思考の部屋

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キリスト教における愛

2009年07月02日 | 仏教

 仏教における愛、、キリスト教における愛についてこのところコメントを受け知識欲は力の意志により増しているようです。

 手元のキリスト教関係の書籍からキリスト教における愛を紹介したいと思います。 

 「愛はキリスト 13章ー7節」から要約します。ギリシャ人は愛を言うとき、四つの言葉でその内容を使い分けました。(1)は、ストルゲー(肉親愛、骨肉の情)であります。親兄弟の愛というものほど日本人によく分かるものはないと思います。つぎに(2)エロース(男女間の自然の愛、恋愛)であります。私たちはいつも上下、比較で物を考えてしまいます。それですから、エロースは本能的愛だから低いものだと考えてしまいますが、「いいなあ」と思う気持ちは人間として大切なものであります。そういうものがなければ、良い結婚はできないと思います。ただし、それだけでは結婚生活は続きません。神学者はエロースを自分にとって価値あるものを愛する、それがエr-スだといいます。(3)フィリア(自然発生的愛、人情、友愛、親愛の情)です。肉親の愛でも男女間の愛でもありません。友人、師弟の愛であります。主キリストもペテロに、私を愛するかと問われました。(4)アガペー、ギリシャ人があまり用いなかった言葉、聖書によって盛んに用いられ手いる言葉です。「愛される価値なきものを愛する愛」と言われます。
(コリント前書の学び 西川は博彬 新教出版社」のP260から)

と四つの愛が説明されています。そしてこれらの愛は次のように組み合わされていきます。

 青年が結婚の選択をするとき、こういうときは、嫌いな人と一緒になる必要はないのであります。一緒にいるのが好ましい人を選びます。ここではエロースが必要です。自分にとって価値あると思われる人を選びとるのです。しかし結婚生活は持続していくとき、お互いの欠点や好ましくない部分が見えてきます。そうなると、エロースだけでは愛は成り立ちません。相手の欠点は自分の欠点であるとして、相手を受け入れてゆくとき、「愛される価値なきものを愛する愛」というアガペーが必要になってくるのであります。愛というものも一本調子の愛はすぐに破れてしまいます。ここはエロ-ス(男女の愛)で、これはアガペー(価値なきものを愛す)で、ここはフィリア(友愛)でと、同じ愛でも、いろいろ経験してゆくところに幸いな結婚生活が成立すると思います。ああ、愛には四つの愛があって、その一番上等なのは価値なきものを愛するアガペーだ、アガペー一点張りでゆく、というのでは、やはり人間の結婚生活は幸いなものにはならないと思います。
(コリント前書の学び 西川は博彬 新教出版社」のP261から)

という説教なのですが、前回既掲ブログにも書きましたがキリスト教におけるアガペーの理解に「目からウロコ」の話しでした。

 これに対し仏教においては「愛」根本から縁起の法から否定のされているのですが、コメントからも教えられたのですが煩悩に現れる「もの」の一つとして理解する上において初期大乗の瑜伽行派の煩悩説から「愛」を紹介します。

 瑜伽行派は、煩悩を根本煩悩と随煩悩に区分し、随煩悩はさらに小随煩悩・中煩悩・大随煩悩に細分化し規定います。 この中で「愛」というものは、根本煩悩の6の「貪」に属しています。
 その根本煩悩の6つとは、
(1)貪(2)瞋(3)慢(4)無明(5)見(6)疑
です。
 「仏教要語基礎知識 水野弘元著 春秋社」にはこの(1)貪について、次のように記載されています。

 貪(Iobha;raga;abhijjha;abhijjha 貪欲)また愛(tana:tanha)も同義語である。欲界の貪欲を欲貪または欲愛といい、色界の貪欲を色貪、無色界の貪欲を無色貪といい、この二つを有愛ともいう。貪欲は好ましき対象に対する愛着である。

 今朝は、以上のとおりキリスト教における愛、瑜伽行派の愛を紹介しました。「愛」まことに深い言葉です。