思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

さらす手作りさらさらに

2009年07月22日 | 古代精神史

写真は、NHK「日めくり万葉集」vo1.7本日付から転載しました。

 けさの日めくり万葉集は、東京都世田谷区立玉堤小学校5年1組の生徒さんが選者で、東歌・武蔵国歌巻14-3373でした。

多摩川に さらす手作(てづく)りさらさらに (なに)そこの児(こ)の ここだ愛(かな)しき

 多摩川にさらさらさらす手織り布、流れで白さが増すように、さらにさらになんでこんなに、この娘がいとしいのか。

 多摩川は万葉仮名で、「多麻河泊(タマガハ)」と書かれ「麻」の字から分かるように麻に関係することを表わしています。

 租庸調という中央政権による地方の支配を強化するために、いろいろな制度を作りました。

 ウィキペディアフリー百科事典には、
調 [編集]
 正丁・次丁・中男(17~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入が基本であり(正調)代わりに地方特産品34品目または貨幣による納入も認められていた。(調雑物)これは中国の制度との大きな違いである。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。 京や畿内では軽減、飛騨では免除された。


正調 [編集]
 調の本体であり、繊維製品をもって納入した。正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。当時において、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別の物とされていた。従って当時の調布とは、麻をはじめ苧・葛などの絹以外の繊維製品を指していた。

と書かれています。

 『東歌・防人歌の鑑賞 信濃教育出版』を書かれた遠藤一雄さんは、次のように解説しています。

 武蔵国多摩地方の生業である織布の手労働から生まれた傑作で「みればみるほど、逢えば逢うほどに、あの子をいや増しにかわいくなるばかり」と歌った男歌。※いや増し=いよいよますます

 「さらす手作り さらさらに」という流麗な調べが一首をいかにも明るい牧歌的歌謡となし、陽光の波にかがよう川原で、若く健康な乙女が、手早に布を曝(さら)すそのしぐさまで髣髴(ほうふつ)させます(当時、布曝しは女の仕事)。
 しかも、「ここだかなしき」と強く結んだ終句には、男のつきせぬ情愛がこもっていて東歌の中でも佳作の一首です。
 
 世田谷区は教育特区として、小学校から週1時間、万葉集などの和歌や俳句、漢詩などを取り入れた「日本語」の授業をやっているそうです。

テキストで屋名池誠慶応義塾大学教授は、

 地図も整備されない時代には、よく知った場所の外には未知の神秘な空間が広がっていたように、われわれの先祖にとっては、ことばも、その果ては見通せない神秘のもやの中に溶け込んでいたはずだ。意味を考えれば縁もゆかりもなさそうなことばが、同じ形をしている---「そんなこと偶然でありえない。われわれにははかり知れないだけで、そうした語には何らかの関係があるにちがいない」。当時の人たちはそう考えていただろう。「さらす」と「さらさらに」---同音の繰り返しはリズミルでこことよいだけではない。そこにはこうした「なんらかの関係」が働いているのである。
先人たちのこうした心性によって、万葉に続く『古今集』の時代には、同音の言葉を前後に並べるだけでなく、重ねて二重に意味を伝える技法を「懸詞(かけことば)」として高度な文学的技法に高められていた。同音であることに神秘を感じる心性は、ずっと後代まで連綿とうけつがれてゆく。歌句を縦・横・斜めに組み合わせ、交点の文字を共有させる「木綿襷(ゆうだすき)」のような、われわれには極端に技巧的な「ことば遊び」としか思われないものが、江戸時代になっても、慶弔の大切な折節に際して、敬虔な気持ちで作られ続けていたのです。

※懸詞:和歌などの修辞の一種で,日本文学独特のもの。同じ音に二つ以上の意味をもたせる表現法。〈花の色は移りにけりな徒に我身世にふるながめせしまに〉で,〈ふる〉は〈経る〉と〈降る〉,〈ながめ〉は〈眺め〉と〈長雨〉の両義をかけている。百科事典マイペディアの用語解説から

※ゆうだすき【〈木綿〉襷】:(枕詞)木綿で作ったたすきを肩にかけることから、「かけて」「かくる」「片岡の神」などにかかる。「―かけてもいふな仇人の葵てふ名はみそぎにぞせし/後撰(夏)」 大辞林 第二版 (三省堂)から

 番組では、教諭による子供の質問に答えながら解説されてゆく姿が映し出され、最後は多摩川の川原でこの歌を詠う子供たちの姿がありました。

 歌の流麗な響きと子供たちの姿などに、こころあらわれる思いがしました。