思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

個」と「全体」の調和とオリジナル

2010年02月05日 | 哲学

 批評家の思索結果を別の批評家が批評する。『山本七平の智慧袋 PHP』はそういう形での谷沢永一先生の山本七平先生のの批評書です。

 だいぶ古い本ですが、最近は古い話の方が先見性の視点からは、個人的な思索の上においては非常に参考になるよう思うときがあります。

 批評家で有名な松岡正剛先生は、山本七平についてはその著『現人神の創作者たち』から批評し、山本先生の展開する尊皇思想を紹介しています。

 元の山本先生の著書は、となると、これは過去の思想家の批評である訳で、結果的に批評の批評で批評のオンパレードです。

 これがいけないという否定的な話ではなく、人間の考える力、思索・思考のすばらしさに感動するからです。

 ただ与えられたものを善しとするのではなく、そこから何かを見つけ自ら思索を重ねる、個としてある以上は何かオリジナルをもちたい者です。

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 話を元に戻しますが、谷沢永一先生は、上記智慧袋の中で、山本七平先生の『勤勉の哲学』の中から山本先生が鈴木正三について書かれている部分を引用し<「個」と「全体」の調和)>ということについて書かれています。

 この鈴木正三の引用部分ですが、

 この正三の発想の基礎にあるものを現代的に言いかえれば、月が一滴の水に映っているように各人の中に平等に「仏性=人間性」があり、この点に関する限り「人間みな同じ」であるから、「己をしれ」ということは、自己の内なる万人共通の「人間性」なるものを知れ、という意味であろう。とすると、この「個の把握」はそのまま「人類全体の把握」になるはずで、正三はここに個と全体との調和を求めているいるわけである。一種の「共通なる人間性なるものへの信仰」とでも言うべきものだが、これは、石門心学にもあり、同時に、現代の日本人をも規定する基本的な信仰である。そしてこの「個」と「全体」との調和を阻害するものを彼は「邪心=病」と規定し、この「病」を自覚していない者は、「適(たまたま)道を聞いては、人をはかる定規となし」ても、これを自己の定規としてないから、意味がなくなる。まことに「世に人多しといへども、をのれを知る人稀なるべし」である(『勤勉の哲学』 P56~P57)

谷沢先生は、個の文章を引用し、

 日本のあらゆる思想家を評価する場合に大事なことは、日本人の社会通念にないことを言い出した人はいないということである。
 
日本の思想家というものは表現者であって、錐を(きり)をもみこむ人ではない。

 論理的にいちおう「個」と「全体」は闘争する。対立が起こるが、その場合、条件が二つあって、一つは自分が未成熟。一つは、外なる世界があまりに悪い。ここで未成熟と思う人は人生論者になる。世の中が悪いと思う人はいわば反体制派になる。その反体制派と人生論派は、発想のもとは同じなのである。・・・・

と述べています。これはオリジナルなのだと思うのですが、「個」と「全体」の調和のオリジナルこれははずしたくないと批評の批評を読んで感じました。

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