万葉歌人の山上憶良の歌(巻5-893)に
万葉仮名
世間乎(よのなかを)宇之等夜佐之等(うしとやさしと)於母倍杼母(おもへども)
飛立可祢都(とびだちかねつ)鳥尓之安良祢婆(とりにしあらねば)
せけんを 憂(う)しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
訳
世の中は、つらい消え入りたいと思うけれど、飛び去ることもできない、鳥ではないので.(小学館)
世の中をつらい、恥ずかしいと思うのだが、飛び立ちのがれることはできない、鳥ではないので。(中西進訳)
があります。
「憂(う)し」とは、思いどうりにならなくていやになること。他の解説書では「厭(う)し」の字を使用している場合もあります。
「やさし」とは、恥ずかしい、きまり悪い。という意味です。
万葉学者の中西進先生は、この山上憶良の歌から次のように語っています。
「私は情けなく恥ずかしい」という気持ちはを「憂しとやさしと」という。
ところが今、私たちは「あの人はやさしい人だ」というように、「やさし」を相手に対する形容詞としてしか、使わなくなりました。思いやりがあるとか優雅だとか、相手のふるまいだけを問題にするのは、自分のことを棚上げにして、責任をもたないということです。本来の「やさし」の意味からすれば、逆の使い方になっているのです。
「やさしい」ということばを口にする時、私たちはまず、自分が相手に対して身が痩せるほど恥ずかしいと思うかどうかと、まず自身に問わなければなりません。つまり「やさしい」は、相手に対する尊敬の気持ちを表わすことばでもあります。
と解説されています。
前にも紹介しましたが、きのうの地方紙信濃毎日新聞に東京大学竹内整一教授の「やまと言葉の倫理学」第四弾が、掲載されていました。
今回は、現代語「やさしい」という言葉に注目していました。やまと言葉の{やさし」の話なので上記の中西先生と同じような解説をなされてていましたが、その他に今回は教授独自の解釈だと思いますが掲載されていました。
「やさしさ」には、もう一点、大事な側面がある。おのれをおさえて、ということにもかかわるが、そこには、ある種の演技性・作為性が含まれているということである。「やさしさ」の類語である「情け」という言葉は、「為す+け」(「かなし+げ」と同じ用法)で、他人にそうしているように見える、ゆえに演技としての「嘘」などもふくまれているとされる。「やさしさ」にも同様なニュアンスがある。そもそも「優しい」の「優」という漢字は「演技する者」の意味がある(俳優の優)。
他人に対して、演じてでもそうしたい、してあげたいと思うことがある。心の底からの真情のみが情なのではない。「嘘」を含み、のんでこそ人を大切にすることができることもある。
せつなく「嘘」や「道化」を演じ続けた太宰の文字を通して、今の時代の「やさしさ」のあり方をあらためて考え直してみることもできるのではないだろうか。
という内容で、「やさし」に「嘘」が含まれているという解釈がなされていました。
なお、上記引用中の竹内教授の「太宰の文字」ですが、今回の紙面の文章は、太宰治ブームと太宰の作品においては「やさしさ」が特別な意味を持った言葉であることの説明から話が進められています。
『雪の夜の話』の例
難破してやっと灯台の窓縁まで泳ぎついた水夫が、助けを叫ぼうとして、ふと窓の中をのぞくと、燈台守の一家が楽しそうに団欒していた。いま自分が叫んだらこの団欒が滅茶苦茶になってしまうと思ったら、窓縁にしがみついていた指先の力がぬけ、ざあっとまた大波にさらわれてしまった。
そして太宰はこうつづる。「この水夫は世の中で一ばん優しくてそうして気高いひとなのだ」。
太宰は「やさしさ」とは、「人の淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事」でもあるという。また、「そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります」とも。そして「そんなところに(日本)文化の本質がある」とさえ言っている。(河盛好蔵宛文書)
夫がこれほどまでに冷静さを保てるものか疑問ですが、太宰の「やさしさ」について竹内教授はコラム前段に書かれています。
「やさしさ」とか「やさしい」という言葉、竹内教授は「人間の尊さ」といったようなものに関わる大事な言葉として(上記紙面)考察を進め、中西先生は、
「やさしい」の古語は「やさし」。そのもととなったことばは「やす(痩す)」、現代語の「やせる」です。相手に対して、自分が痩せるような思いをすること、やさしい」というのです。 (ひらがなでよめばわかる日本語 新潮文庫 P183~P185)
と、よく使われるこの言葉、「やさしい」とは具体的にどうすることなのか考察しています。
一つの言葉。「やさしさ・やさしい」は、自己と他者の双方に志向性を向け使われることです。中西先生は、「あの人はやさしい人だ」相手に志向性を向けた形容詞としての使われ方(性格を表わす表現)の他、「地球にやさしい環境」への使われ方に深い考察を進めています。
「地球にやさしい環境」といったキャッチフレーズも、、本来の意味から探ると、具体的な内容が見えてきます。地球という尊敬すべき相手に対して、人類として恥ずかしくない行いは何かと考えること。つまり、他の動植物の命や環境を尊重するふるまいや生き方を選択し、それに責任をもつこと。それが地球にやさしいということです。(同上書籍)
と語っています。
「やさしい」という言葉のもつ意味は竹内教授、中西先生の考察で足れりとするのか、私はどうしても思考の部屋として考察がまだ足りない気がします。言葉のこのような考察は、分別による面が強くなります。
意味のもつ強さ弱さ、相手への要求、自分への使命等ある面では力の闘争という「弱きものは幸であり、貧しきものは幸である」とルサンチマンのもつ力の意志を闘争の意志、戦いの意志へ変化をもたらせます。
さらに上記の考察を進めると「空間性=すきま」を保つ(安定)はたらきが観えてくる気がします。どうしても「やさ(優)しさ」に視点を置くと「非優」が現われてきます。そこには「空間性」「絶対無」を経ない考察は、分別の世界を離れることができません。
やまと言葉の「やさし」は、非優即優の志向性を持つ言葉です。その点竹内教授は「嘘」という言葉を見いだしましたが、それ以上の考察がないことに欠点があります。それは人のもつ心の不思議をぬきにしているからです。
「嘘も方便」「仏法にも方便」と地獄、あの世の想定の弊害にもつうじることです。これ以上言及しませんが「やまと言葉」は不思議な言葉です。
塩尻市にある曹洞宗興龍寺の古代ハスです。昨年より見に行くのが遅れそろそろ終了です。