何をもって過ちなき生き方なのか、また過ちなく生きることができるのだろうか、あくまでも他人との関係においての是非判断で、随所に主となってたじろぐことが無きよう日々精進しているのですが、凡夫のわが身あちらにこちらにと染まって漂っています。
江戸時代への回帰ではありませんが、江戸期の随所に見られる心の学びの姿に、私も非常に惹きつけられています。
NHKでは昨年「世直し大江戸学(作家石川英輔)」、「教育を『江戸』から考える(京都大学大学院教授辻本雅史)」などが放送され、何かと江戸期が話題になっています。
昨年暮れ、辻本先生が「言葉は<心の容れもの>」と言う話をされていました。その中で、「こころがうまれるとき」について次のように語っていました。
人の心は、いつ、どのようにして生れてくるのでしょうか。私は、心が生れてくる過程は、言葉の習得の過程にかなりの程度重なるのではないかと想定しています。心とは、人間の精神作用のもととなるものです。何かを知ったり、何かを感じたり、何かを考えたりするとき、私たち人間はどのようなことをしているのでしょうか。何かを知り、感じ、考える手段、それは「言葉」です。つまり、あらゆる心のはたらきは言葉を使ってなされているのです。心で考える「思考」という行為は、言語活動の一つなのです。逆に言えば、言葉がなければ思考はできない、そう思います。
そうであるなら、言葉を習得していく過程が、心を作っていく過程と深く関わっていると考えるのが自然だと思います。もし人の心が、言葉の習得によって形づくられていくものであるとするならば、言葉は「心に形を与えるもの」、もっと端的にいえば、言葉は<心の容れもの>と言ってよいでしょう。喜怒哀楽などといった感情は、身体の動作や顔の表情などでも表現できますが、それを細かに伝えるには、言葉で表現するしかありません。複雑な心の動きや論理の構築、相互の関係性、抽象的な概念などはなおさら、言葉でなければ表現できないのです。こうしたことがらは、人にはずいぶん多くあります。人の複雑で豊かな心を表現できるのが言葉であるとすれば、その言葉をもつことこそが、人間のもつ固有の特性と言えます。つまり、心自体には形がなく、ことばによってはっきりと外に分かるように表現される、だから言葉は「心に形をあたえるもの」、さらに端的には<心の容れもの>ということができます。
「言葉を話すことができるようになった時期から」教えよ、という貝原益軒のメッセージは、心の形成と言葉の習得との深い関係に基づいていた者の発する言だと、私は考えています。
と話され、この「言葉は心の容れもの」という考え方に共感しました。
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時どきブログに書く「江戸しぐさ」ですが、これについては「江戸しぐさ」というNPO法人がありサイトがあります。書籍としては越川禮子さんという方が「江戸しぐさ語りべの会」を主催し講演活動をされ『子どもが育つ江戸しぐさ』などを出されています。
それによりますと、江戸しぐさとは、「江戸講」最後の講師であった故・芝三光という方が語り伝えた江戸町衆(町衆=町方リーダー)の考え方だということです。
この江戸しぐさの根底には教えの仏教や儒教、陽明学の精神世界があると説明されています。
NPOのサイトを見ますと、石門心学の石田梅岩や近江聖人の中江籐樹などド名が見られます。
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上記の江戸しぐさの本には、「あの人もこの人も仏と思え」と題し、次のように書かれています。
<この世に生きている人間は、みな仏さまやご先祖さまに見取られながら生きている。会う人すべては仏さまの化身であると考えられる>
この教えが江戸しぐさのベースになっています。
「人はみな仏の化身と思え」というのは、生きとして生けるものすべて(衆生)に、一様に公平に及ぶものであり、決して闘争的な忌むものではないという教えです。
人と人の出会いは、人間が赤ちゃんとして誕生する瞬間から始まります。「愛」という字は仏教用語です。愛の感動は連綿と続く先祖への感謝にもあるはずです。親を思う気持ち(孝行)が基にあります。
すべての人が仏を心にもっていて、かつ自分も仏であるわけです。仏の三千世界は、過去、現在、未来に続くもので、いっときたりとも争いや侮蔑があってはならないのです。
現代人はアメリカナイズされた思考に走って、やれ個の時代だ、平等だと言って、あたかも自分一人が生れて生きているような自己主張をしますが、日本人の体に流れている心は、惻隠の情、つまり弱者、敗者、虐(しいた)げられた人へのあわれみの情をもって、助けあい、いらわりながら共に暮らしていこうというものです。
それが仏の慈悲の心だったのです。わたしも、そちらの人も、こちらの人も、袖すりあう人みなにその心が息づいているはずです。
ちなみに、私たちが使っている「あいさつ」「愛敬」「会釈」「おかげさま」「行儀」「以心伝心」「一期一会」なんどの言葉は仏さまの教えからいただいた言葉だそうです。
と書かれていました。この本には会津藩五代藩主松平容頌の『日新館童子訓』が書かれていました。
これは藩主様が幼少の子どもたちにも分かるように、選んだ語録で、
十の誓い
1 年長者の言うことを聞かねばなりませぬ。
2 年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
3 嘘を言ってはなりませぬ。
4 卑怯なふるまいをそてはなりませぬ。
5 弱いものをいじめてはなりませぬ。
6 戸外でものを食べてはなりませぬ。
7 戸外で婦人(女)と言葉をかわしてはなりませぬ。
これが今では「あいづっこ宣言」というものになって、学校や地域の集まりで唱和されるそうです。
あいづっこ宣言
1 人をいたわります。
2 ありがとう、ごめんなさいを言います。
3 がまんします。
4 卑怯なふるまいをしません。
5 会津を誇り、年上を敬います。
6 夢に向かってがんばります。
やってはならぬ。
やらねばならぬ。
ならぬものはならぬものです。
これがその唱和する言葉です。
会津といえば長州ですが、萩市の明倫小学校では
昭和56年(1981年)より、毎朝、朝の会の時に、松陰先生の言葉を声高らかに朗唱しています。学年ごと、学期ごとに言葉が変わります。小学生に、こんな難しい言葉を言わせて、・・・というご意見もあります。しかし、昔から素読という学習方法もあり、「読書百篇、意自ずから通ず」と言われるように、毎日声に出して言うことにより、だんだんと意味がわかってくるようです。大人になってからも、ふと思い出すこともあると聞きます。論語の中に「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」という言葉もあります。物質は豊かになったけれど、心が貧しい人間が増え、道徳教育の重要性が叫ばれている昨今です。これらの松陰先生の言葉が、子どもたちの心の支えになってくれることを願ってやみません。
ということで、朗唱文を朝礼時に唱和しているようです。
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民主党政権の半数は社民色の強い議員さんで「封建制度化の教え」は排斥されてしかるべき運命にあります。
誤った心の使い方をしなければ、誤った行いはないわけで、唱和させる理由の第一は、人にはそれが足りないという大前提が存在します。
世の無常観に流されることを、ただ運命とし、その身をおくことは浅はかなホームレス的な生き方です。
すべき時にすることの重要性が認識できる不変の気概、すべきことを見極める心眼若いときから叩き込まないと、親自身のつまづきとなるように思います。
写真のイラストは、上記で紹介した『子どもが育つ江戸しぐさ』の中に「傘かしげ」で次のように解説されています。
サッと傘を傾けると、すれ違う人もハッと
気がついて傘を傾けるものです。知らない者
同±の心の交流が一瞬でもあれば、雨降り日
のうっとうしい気分もすがすがしくなります。
雨降りの往来でも身につけたいしぐさがある
ことを、子どもにも教えましょう。
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