思考の部屋

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西尾実の「道元の愛語」

2010年02月13日 | 仏教

     (西尾実国語教育全集第九巻 教育出版 古典の研究と教育から)

 昨夜のブログで自民党の与謝野さんの鳩山総理に対する国会質問と総理の醜態に「狂気の世界」を見ると書きましたが、国会の野次雑言も含め、明治維新後さらに太平洋戦争後の言語教育の欠陥を見るような気がします。

 ここでまた今朝は、他人の文章をお借りして書きたいと思います。

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 長野県出身の国語学者に西尾実という方がおられます。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、

 西尾実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979年4月16日)は国語学者。長野県生まれ。長野師範学校を経て、東京大学国文科選科を修了。東京女子大学教授、法政大学教授を歴任。1949年、国立国語研究所の初代所長に就任した。
  日本の中世文学などを専門としたが、師範学校出身ということもあり、国語教育も重視した。

と書かれています。

 兵庫県教育大学の名誉教授中洌正堯(なかす まさたか)先生が、「ことばと学びの宇宙」というサイトで国語教育人物誌「ことばの~生活西尾実」で紹介されているので参考になると思います。

 長野県人であることもあり、西尾先生の「中世の文学」に関する論文を読んでいて「道元と愛語」と題する小論があり総括の最後の次のことばに感銘を受けたので紹介します。

 いま、われわれがになっている課題は少なくない。その重要なひとつは、民主社会の実現である。それには、まず、誰もが、自分の意見に責任をもち、それを言うべき場合に、言うべき態度・方法で言うことが、新しい倫理にならなくてはならない。われわれの伝統には、聞くことの倫理がいちじるしく開拓されているが、(それも、いまの時代には、ほとんどすたれてはいるが、)言うことの倫理は、まだ問題にさえされていなかった。
 「言うことを聞く。」とか、「聞きわけがある」とかいうことは、その人に対するほめことばである。「よく聞くことが、よく話すことだ。」といい、「聞き上手が話し上手。」などともいわれているが、言うこと・話すことになると、「口は禍の門」といい、「妄語」や「両舌」が戒められ、「多言」「巧言」「綺言」などが否定されるというように、言うこと・話すことの制限や否定は多いが、言うこと・話すことの肯定はもなければ、奨励もない。まして、言うことの方法論など絶無に近いありさまであった。
 もちろん、そういう聞くことの倫理のなかにも、深い人間の体験の一面が織りこめられ、普遍の真理がそれを裏づけてはいる。また、よく聞くことがよく話すことである面もある。しかし、いくら聞くことが話すことである面があっても、それだけで話すことのすべてが尽くされるわけではない。言うこと・話すことの問題は、当然、それとして取り上げられなくてはならない。そして、話術・雄弁術などといわれている技術のほかに、言うこと・話すことの倫理が熱心に開拓されなくてはならない。そう考えてくると、道元の「愛語」は稀有な立言である。しかし、今から七百年前に、言語活動の表現性とともに、創造性をも発見し、明確に自覚して、これほどまでに力づよく表現していることは驚嘆のほかはない。
 難解といわれる道元の遺著に、なぜ、門外漢たるわれわれをさえかくひきつけるものがあるか。これは、彼の真理が、深く彼のゆたかな人間性に発し、その全人的な体験を経て展開したものであるのによることはいうまでもない。が、さらに、その表現が、それだけの熱と力をもち、独自の趣を具えて、おのずから一種の芸術性を形成するに至っていることによるところも少なくないと思う。これが、彼の仏法をして、単なる過去の仏法たらしめず、また、単なる宗門内のものたらしめないで、何人でも、人間の問題を究めようとする者には、その人なりに、かならず、何らかの有力な示唆を与えている原因ではないかと思われる(『西尾実国語教育全集第九巻』P236~P237から)。

 私は、この文章にこころ打たれました。

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 おわりに 私見ですが、この話しに、折り合いのできない人は、昨夜のテレビ番組の聴覚障害者「筆談のホステス」さんの話を引き合いに、ある想念に陥ります。

 打ち消すまでもありませんが、道元さんの「愛語」は、「ただ、まさに、やはらかなる容顔をもて、一切にむかふべし」の結びに集約されていると思います。

 「やはらかなる容顔をもて」もこの言葉もこころに響く言葉です。

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