以前アップした写真とは違います、飼い主が言うのもなんですが今朝はほほ笑んでいます。
わが家の「ソラ(猫)」は、物言うこともなく、日々元気に私が早朝茶の間にコーヒーを入れに行くと、必ず定番の位置に鎮座します。
まるで招き猫のようです。最近いろんな猫が雑誌やタウン情報誌などに「わが家のペット」と紹介されています、が、やはり「うちのソラ」と親ばか(飼い主ばか)を云っています。
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雪のためランニング、散歩をサボり久しぶりに1時間半ほど散歩しただけで、何故か朝起きると体が痛いのです。
『養生訓』で知られる江戸期の儒者貝原益軒の最後の和歌は、
越方は一夜ばかりの心地して八十路あまりの夢をみしかな
というものでした。
養生訓を書いた貝原でしたが、妻を亡くしてからは旅好きの貝原も家に閉じこもりがちになってしまったそうです。
とある本に「晩年期の男性のストレスの最たるものは配偶者の死である」と書かれていましたが、巷で聞く話にもその例が多くあります。
益軒は『養生訓』の中でこう書いています。
「人生五十にいたらざれば、血気いまだ定らず。知恵いまだ開けず、古今にうとくして、世変になれず。言あやまり多く、行悔多し。人生の理も楽もいまだ知らず。五十にいたらずして死するを夭(わかじに)と云。是亦、不幸短命と云べし。長生すれば、楽多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能(よく)せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なる事も、長生せざれば得がたし」
人生は五十歳くらいにならないと血気がまだまだ不安定で、知恵も出ないし、昔から今までの歴史的な知識にもうとく、社会の変化にもなれていないので、間違った言も多く、行いに後海することがしばしばである。人生の道理も楽しみも知らない。五十歳にならないで早世することを夭という。これは不幸短命といわなければならない。長生きすれば、楽しみ多くそれだけ益も多い。これまで知らなかったことを日々に知り、月々にいままで不可能であったことも可能になる。だから学問知識の進歩発達も、長生きしなければ得られないのである)【巻第一の十九】(『知的巨人達の晩年』稲永和豊著「書き忘れた養生訓」から)
妻をいたわり、わが身のも気を配りほどほどに長生きをしたいものです。