思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

竹田圭吾氏の「理」

2010年02月16日 | つれづれ記

 16日の日曜日に放送された「情報エンタメLIVE ジャーナる」におけるバンクーバー冬季五輪の国母選手に関わる某男性評論家の非常識(個人的な見解)な発言に憤慨したことをブログに書き込んだところ、この男性評論家の正体が分かりました。

 その人物は、ニューズウィークの編集長の竹田圭吾という人物、1964年生まれ。慶應義塾大学卒。アメリカンフットボール専門誌で、アメリカのプロスポーツの現場取材などを広く手がけ、1993年から『ニューズウィーク日本版』編集部に勤務し2001年から同編集長をしているということです。

 再度写真を見ると見たことのある人物ですが、記憶に全くなかった人物でした。

 幸いなことに非常識発言と思っている方が多いようですので、この竹田圭吾という人物の発言を非常識に思うことがこの世の理であるということがいえると思います。

 よくこのように理にかなう行動などと「理」と言う言葉を何気なく使います。 この言葉が儒学のある派の立場に立ちますと、「多くの人が不満に思うなら、その不満こそが理にあっている。」ということになり「その不満の原因が、たとえば支配者ならば、支配者自身に問題があるということになります。

 この論理からすれば今回の件は、当然発言者竹田氏に問題があるということになります。

 しかし、ここで問題になるとは実際問題として、どの位の数の人が「理」に外れた発言と意識しているかです。

 私は上記で「非常識発言と思っている方が多い」と書きましたが、竹田氏の名が出ているサイトで今回の国母選手問題で非常識と書き込みのあるものが簡単に見つけ出すことができたというだけで、私自身の主観が入りすぎています。

 知的人々の晩年ではないが、理にかなわない行動をする人々の末路は同のようなものでしょう。

 竹田氏を支持する人々も確認しました。全く同感との意見、そのように思う人もまた多くいることでしょう。

 このようなことが混在して存在するのが現代です。これが自然の流れで、儒教の別の学派はこれを自然の理と解します。
 
 視点の向きから言えば、他(ほか)から目線です。

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 このように「理にかなう」ということは、個人が受けもつか、ただその事態に身を任せるかですが、どうも身を任すばかりでは逆に身の不安を感じます。

 個人的に「理にかなう」と言う時には快の常態化を含んでいるように思います。そして快は他に期待することよりも、その主人公たる個人が積極的な行動に走らないと自分に取り込めないもののように思います。

 竹田氏は、多数の賛成評価(世間の一般的な規範)に対して反対評価をすることが快であるようです。
  
 これまで言うかと思うほどの印象を受けるその態度の出どころは、彼はそこに快を見つけているのです。

 そこには他人の注目が集まることも本能的に身に焼きついているようです。なぜなら、私のような者さえ気にしてしまうからです。今回も多くの者が気にしました。

 彼の過去の歴史が今を作っています。過去に注目されない、阻害された何かがあったのか。

 過去における姿の中には今の状態と同じことがあったと思います。そうすることが快を産む(不快から脱出する)唯一の方法と理解したからでしょう。

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 他人からの注目に、快を求める。その方法にはどのような方法があるのか。

 その場において端的に快を見つけること。それが竹田氏の言語活動の基盤で、あり、発見から行動までが、熟慮の時間のない即答の状況が見られました。

 番組では、小谷さんの意見が出た瞬間反応していました。恐ろしくなるほど早い反応でした。

 今思うと批判するよりも同情したほうがよいのかもしれません。

 今日は早めの行動を設定していますので、ここまでとします。


「情報エンタメLIVE ジャーナる」出演某男性ゲスト発言

2010年02月15日 | つれづれ記

 バンクーバー冬季五輪が始まりました。雪不足が心配されましたが直前に雪が降り中止となる競技もなく一安心です。

 この冬季五輪の開会式に当りスノーボード男子の国母選手の欠席の報道がなされました。

 同選手の腰パン(公式服装)スタイルが服装の乱れと批判され、12日日本選手団の橋本聖子代表とともに記者会見した。

 端元代表は、「国母選手の服装が選手団の行動規範に違反したとして開会式出席を自粛を決めた」と説明し本人も反省しているようでした。

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 フジテレビの日曜日午後10時からの番組に「情報エンタメLIVE ジャーナる」があります。フジテレビ藤利尋アナ・平井理央アナのほか俳優の三宅裕司さんが出演され

社会・政治・経済・エンタメ・流行など最新の情報が満載…独自取材&ユーモアあふれる視点で現代のニッポンを楽しく社会観察する日曜夜の新定番、大型生情報番組

という内容の番組です。

 昨夜は冬季五輪の関係からスポーツコメンテーター小谷実可子さんと某男性ゲストが招かれ上記の「国母選手の問題」が話されていました。

 小谷さんは、シンクロスイミングの代表選手として五輪に出場した経験から、国母選手の今回の問題に対し熱く語っておられました。

 当然国の代表と出ること、またスポーツ選手としてのお考えからの発言でそのお気持ちが強く感じられました。

 選手に渡されるルールブックを片手に、国の代表選手として規律ある行動が代表選手には求められることが語られていました。すると傍らにゲストとし参加している某男性が「ルール、ナンセンス、試合に勝てばいいんだよ」と語りました。この発言をする前から今回の「国母選手開会式欠席」に不満の意向を示す発言をしていただけに、小谷さんもビックリ、三宅さんも「まいったなあ」という感じでのコメントで回避していました。

 この某男性ゲスト、名前がわかりませんでした。何かの評論家とすれば私のこれまで見た評論家の中で最低のレベルの人でした。

 この某男性は、「腰パンがなぜ悪い」と、規制するのは「日本の狭い考え方」だなどとも言い、しきりに国の代表という考え自体にも何かのトラウマか反対していました。

 「アフロヘアー、鼻ピアス、腰パン」今回は刺青はないようですが、これを日本のファッションという悲しい現実、人格とは関係がないともいいますが、これを善しとしてしまったニッポン、悲しく思います。

それにしてもこの男性ゲストの名が知りたいと思います。多分どこかで名が出て栗と思いますが、どういう人物なのか知りたい欲求に駆られました。


日本儒学解明のための視点設定(1)

2010年02月14日 | 東洋思想

     (王陽明 人物 中国の歴史 集英社から)

 江戸学というものを自分なりにつかみたいとの思いで、儒学の理解を進めています。

 当然そうなりますと中国の宋代・明代のにおける朱子学・陽明学というものを理解しなければならなくなりませんすので、色々と参考書を読んでいますと「日本儒学解明のための視点設定」という荒木見悟先生の文章に出会いました。

 簡潔明瞭で私にとってはとても理解しやすく、他の書物を読む際の基本的な部分として頭にとどめて置きたいと思います。

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 日本への儒学・儒教の渡来は古事記・日本書紀の記載から推定されますが、中世末から近世まで時代の流れの中に顕著にその特徴が見出されますが、江戸学の関係から記紀の時代は阿直岐(あちき)、阿知吉師(あちきし)が関係し、長野県下伊那郡阿智村の阿智(あち)の古代支族と地名の関係から後日言及したいと思います。

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 今回当ブログにとどめたい参考文章ですが、岩波書店の日本思想体系「貝原益軒・室鳩巣」に掲載されているものです。

朱子学の哲学的性格ー日本儒学解明のための視点設定ー

 中国の思想史は、普通、宋・元・明代を一括して宋明思想と名づけるが、この宋明思想史は三つの極をもっていたと思われる。禅と朱子学と陽明学である。この三者は、たとえば人倫の規範を心法の基本的性格と認める朱子学と陽明学に対し、むしろ規範のかなたに究極の悟境を求めようとする禅が対立する場合があり得るし、また理(性)に一義的な実在の根拠をおく朱子学に対し、理を包みもしくは理にかかわらぬ心(生命)に実在の基調をおこうとする陽明学・禅が対立する面をもつこともあり得るし、また陽明学派の穏健派が朱子学に接近する反面、過激派が禅に接近するという形態もあり得て、三者の対立関係は、かなり融通性に富んでいたといってよい。ただこの中で、最も教学としての完結性が強く、それだけに一旦思想の体制が整って以後、その発展がにぶったのが朱子学であることは、誰しも認める所であろう。その停滞を打破し、そこに釘づけされていた人間性の解放に突破口を開いたのが陽明学であるが、その心力のもり上げに重大な役割を果たしたのが、禅もしくは禅に象徴される無の思想であった。だから宋明思想史は、朱子学の完成を頂点とし、そのつき崩し運動の激化と混乱の中に終局を迎えたとみることができる。それは朱子学によって、完全に異端のレッテルをはられた禅が、逆に人間存在の原点を端的に指示するものと見直され、中国固有の思想として処遇されるに至ったほどの、大きな変転ぶりであったのである。禅なくして朱子の理の哲学は大成されなかったであろうが、また禅であるが故に、それは内から崩れていかねばならなかったのである。理の哲学は、禅扼殺の寸前にまで追いつめながら、最後のととめをさし得ず、逆に自らの足もとをすくわれる結果になったのであった。それは朱子学が禅を超克しながら、なおかつ禅的なものの存立を許容せざるを得ない体質をもっていたからであろう。しかしまた禅も、朱子学圧倒の方途を、自ら発見することができないで、王陽明という儒家の手腕に頼り、その学派の発展にあやかって、仏教の復興をなし得たのであった。宋明思想史が三つの極をもち、その対応関係が融通性に富んでいたという所以である。

と宋明思想史における、禅・朱子学・陽明学の関係と動向が解説されています。
 荒木見悟先生の文章はさらに続きますが、ここまでを私の区切りとします。
 
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 陽明学の創始者で実践的道徳を主唱した王陽明です。陽明学というと「知行合一」ことばが直ぐ思い出されますが、タレントの武田鉄矢さんの番組「武田鉄矢の週刊鉄学」で、作家・菊池道人が「知識と行動の一致」と解説していたそうです(林田明大の「夢酔独言」)

 陽明が、彼を訪ねてきたものに「知行合一」について次のような思いで語っています。
 
 朱子は知先行後(まず知識を得て、ついでそれを実行する)という考え方である。それはともすると空理空論に精力を費やし、行動が伴わなくなる。
 
 陽明は当時の学者にその弊害を見た。そして、
 
 知るは行うの始め、行うは知るの完成、知行は二にわけられぬ。
 
 と。(人物 中国の歴史8集英社「王陽明」P203から)

 王陽明は端坐して心を済ませ静一を求め、沈黙思考した結果その考えに至るのですが「知識と行動の一致」と表現する場合には明らかに一致といいながら知識・行動の分別を前提にしなければ導き出せないものです。知と行の一致ではなく中国的(中国語)な解釈では「分けられない」という概念の刷り込みが必要のように思います。

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殿下御領の弥勒菩薩

2010年02月14日 | 仏教

  郷土史研究会の東信史学会の機関紙『千曲』が送られてきました。

 表紙を開くと上田市市街地にある「願行寺」の木造弥勒菩薩立像の写真(トップ写真)と、郷土史研究家の桜井松夫さんの解説が掲載されていました。

 この「願行寺」は海野庄にあった寺で海野一族関係者の関係の寺でした。
 戦国で勝ち抜いた真田信之は、最初上田郷松尾に城下町を開き街づくりのため海野正から住民を移動させました。昌幸、幸村側の残党、本筋海野一族の一部は旧知行地に残りました。

 桜井松夫さんの解説は下の通りです。

願行寺木造弥勒菩薩立像
所作地 上田市中央2-16-14

 やさしい、ふっくらとした和やかな頬、つつましやかな口元、微かな声も聞こえそうな耳、ゆたかに感じる三道や胸の辺り、真向かうとうっすらとした微笑さえ感じ、悩む衆生を迎え人れて下さるようなお顔立ちの菩薩像である。
 寺に伝承によると、この菩薩像は、「火伏せの観音」といわれてきた。願行寺は、江戸初期真田氏の城下町下町形成に伴い海野宿の西に外れから移転してきた。享保15年(1730)10月、横町・海野町・原町など120軒を消失する大火にあうが、この菩薩を祀る観音堂の前で火は鎮まったという。像高51・8㎝、制作の技法から鎌倉初期とされ、平成6年、上田市の指定文化財とばった。
 ところが、富山大学の松浦正昭教授は、X線写真で3回調査され、興福寺旧蔵(ボストン美術館蔵)の弥勒菩薩立像や興福寺北円堂本尊胎内の弥勒苫薩像に一致し、1160年代の大仏師康朝の手になる「弥勒菩薩下生像」であると推定された。
 平成21年11月31日、願行寺で開かれた同氏の講演によれば、右手は掌を外に向けて垂れ、左手は胸の前に持物を執って立つ。普通は肩にかかる天衣が、肩よりは肘に近い位置にずれている特徴があり、割り矧ぎ、面割り玉眼嵌めこみの制作技法とあわせて、1150~60年代ころ流行した弥勒菩薩下生像だといという。
 大仏師が制作したこのような立派な弥勒下生像を願行寺が保有してきた理由は、願行寺の故地は海野庄、海野庄は「殿下御領」、そして、仁安元年(1166)のこと、領家である摂政藤原基実が24歳で逝去したことに関わるという。
 『兵範記』によれば、7日ごとに仏事を行っていて、9月8日の六七日忌には、等身弥勒菩薩一体を供養したこと、殿下御領の各荘園から弔意の調進折櫃が千三百合届けられていた記事がある。 松浦氏は、海野庄からの弔意調進折櫃の返礼として造像し、届けられたものが今日まで伝わっていると推定している。
 この像は、仁安元年制作、弥勒菩薩下生像の初期の作例であり、割り矧ぎ・面割り玉眼嵌め込みの技法の現存最古の仏像であって、日本仏像彫刻史上極めて重要な位置を占める像であるという。(文責桜井松夫)

と願行寺の願行寺木造弥勒菩薩立像を解説しています。

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 1150年から1160年ごろのこの海野庄の状況ですが、この当時1156年保元の乱がありました。

 保元の乱ですが、当時皇室内部では崇徳上皇(すとくじょうこう)と後白河天皇、摂関家藤原頼長と忠通との対立が激化し、崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝を主力として戦ったが、崇徳院側は破れ、上皇は讃岐(今の香川県)へ流されました。
 
 当時の海野庄は保元物語を参照し信濃資料集には次のように書かれています。

 信濃の諸豪族は、保元の乱に参加し、海野・望月・諏訪・蒔田・桑原安藤・木曽中太・彌中太・根井大矢太・根津神平・静妻小二郎・片桐小八郎大夫・熊坂四郎などの信濃武士が源義朝の軍勢に入り、天皇側として活躍する。

となっています。海野庄に関わる近隣の豪族ですが、海野・望月・根津です。これら豪族は源義朝側に入ったわけです。

 富山大学の松浦先生のいう「殿下御領」ですが、歴史好きでないとよくわからない話です。「殿下」という言葉は、古くは「てんが」といい、直接もの申すのではなく、殿の下に侍る者に申し、その侍を通して言上するほど身分の高い人を意味した言葉です。
 この言葉、このような意味で皇后や皇太子への敬語であったのですが、醍醐天皇(897~930)のころから、摂政・関白の役についた人に伝えられてきた荘園を「殿下御領」「殿下渡領(でんかわたり)」「氏長者領(うじのちょうじゃ)」と呼ばれるようになりました。

 海野庄とこの「殿下御領」の関係ですが「近衛家所領目録」という古文書に「信濃国 海野庄 教俊朝臣高陽院 領内」とかかれています。これが建長5年(1253)でこの中に記されている「高陽院」とは誰ぞやとなります。

 「高陽院」とは、摂政関白太政大臣従一位師子と民臣では最高位をきわめた藤原忠実と右大臣源顕房の娘従一位師子との間に生れた娘で、初名を勲子、後に泰子と改名した高陽院泰子の領地ということです。

 ここで保元の乱に出てくる藤原忠通と藤原忠実との関係ですが摂政関白の就任順位を見ますと藤原忠実(1105~1121)で藤原忠通(1121~1158)となっています。

  高陽院泰子と信濃諸豪族が属した上記「後白河・忠通側」の藤原忠通とは同母兄妹ということになります。

富山大学の松浦先生の言われるところはこのような状況からの推定で誤り無いものと思われます。

以上を書くに当たって、東部町誌を参考としました。

※近衛家は、基実(1158~1188在位)から近衛家になります。

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豊かさと好奇心

2010年02月14日 | 哲学

 2・3日陽射しの温かさが続きその後寒気団の到来で、JRの架線が氷着現象で一部路線が運休していましたが、けさはご覧の通りのご来光です。

 安曇野平に残る雪も風景としては残念ですが、雪解けを待つものたちにとっては、期待の陽射しとなりそうです。

 このような日は、散策をするのにかぎります。

 けさは、時どき思いついたようにアップしているニーチェ関係の本から言葉を選んで掲出したいと思います。参考書は白取春彦先生の超訳『ニーチェの言葉』からです。

024無限の豊かさは自分にある
 同じ物を相手にしていても、ある人は一つか二つくらいのことしか、そこから汲み出すことができない。このことはふつう、能力の差だと思われている。
 しかし実は人は、その物から何かを汲み出しているのではなく、自分の中から汲み出しているのだ。その物に触発されて、自分の中で応じるものを自分で見出しているのだ。
 つまり、豊かな物を探すことではなく、自分を豊かにすること。これこそが自分の能力を高める最高の方法であり、人生を豊かに生きていくことなのだ。(喜ばしき知識)。

 発信されるものに周波数を合わせるというよりも、おのずと共鳴する(自分で見出している)自分がそこにあるということになろうかと思います。

 共鳴する自分を作る、この歳になると手遅れかもしれません。

 頭に浮かんでくる言葉があります「好奇心」という言葉です。自分を豊かにするには「好奇心を持たなければいけない」とも言われますが、上記の偈を受け取り、次の言葉も紹介します。

018好奇心に振り回されない
 身の周りや世間でおきているいろいろな事柄に、そのつどごとに首を突っ込んでいると、結局は自分が空っぽになってしまう。あるいは、自分の空虚さをなんとか埋め合わせるために、あらゆることに顔を向けている人もいるくらいだ。
 好奇心は、自分の能力を発火させすためにはたいせつだが、世界のすべてを見聞できるほど人生は長くは続かない。若いときに自分が関わる方向を着実に見定め、それに専念していくほうが、ずっと賢く、自分を充実させていくことができる。(漂白とその影)

 好奇心ばかりで、から回りしていては、結局何も残らない。これも然りです。

 少々高級な共鳴板に高める努力は怠りなく続けたいものです。

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西尾実の「道元の愛語」

2010年02月13日 | 仏教

     (西尾実国語教育全集第九巻 教育出版 古典の研究と教育から)

 昨夜のブログで自民党の与謝野さんの鳩山総理に対する国会質問と総理の醜態に「狂気の世界」を見ると書きましたが、国会の野次雑言も含め、明治維新後さらに太平洋戦争後の言語教育の欠陥を見るような気がします。

 ここでまた今朝は、他人の文章をお借りして書きたいと思います。

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 長野県出身の国語学者に西尾実という方がおられます。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、

 西尾実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979年4月16日)は国語学者。長野県生まれ。長野師範学校を経て、東京大学国文科選科を修了。東京女子大学教授、法政大学教授を歴任。1949年、国立国語研究所の初代所長に就任した。
  日本の中世文学などを専門としたが、師範学校出身ということもあり、国語教育も重視した。

と書かれています。

 兵庫県教育大学の名誉教授中洌正堯(なかす まさたか)先生が、「ことばと学びの宇宙」というサイトで国語教育人物誌「ことばの~生活西尾実」で紹介されているので参考になると思います。

 長野県人であることもあり、西尾先生の「中世の文学」に関する論文を読んでいて「道元と愛語」と題する小論があり総括の最後の次のことばに感銘を受けたので紹介します。

 いま、われわれがになっている課題は少なくない。その重要なひとつは、民主社会の実現である。それには、まず、誰もが、自分の意見に責任をもち、それを言うべき場合に、言うべき態度・方法で言うことが、新しい倫理にならなくてはならない。われわれの伝統には、聞くことの倫理がいちじるしく開拓されているが、(それも、いまの時代には、ほとんどすたれてはいるが、)言うことの倫理は、まだ問題にさえされていなかった。
 「言うことを聞く。」とか、「聞きわけがある」とかいうことは、その人に対するほめことばである。「よく聞くことが、よく話すことだ。」といい、「聞き上手が話し上手。」などともいわれているが、言うこと・話すことになると、「口は禍の門」といい、「妄語」や「両舌」が戒められ、「多言」「巧言」「綺言」などが否定されるというように、言うこと・話すことの制限や否定は多いが、言うこと・話すことの肯定はもなければ、奨励もない。まして、言うことの方法論など絶無に近いありさまであった。
 もちろん、そういう聞くことの倫理のなかにも、深い人間の体験の一面が織りこめられ、普遍の真理がそれを裏づけてはいる。また、よく聞くことがよく話すことである面もある。しかし、いくら聞くことが話すことである面があっても、それだけで話すことのすべてが尽くされるわけではない。言うこと・話すことの問題は、当然、それとして取り上げられなくてはならない。そして、話術・雄弁術などといわれている技術のほかに、言うこと・話すことの倫理が熱心に開拓されなくてはならない。そう考えてくると、道元の「愛語」は稀有な立言である。しかし、今から七百年前に、言語活動の表現性とともに、創造性をも発見し、明確に自覚して、これほどまでに力づよく表現していることは驚嘆のほかはない。
 難解といわれる道元の遺著に、なぜ、門外漢たるわれわれをさえかくひきつけるものがあるか。これは、彼の真理が、深く彼のゆたかな人間性に発し、その全人的な体験を経て展開したものであるのによることはいうまでもない。が、さらに、その表現が、それだけの熱と力をもち、独自の趣を具えて、おのずから一種の芸術性を形成するに至っていることによるところも少なくないと思う。これが、彼の仏法をして、単なる過去の仏法たらしめず、また、単なる宗門内のものたらしめないで、何人でも、人間の問題を究めようとする者には、その人なりに、かならず、何らかの有力な示唆を与えている原因ではないかと思われる(『西尾実国語教育全集第九巻』P236~P237から)。

 私は、この文章にこころ打たれました。

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 おわりに 私見ですが、この話しに、折り合いのできない人は、昨夜のテレビ番組の聴覚障害者「筆談のホステス」さんの話を引き合いに、ある想念に陥ります。

 打ち消すまでもありませんが、道元さんの「愛語」は、「ただ、まさに、やはらかなる容顔をもて、一切にむかふべし」の結びに集約されていると思います。

 「やはらかなる容顔をもて」もこの言葉もこころに響く言葉です。

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狂気に対するエラスムスの怒り

2010年02月12日 | つれづれ記

    エラスムス 貨狄尊者(かてきそんじゃ)像

 写真は、東京国立博物館所蔵のデジデリウス・エラスムスの木像です。17世紀の初頭日本へ渡来したオランダ商船「エラスムス号」の舳先飾りで、エラスムス号が長旅で船体が破損し解体されこの木像だけが日本に残されたということです。

 デジデリウス・エラスムス(1467~1536)とは何者かといいますと、ネーデルラント出身の司祭、人文主義者、神学者で、ネーデルランドとは、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3ヶ国(ベネルクス)にあたる低地地域のことです。

 なぜ船の舳先に飾られたかといいますと、3世紀末から4西紀初めまで生きたカトリック教会の聖人の聖エラスムス(Erasmus)おり彼が船乗りの守護聖人であったことから、本来彼が飾られるところですが、オランダで有名な聖人であったデジデリウス・エラスムスがその名が同じであったことから守護聖人として飾られるようになったようです。

 木像の服装からもデジデリウス・エラスムスに違いないのですが、人文主義者、神学者として日本で本格的に彼の思想が紹介されるようになったのは第二次世界大戦直後からだということです。(『世界の名著17 エラスムス』中央公論社)

 ヘラスムスとはどのような人物なのか、どのような考え方を持ち、後の人々にどのような影響を与えたかとなると、このブログ内で紹介するほどの力量が私にはありません。

 といったところで、書きはじめた意味がありません。そこで次の文章を紹介します。上記の著書を編集した渡辺一夫先生が同書内の「ルネッサンスの二つの巨星」書かれているものです。

 現代の人々が、エラスムスに、昔のある時期の人間にたいする風刺しか読みとらず、狂気にたいするエラスムスの怒りも侮蔑もよそごとのように、また蒙昧な昔の時代にだけ当てはまるものとしか解さないならば、現代にも根強く生きている狂気や愚痴を許容することにもなろうし、昔の蒙昧さをみずから進んで継承することにもなろう(P8)。

 エラスムスの生きた時代は、中世の封建的政治秩序に立脚したキリスト教的ヨーロッパが音を立てて崩壊して行く時代でした。「狂気」とはその時代に現われた事象、人々に見える「狂気」です。

 このエラスムスについて哲学者で評論家の久野収先生は、『平和の思想 雄渾(P72)』に、

 エラスムスが平和の主体的(人間に普遍的に内在するという意味での)保証の原理としてもち出してくるのは、大自然の一部としての人間に内在する自然の「むすびつき」と、自然をこえる人間の「きづな」としてのキリスト的愛の福音の二つである。そしてこの二つを人間に自覚させる能力こそ、理性である。

という言葉を残されています。

 狂に対抗する理性を考える時、日本語としての「むすび(つき)・きづな」という言葉が深みのある言葉として響いてきます。

 そもそも久野先生がエラスムスの 著書『平和の訴え』から導き出しているのですが、エラスムスを離れ惹かれます。

 ここに「キリスト的愛の福音」と言う言葉がありますが、仏教徒ならばどのような言葉に替えることが可能か、それとも論外か、人の文章ですが、自分の言葉として考えてみるのも意義があるように思います。

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 今日の国会を見ていると与謝野さんの言葉や総理の醜態は「狂気の世界」です。

 「むすび」「きづな」ともにやまと言葉です、「むすび」は苔むすの「むす」で、神皇産霊尊(かみむすびのみこと)、産土(うぶすな)神で生成をあらわします。

 現代の日本の「狂気の世界」は戦争ではありませんが、なぜか上記の渡辺一夫先生文章が生きてきます。

 人の心というものは形なくあることさえつかめませんが、ないものから生ずる思考の成果は、非常に共鳴する部分があります。

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古本

2010年02月11日 | つれづれ記

 今日は、積読状態の本棚の整理を実施しました。整理していると珍しい本が出てくるものです。

 中には戦前・戦後の状況を知るには読んでおいた方がよいと思い本がありました。

 何かと不景気、このような古本はアマゾン価格ではいかほどかと思い検索してみる事にしました。

 とりあえず3冊だけを検索してみることにしました。一冊目は昭和5年1月21日に衆議院が解散になり、第二次普通選挙を前に各政党代表の主義主張を集約した、「『骰は投ぜられたり』(朝日民衆講座〈第15輯〉) 朝日新聞社 」の

       

という本です。これを検索したのですが該当せず、この本の次の号になる「朝日民衆講座〈第16輯〉」があり2万円ほどの値がついていました。

 二冊目は、終戦後間もなく祖国建設のために当時の南原繁東大学長が、教育者、学生を前に行った講義録「『祖国を興すもの』 南原 繁 (著)(1947年)東大協同組合出版部」です。

       

 この本は、状態がよくて3000円ほどでした。

 次の本は、とくに内容については紹介しませんが、今から25年程前の本で家庭環境が鳩山総理とよく似た家庭で育った人の書かれた本です。購入時は2000ですが、アマゾンでは8000円になっていました。



古本の価格とは不思議なものです。

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「応無所住而生其心」と悟っている話

2010年02月11日 | 江戸学

 江戸時代の庶民の教育場所となると手習宿や寺子屋という言葉を思い出します。武士階級の子弟の教育場所としての藩校とは異なり、町場の知識人、村の知識人が子供たちの教育にあたりました。

 こう書きますと折り合いの中にないと、その教育さえ受けられない子供たちがいたと語り出す人がいるかもしれませんが、私はそれを知りません。

 今日は休日です。久しぶりに古文書類を整理していますと、綴じ本の教科書が目に入りました。

 江戸期の出版物の中でこの手習用の教化本があります。それを往来物と総称します。

 書名とすれば『商売往来』『実語教』『農人往来』『童子教』などがあり名称は異なっても数多くの本が普及していました。

 写真は『養草』という強化本で、寛政元年の京都書林が出版元で、実際信州伊那地方で使用されていた本です。仏教・神道・儒教等ありとあらゆる深イイ話で構成されています。

 本の状態から塾に備え付けられていたもので、かなり擦り切れています。

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 写真には、金剛教の「応無所住 而生其心(おうむしょじゅう にしょうごしん)」という言葉が書かれています。

 「応(まさ)に住する所無うしてその心を生ず」、心というものは元来形のないもの。なんにもないがあるんだよという話で、犬がワンと鳴けば、犬と聞き、猫がニャンと鳴けば猫を聞きます。寒ければ寒いといい。暑ければ暑いという。

 心は住する所がなくとどまりませんが、その時その時、作用して出てきます。

 この言葉には、達磨大師から六代目の慧能大鑑禅師がまだ母親と二人暮しでその日暮の生活であったころ、薪売りで町に出かけると何処からかお経のを読む声が聞え、この言葉に出会い忽然と目ざめ、この尊いお経が金剛教であることを知り僧侶になる決意をするに至るという話があります。
 
 江戸時代の子供たちは知っていたわけです。

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 ニュースによりますと鳩山総理の誕生会があったということです。芸能人もたくさん招待されたようで、総理大臣夫人が仕切ったようです。

 その後の地方ニュースでは、高校の授業料が払えない家庭が増加したということです。

 これで本当によいのでしょうか。お上が乱れてる下々も乱れると書きましたが、トヨタを始め車業界は乱れていますし、少年による殺人は起こっている。大いに世の中は乱れが重なっています。

 不祥事ということで相撲界を引退した横綱は、ハワイでゴルフ三昧で3億円という声も聞かれます。

 悪と悪のジレンマ。どちらの悪を選べばよいのか、政治家から下々まで・・・・。

 世の中にどんなことを見て取り、聞いているのでしょうか。

 ある高僧が尋ねた、「お前は何処からきたのか」その御仁、答えて曰く「宇宙から」、・・・・・・・。

 「悟っているなあ」

と何処からとなく聞えてきました。

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教育を江戸から考える-江戸しぐさ

2010年02月11日 | 江戸学

 何をもって過ちなき生き方なのか、また過ちなく生きることができるのだろうか、あくまでも他人との関係においての是非判断で、随所に主となってたじろぐことが無きよう日々精進しているのですが、凡夫のわが身あちらにこちらにと染まって漂っています。

 江戸時代への回帰ではありませんが、江戸期の随所に見られる心の学びの姿に、私も非常に惹きつけられています。

 NHKでは昨年「世直し大江戸学(作家石川英輔)」、「教育を『江戸』から考える(京都大学大学院教授辻本雅史)」などが放送され、何かと江戸期が話題になっています。

 昨年暮れ、辻本先生が「言葉は<心の容れもの>」と言う話をされていました。その中で、「こころがうまれるとき」について次のように語っていました。

 人の心は、いつ、どのようにして生れてくるのでしょうか。私は、心が生れてくる過程は、言葉の習得の過程にかなりの程度重なるのではないかと想定しています。心とは、人間の精神作用のもととなるものです。何かを知ったり、何かを感じたり、何かを考えたりするとき、私たち人間はどのようなことをしているのでしょうか。何かを知り、感じ、考える手段、それは「言葉」です。つまり、あらゆる心のはたらきは言葉を使ってなされているのです。心で考える「思考」という行為は、言語活動の一つなのです。逆に言えば、言葉がなければ思考はできない、そう思います。

 そうであるなら、言葉を習得していく過程が、心を作っていく過程と深く関わっていると考えるのが自然だと思います。もし人の心が、言葉の習得によって形づくられていくものであるとするならば、言葉は「心に形を与えるもの」、もっと端的にいえば、言葉は<心の容れもの>と言ってよいでしょう。喜怒哀楽などといった感情は、身体の動作や顔の表情などでも表現できますが、それを細かに伝えるには、言葉で表現するしかありません。複雑な心の動きや論理の構築、相互の関係性、抽象的な概念などはなおさら、言葉でなければ表現できないのです。こうしたことがらは、人にはずいぶん多くあります。人の複雑で豊かな心を表現できるのが言葉であるとすれば、その言葉をもつことこそが、人間のもつ固有の特性と言えます。つまり、心自体には形がなく、ことばによってはっきりと外に分かるように表現される、だから言葉は「心に形をあたえるもの」、さらに端的には<心の容れもの>ということができます。
 「言葉を話すことができるようになった時期から」教えよ、という貝原益軒のメッセージは、心の形成と言葉の習得との深い関係に基づいていた者の発する言だと、私は考えています。

と話され、この「言葉は心の容れもの」という考え方に共感しました。

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時どきブログに書く「江戸しぐさ」ですが、これについては「江戸しぐさ」というNPO法人がありサイトがあります。書籍としては越川禮子さんという方が「江戸しぐさ語りべの会」を主催し講演活動をされ『子どもが育つ江戸しぐさ』などを出されています。

 それによりますと、江戸しぐさとは、「江戸講」最後の講師であった故・芝三光という方が語り伝えた江戸町衆(町衆=町方リーダー)の考え方だということです。

 この江戸しぐさの根底には教えの仏教や儒教、陽明学の精神世界があると説明されています。

 NPOのサイトを見ますと、石門心学の石田梅岩や近江聖人の中江籐樹などド名が見られます。

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 上記の江戸しぐさの本には、「あの人もこの人も仏と思え」と題し、次のように書かれています。

 <この世に生きている人間は、みな仏さまやご先祖さまに見取られながら生きている。会う人すべては仏さまの化身であると考えられる>
 この教えが江戸しぐさのベースになっています。
「人はみな仏の化身と思え」というのは、生きとして生けるものすべて(衆生)に、一様に公平に及ぶものであり、決して闘争的な忌むものではないという教えです。
 人と人の出会いは、人間が赤ちゃんとして誕生する瞬間から始まります。「愛」という字は仏教用語です。愛の感動は連綿と続く先祖への感謝にもあるはずです。親を思う気持ち(孝行)が基にあります。
 すべての人が仏を心にもっていて、かつ自分も仏であるわけです。仏の三千世界は、過去、現在、未来に続くもので、いっときたりとも争いや侮蔑があってはならないのです。
 現代人はアメリカナイズされた思考に走って、やれ個の時代だ、平等だと言って、あたかも自分一人が生れて生きているような自己主張をしますが、日本人の体に流れている心は、惻隠の情、つまり弱者、敗者、虐(しいた)げられた人へのあわれみの情をもって、助けあい、いらわりながら共に暮らしていこうというものです。
 それが仏の慈悲の心だったのです。わたしも、そちらの人も、こちらの人も、袖すりあう人みなにその心が息づいているはずです。
 ちなみに、私たちが使っている「あいさつ」「愛敬」「会釈」「おかげさま」「行儀」「以心伝心」「一期一会」なんどの言葉は仏さまの教えからいただいた言葉だそうです。

と書かれていました。この本には会津藩五代藩主松平容頌の『日新館童子訓』が書かれていました。

 これは藩主様が幼少の子どもたちにも分かるように、選んだ語録で、

 十の誓い
1 年長者の言うことを聞かねばなりませぬ。
2 年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
3 嘘を言ってはなりませぬ。
4 卑怯なふるまいをそてはなりませぬ。
5 弱いものをいじめてはなりませぬ。
6 戸外でものを食べてはなりませぬ。
7 戸外で婦人(女)と言葉をかわしてはなりませぬ。

 これが今では「あいづっこ宣言」というものになって、学校や地域の集まりで唱和されるそうです。

 あいづっこ宣言
1 人をいたわります。
2 ありがとう、ごめんなさいを言います。
3 がまんします。
4 卑怯なふるまいをしません。
5 会津を誇り、年上を敬います。
6 夢に向かってがんばります。
  やってはならぬ。
  やらねばならぬ。
  ならぬものはならぬものです。

これがその唱和する言葉です。
 会津といえば長州ですが、萩市の明倫小学校では

 昭和56年(1981年)より、毎朝、朝の会の時に、松陰先生の言葉を声高らかに朗唱しています。学年ごと、学期ごとに言葉が変わります。小学生に、こんな難しい言葉を言わせて、・・・というご意見もあります。しかし、昔から素読という学習方法もあり、「読書百篇、意自ずから通ず」と言われるように、毎日声に出して言うことにより、だんだんと意味がわかってくるようです。大人になってからも、ふと思い出すこともあると聞きます。論語の中に「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」という言葉もあります。物質は豊かになったけれど、心が貧しい人間が増え、道徳教育の重要性が叫ばれている昨今です。これらの松陰先生の言葉が、子どもたちの心の支えになってくれることを願ってやみません。

ということで、朗唱文を朝礼時に唱和しているようです。

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 民主党政権の半数は社民色の強い議員さんで「封建制度化の教え」は排斥されてしかるべき運命にあります。

 誤った心の使い方をしなければ、誤った行いはないわけで、唱和させる理由の第一は、人にはそれが足りないという大前提が存在します。

 世の無常観に流されることを、ただ運命とし、その身をおくことは浅はかなホームレス的な生き方です。

 すべき時にすることの重要性が認識できる不変の気概、すべきことを見極める心眼若いときから叩き込まないと、親自身のつまづきとなるように思います。

 

 写真のイラストは、上記で紹介した『子どもが育つ江戸しぐさ』の中に「傘かしげ」で次のように解説されています。

 サッと傘を傾けると、すれ違う人もハッと
気がついて傘を傾けるものです。知らない者
同±の心の交流が一瞬でもあれば、雨降り日
のうっとうしい気分もすがすがしくなります。
雨降りの往来でも身につけたいしぐさがある
ことを、子どもにも教えましょう。

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