思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

信州の御柱祭

2010年02月27日 | 歴史

 信州は昨年の善光寺ご開帳に引き続き今年は、諏訪御柱のが行われます。

 御柱は諏訪の御柱が有名ですが信州では、各地で小規模な御柱が行われます。特に伊那地方には今もって多くの御柱が行われており、平成22年庚寅は、34箇所の神社で行われる予定です。

 諏訪大社の御柱について、伊那史学会の機関紙『伊那』では、御柱祭の特集号で諏訪社の御柱の歴史が簡略説明(歴史家山内尚巳先生)されていますので紹介したいと思います。

諏訪大社と御柱祭

 諏訪大社は元官幣大杜で上杜と下社からなり、上社は茅野市宮川の前宮(まえみや)と諏訪中州の本宮(ほんみや)、下社は下諏訪町の春宮(はるみや)と秋宮(あきみや)がある。諏訪大社の歴史は極めて古く『古事記』『日本書紀』にも記されているように日本でも最古の神社に数えられる。

 歴代朝廷や武将たちの崇敬があつく信濃国一之宮とし一て、県内はもちろん、全国に諏訪神社は一万杜以上存在する。祭神は建御名たけみなかたとみの方富命とその妃八坂刀売命やさかとめのである。山内尚巳一般には諏訪明神で通っている。
 
 「諏方大明神画詞」にみる造営と御柱諏訪大社は七年に一度ずつ鳥居、社殿、御柱をすべて新調することになっていたが、その中で現在も続く御柱の建てかえはその一環である。諏訪大杜の最古の史料である延文元年(2256)にかかれた「諏訪大明神画詞(えことば)」の第十二段にはそのことが記されている。

       

絵在之
寅申ノ支干二当社造営アリ、一国ノ貢祝(税)永代ノ課役桓武ノ御宇二始レリ、但遷宮ノ法則諸杜ニハコトナリ白元古新二杜相並テ断絶セス、侃仮殿ノ煩ナシ、先年寅歳造替ノ新社ハ七廻ノ星霜ヲフレハ天水是ヲ洗ヒ降露カワク事ナシ、当社寄特ノ随一ナリ、自ラ潔斉シテ今度申歳遷宮ヲナシ奉ル、其ノ時ノ古社ハ又新造ノ後七年送リテ神座、又七年ヲフレハ前後支干一襖十三年二当テ撤却ス、其次二又新造ヲ造替シテ来寅ノ歳ヲマツ、如此輪転ス、是則両社同末杜一同ノ儀也、サレハ後年暦二当レハ初春ヨリ国司ノ目代巡役ノ官人ヲ大行事二差シ定メ、御荷ヲキリ、国中ノ要路二関ヲスヘテ神用ヲ分配ス、一国ノ人民諸道ノエ匠ヲ集テ経営ス、氏人井国中貴賎人屋ノ営作ヲナサス、料材ヲ他国エ出サス、数十本ノ元御柱上下ノ大木一本別一二千人ノカニテ採用ス、加之首服婚嫁ノ礼其以是ヲト㌧ム、違犯ノ者ハ必ス神罰ヲカウフル、垂迩已来越年ノ例ナシ、年内必造早ヲトケテ覆勘トイフ啓白ヲ申事也、

 これを要約すれば、諏訪大杜は桓武天皇代から寅、申年に信濃国中をあげて造営し、断絶したことがない。造営には国司の目代を大行事に定め、国中の人民・工匠を集めて経営する。この年はすべての人の家屋営作をなさず、材料を他国へ出さず、数十本の大木の御柱を一、二千人の力で採用する。加えて元服、婚嫁の礼をやめる。違犯者は必ず神罰を蒙る。この造営は越年したことがない。というのである。
 
 7年ごとに行われる造営には信濃国中に勤仕が割り当てられており、その実際は別の史料で確認できる。のち、建武2年(1335)の中先代の乱以降の諏訪一族の衰退と上杜と下社が激しい対立を繰り返したため、諏訪大杜への勤仕は劣えた。その後、武田氏による再興、織田軍による焼き討ち、徳川氏の保護、明治維新による上・下杜統合、太平洋戦争と戦後の試練を経て、今日の御柱祭の隆盛となった。前回、平成16年には、下社秋宮の御柱にはじめて女性が乗って話題をよんだ。御柱祭の起源については先の諏訪大明神画詞にある桓武天皇代(781~806)に社殿の造営に合わせて行われたとすると、少なくとも平安時代初期からとなり1200年前にさかのぼる。しかし、この記述が御柱祭を明確に示しているとは暫言できない。したがって起源については古くから諸説があり、そのひとつには縄文時代起源もあるという。

特殊神事としての御柱祭と意義

 御柱祭は正式には「諏訪大杜式年造営御柱祭」といい諏訪大社の数ある特殊神事のなかで最も特筆されるもので、地元では単に「おんばしら」と呼ぶ慣わしで「祭」の字を加える場合は「みはしらさい」と呼んでいる。御柱は四社の境内四隅に巨大な自然木の椛の柱を建てるのである。御柱祭の意義については、古くから諸説がある。主なものは①儒教・仏教の教理に由来する説、②神霊降臨のための「依代よりしろ」(神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形など)説、③神社という聖地の四至標示説、④社殿造営の代用説などがあり、なお検討の余地を残し、今後考古学、民俗学、民族学などによる比較研究の成果にまつところが多いとされる。

と解説されています。
 御柱研究は盛んで数多くの出版物が発刊されていますが、民俗学的にも貴重な伝統行事です。

 行事の期間ですが、諏訪の御柱祭の 開催期間は、4月1日(木)~6月15日(火)で、飯田・伊那地方は3月から4月に掛けてです。

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『哲学を持て!』という深い話

2010年02月27日 | 仏教

 大乗仏教典の般若心経には、「色即是空」「色即是空」が語られ、「空」という言葉、「空即是色」と言う言葉は、「本来あるべきお釈迦さまの教えとはかけ離れたものである」論にまた出会いました。

 仏教の宗教団体の中には当初から毛嫌いする団体もありますが、日本という国にこのお経が伝来し、今日まで唱えられ一大ブームにまでなるにはそれなりの理由があると考えるのが普通です。

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 考えに考え抜いた結果、思考に思考を重ねての結果から、これを上記のように否定できる自分があったならば、自分は偉大な聖職者であり、また思想家だと自負してよいと思います。

 存在することを否定する勇気、あるものを「ない」と公言できる勇気、これはとても強い力の意志の持ち主です。

 私は、素人ながらお釈迦さんの偉大なところは「無我」を公言できたところにあると思います。

 お釈迦さまはお亡くなりになるまで語りつくします。伝え聞いたそ後の人々は、その場(生きる場において)においてその言葉を人々にひろめます。

 日本には、「空」があり「空即是色」がある。こうしたことが今日の渾沌とした世界を作ってしまう原因となっているなどと考える人はまずいないと思います。

 現実的にテロや政治犯の幽閉は、全くないと思うのが折り合いに生きている人々の共通意識です。

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 人間は思考するから「悩める人間」「苦を背負う人間」になり、自ら苦を生じさせている存在であると、語られることもあります。

 無我といっても現実的には、思考せずに入られない人間であり、「是色」というものはそういうものであると思います。

 お釈迦さまの言葉の裏返しは、その旨(趣旨)を言っていると考えるのが普通ではないかと思います。

 このように説かれ、そのように理解することで納得する人もいるわけで、そういう人にとってはこれほどありがたいことはありません。

 思考すること、これにより人は生きています。それは程度の深さに問題がること、それは人それぞれの個性をつくり出しているものと同じで、普通に他の人々と共有できる程度から大きく逸脱する姿に変化する場合に問題があるわけです。

 そこに心の強さがあるわけで、心が無いと否定したところで何の助けにもなりません。教示を受け、思考し自分のものとしていくこれが信仰だと思います。

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 最近の新聞でイイ話を見(聞き※心に響いたということです)ました。
 
 長野市のNPO法人「劇空間 夢幻工房」青木由里理事長の『哲学を持て!』という、先週の日曜日に掲載された話です。

 女優を目指して、高校2年生の時に劇団東俳に入りました。
そこで出会った恩師の一人が演出家の杉山健一郎先生。温厚な方で、役者とは、演劇とは、と議論をよく交わしました。印象に残っているのは「哲学を持て!」という言葉です。

 役者にとって大事なのは存在感。それは演技のうまい、へたとは別です。演じる技術だけでは存在感を感じることはできない。確固たる信念を持って、何かを伝えようとするエネルギーがあって生まれてくるのです。
 
 哲学を持つ---。その言葉を聞いて人間について考えるようになりました。小学生の時にベトナム戦争の映像を見た衝撃から「大人は人を殺してはいけないと言うけれど、何でそんなことが起こるのか」と疑問を感じていた私にとって、哲学の探求は人生の大きな糧になりました。
 
 哲学書を読みあさるうち、宗教も哲学だという言葉から、宗教について調べるようになりました。教会や寺院に通ったひ、聖書や経典を読んだりして見えてきたのは、命の重みであり、人問という存在の奥深さでした。そして、内に潜む傲慢(ごうまん)さを転化させるには、何かを信じること、自分のルールや基準を明確にすることが必要だと思うに至りました。
 
 その経験は、戯曲を書き、演出をするようになって、作品の世界観を形作る上でも生きていると思います。
 
 地方から舞台芸術を発信しようと立ち上げた劇空問夢幻工房」では、、毎年夏に小学生以上の子どもや大人を交えた野外劇の上演をしています。子どもたちには、責任感や協調性を学びながら、あきらめずに努力し続ければ必ず夢は実現できることを体験してもらいたい。自分たちがばかみたいに演劇に打ち込んでいる姿が、何かのきっかけになればと考えています。
(2月21日付信濃毎日新聞から)

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 「哲学すること」は、思考することだと思います。程度は自分がそれを決めることができる状態に落ち着かせている、そのことが認識できる程度にです。

 わけのわからない文章になっていますが、要するに「落ち着くべきところ」にある、「納まっている」といことです。

 今朝は、この文章を書いている午前5時31分ころに沖縄地方にマグニチュード6.9・震度5弱の地震がありました。今のところ被害は出ていないようです。

 発生前に今回は警報が出ました。

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