑問から、ケセン語訳聖書を作るに至った話でした。

 そもそもケセン語とは何かと調べてみると

 ケセン語 (ケセンご, 漢字表記:気仙語,氣仙語, ケセン式ローマ字表記:keseng?o?) とは医師の山浦玄嗣が岩手県気仙地方の方言を一箇の言語と見なして与えた名称である。仮名でなくラテン文字(ケセン式ローマ字)で書かれる正書法を持つ。2002年7月7日にNHK教育テレビの「こころの時代」という番組で採り上げられ、その名を社会に知らせた。当時気仙周辺で生活していた蝦夷の言葉の影響を受けた言語であり、発音体系が標準語とは大きく異なっている、と同番組では紹介されていた。現在、山浦がギリシア語の原典から訳した聖書が出版されている。

と、早速今朝の番組も含めて解説されています。

 ケセン語は、アイヌ語との係わりがあり独特の方言であるようですがここでは言及しません。

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この番組では数多くの感動を受けましたが、その中でマタイ伝(マタイによる福音書)の話に興味をもちましたのでそれについて書きたいと思います。

 新約聖書マタイによる福音書第5章の3節から10節は次のように書かれています。

3節 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4節 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5節 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6節 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7節 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8節 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9節 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
10節 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

 この言葉は、おびただしい群衆を引き連れたイエスが、山に登り、座につかれ弟子と民衆に教説したことから「山上の垂訓」、「八福のおしえ」といわれていす部分です。

 番組の中で山浦先生が、3節と6節について説明されギリシャ語聖書と一般の聖書と大きく言葉の内容に差があり、ケセン語に訳した状況を含め説明されていました。

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第3節ですが、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」という有名なフレーズです。聖書はギリシャ語で書かれています。



これがギリシャ語の第3節です。赤線の部分が「ホイ プトーホイ トーイ プネウマティ」で「貧しきものは幸いである」ですが、「貧しき」に当るギリシャ語が「プトーホイ」で、ギリシャ語のの意味は「チジコマル」なのだそうです。

 次に「さいわい」に当る部分が「プネウマティ」で、この意味はヘブライ語で「吐く息」のことですが、ギリシャ語で「いのち・こころ」のこの言葉を用いているということです。

 以上のことから、「鼻息の弱い人、すなわち社会的に地位が低く、明日の希望もない、頼る人もいない人」こういう人が、神の懐にしっかり抱かれて本当の幸せに近い人だということです。

 これがケセン語に訳すと

 「頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だ」

となるそうです。

 次に第6節です。

 「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 」

でギリシャ語で



です。ここの赤い線の部分が「義に飢え渇く人々」で、ギリシャ語では「ディカイオシュネー」、そしてヘブライ語では「ツェダカー」と発音し「神の望みを行うこと」といういみですから「人々の間に不平等を無くすこと」となり、具体的には「施し」をいみすることになるそうです。

 今でもそのままイスラム世界でも、ユダヤの世界でも「施し」は最も重要なことになっていますから、その言葉の重要性が理解できます。

 このように解釈をおこなっていくと、もとの「義に飢え渇く人々」という言葉がいかにかけ離れた訳であることが分かります。

 山浦先生はケセン語で

 「施しにあだづぎそごねで 腹ァ減って 咽ァ渇ァでる人ァ幸せだ 満腹ぐなるまで食ァせらィる」

と訳しています。

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 これはどう見ても山浦先生も言われていましたが、イエスに付き従った人々、群集が、どのような人であったかが分かります。

 本当に身分の低い「貧困の民」であったわけです。

 ニーチェは「アンチクリスト」で「キリスト教は同情の宗教だ」と述べていますが、見る側と見られる側が聖書の中で逆説的に表記されている部分があるようです。

 そのように解すると、ギリシャ哲学研究者であったニーチェが強烈な「キリスト教批判者」であったが分かるような気がします。

 「義に飢える」と聞くと「正義に飢えている」と直ぐ言葉から考えてしまいますが、実際はそうではないということです。

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 大雪にはならず、今日は朝から晴天で見る見るうちに雪が融けていきます。

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