思考の部屋

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文化財指定と白隠禅師の巡錫

2010年02月20日 | 仏教

  このたび長野県文化財保護審議会は2月16日、東筑摩郡朝日村の「光輸寺薬師堂」と、下伊那郡下条村の龍獄(りょうがく)寺にある「紙本画彩隻履達磨図(しほんぼくたんさいせきだるまず)」の2件を県宝に指定するように長野県教育委員会に答申し、来月の県教委で決定しそうです。

 光輪寺薬師堂のある朝日村は、全国でも残り少なくなった村の一つにあるお寺で、江戸時代中期の1760(宝暦10)年の建立です。

 かやぶきの入り母屋造りで、随所に写真のような具象的な彫刻が施されており、県内でも数少ない五間堂で信濃毎日新聞写真を拝借しましたが保存状態も良く建物の歴史を知る上で重要な建造物です。

       
              (朝日村公報パンフから)

 紙本墨画淡彩隻履達磨図」のある下条村も上記の朝日村と同様に残り少ない村の一つですが、大きく異なるのは唯一村民の力が結集し自律する村で全国的に有名な村です。
         
           
そして、タレントの峰竜太さんの出身地であることでもかなり知れ渡っている村です。その村の龍獄寺にある「達磨図」は、臨済宗中興のの祖とされる白隠禅師が1757(宝暦7)年に龍嶽寺に立ち寄った際に描いたとされるもので、縦190㌢、よこ108㌢の大きさで、これも信濃毎日新聞の写真をお借りしましたが、片方の履物を手にした達磨の上半身を墨を使って大胆な筆遣いで描いているものです。答申理由は、「県内に残る近世の絵画作晶の中でも、画格の高さ、から十分に県宝に値する」としています。
 
 3月の県の重要文化財指定は確実で、また後世に残したい文化財が増えます。

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 白隠禅師のが宝暦年間の信州伊那谷の巡錫ですが、宝暦7年(1757)に飯田市飯島町の西岸禅寺で佛祖三教を、松川の瑞応禅寺で法華経を講じられたことや、布教を目的とした禅画を数多く残されたことは広く知られています。

 伊那谷は、信濃における知識層が庶民の中に厚いという得意な地域で、郷土史家桃沢匡行さんによりますと、高名な俳人大島蓼太が、白隠禅師より印可を授かるほどの深い交わりがあったようです(写真 機関紙『伊那』から)。

             
 桃沢さんの研究によりますと、大島蓼太は、享保3年(1718)伊那に生まれ、江戸へ出て雪中庵二世の櫻井吏登に入門し、33歳の寛延3年(1750には雪中庵三世を継承して、江戸俳壇の大御所となたという人物です。

 写真は印可の証と目される「龍杖図」で、本図の賛から宝暦9年(1759)12月8日に授与されていることが分かり、この当時白隠禅師が江戸に滞在していたことが明らかなことから、江戸で授受されたもののようです。
 
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