NHKの「日めくり万葉集」のテキスト8月号が書店に並べられています。教育テレビの月曜日から金曜日までの午前5時から5分間放送され、日曜日の午前6時から5日分の総集編が放送されています。
この歳になると牧歌的になり、このような静かな番組にこころ癒されます。テキストによると8月25日(火曜日)に
信濃道は 今の墾り道刈りばねに 足踏ましむな 沓(くつ)はけ我が背
という東歌が大阪ガス相談役野村明雄さんが選者で放送される予定のようです。
信濃道は、今でいえば信濃路で長野県関係の旅行・観光案内書には「信濃路(しなのじ)」と書かれています。旧国名の方が「旅」のこころが揺さぶられるのは確かで、「長野県を旅する」では、少々力弱く感じます。
長野県はもう一つ「信州」という呼び方もされます。これもまた「信州路」とも書かれ「信濃路」とともに案内書に使われています。
以前長野県を観光地としてのイメージにするため「信州県」としようという話が持ち上がったが、当時の今もそうかもしれませんが、県立博物館長が「公的な文書に信州という名称はない。」と言っていつのまにかこの話も消えてしまいました。
しかしこの博物館長の主張は誤りで、幕末の「東山道赤報隊員」で現佐久市で旧北佐久郡春日村出身の「桜井常五郎」の処刑を記録する小諸藩の公文書に「信州国春日村桜井常五郎」と記載されており、この件については、この「思考の部屋」ブログでも紹介しましたが、「信州国」は公的に使用されていました。
テキストにはこの信濃道について次の鉄野昌弘東京女子大学教授の解説が書かれています。
作者も作歌経緯も記されない東歌の中で、成立時期を推測できる稀な歌である。「信濃道」は、おそらく御坂峠(現在、中央道自動車道恵那山トンネルが下を通る)を越えて、美濃(現岐阜県)信濃へ入る道であろう。和銅6年(713)、12年を費やして完成した「吉蘇路(きそじ)」である。それを今開かれたばかりの道と言うのだから、奈良時代初め頃の歌と定められるのである。
この解説では、簡単に12年の記述があるが、根拠は続日本書紀に
○大宝二年(702)十二月の条「始めて美濃国岐蘇(きそ)山道を開く。」
○和銅六年七月の条「美濃信濃二国の堺は径路険阻にして往還艱難なり、よりて吉蘇路を通ず。」
○和銅七年(714)閏二月の条「その功により、美濃守笠朝臣麻呂をはじめ多くの役人が恩賞にあずかった。」
と記録されていることからこれを根拠にしているものと思われます。
「御坂峠(みさかとうげ)」は、わが国最古の勅撰漢詩集の「凌雲集(りょううんしゅう)」に、坂上忌寸今継(さかのうえのいみきいまつぐ)の「信濃坂を渉る」という、
積石(せきせき)は 千重(せんちょう)峻(けわ)しく 途(みち)危うして九折(きゅうせつ)るに分(わか)る
があり、このことから「信濃坂」とも呼ばれてたという説があります。
凌雲集は弘仁五年(814)頃成立ですので万葉の時代は、信濃国入り口の峠は御坂峠、信濃坂などと呼ばれていたようです。
時代的な考証に必要なのは、当時に思考をおいて、さらにこの歌の場合は視点を足下、そのものズバリ、履物においてみます。
歌には「切り株で足を傷つけないで、靴を履いてください、あなた」と書かれています。靴とは履物のことですが、現代風の靴ではなくおそらく草鞋(わらじ)のようなものであったと思われます。「
それを履いたほうがよい。」とは、「裸足(はだし)」であったから言えるのであって、当時の庶民は裸足が主であったということです。
とても手軽な古語辞典でよく使わせていただいている大修館書店の「古語林」の「くつ【沓】」の絵ですが、このような靴(沓)は庶民にはありませんでした。
もっとも手軽なものは、草鞋(わらじ)ということになると思います。
古代東山道御坂峠からの話から履物の話に視点が移ってしまいましたが、さらに視点を古代人の歩き方においてみます。
現代風の走るなどということは物理的に不可能であることが分かります。当然調布等の税金納入の旅ですから背負い歩かなければなりません。
写真は信濃路出版社の信濃路万葉の道【東山道】に掲載されている信濃道です。このような道を走るわけには行きません。歩きにしても裸足では大変ですが、庶民は履物を履くなどはできませんでした。履いて草鞋でしょう。
旅をするということは命がけで大変だったといいますが、病気もさること歩くだけでも大変なことが分かります。
次に歩くという動作に視点をおいてみます。参考になる本があります。
岩波新書の「日本の耳 小倉 朗著」でこの本は、日本精神史にとっては基本的に知っておいたほうがよい話が数多く掲載されています。
ところで、この歩行を実生活に求めると、水田の歩行がそれである。どろどろとした水田、その中にばしゃりと足を突っ込んだり抜いたりする馬鹿はいない。出きるだけ泥をはねかすまいとする歩行となって、おのずから「泥鰌(ドジョウ)すくい」形になる。
けれども、水田からあがっても、農夫の歩行は、膝のあげさげをそれほどかえることはなく、いわば「すたすた歩き」の歩行をとる。すなわち、後足で「すーっ」と上体を前に押し出して、爪先で土を蹴って地をはなれ、ついで膝をやや高めに保って、足先が宙で半円を画くように前に出し、かかとと足の裏とを殆ど同時に地につけるという歩行である。足を大地からひき離して歩くのは、いうまでもなく、畝(うね)や作物をいためまいとする配慮。そしてまた、「ダッー」と強くおろさずに、軽目にそっとおろすのも、耕した土を踏み固めまいとする心による。(P23・24)
武智鉄二の『伝統の断絶』(風涛社刊)の中で、このような姿勢を「ナンバ」と呼ぶことを知った。今日僕らが用いる手の反動を利用する左右交替の歩行から思うと、一寸意外な姿勢だが、その指摘によれば「ナンバ」は、「農耕生産の基本の姿勢」で、「その半身の姿勢(たとえば鍬を振りあげた形を連想してみればいい)がそのまま歩行体様に移しかえられているのである」という。(P28)
という記述があります。
日本人の能、踊り、農作業の姿勢からの日常的な歩く行為も含めた身のこなしについての話の中の一説です。
さらに視点は足元の指先にいきます。
足の親指に力点をおいた歩き方、草鞋、下駄、ぞうり庶民の足もとには親指に力を入れる履物があります。これが日本人の当時の履物で、親指に力をおいた動きが動作にも影響したことがいえます。
今は、走るにしても、足全体、爪先、かかと、と親指には重点をおきません。親指のいは足のバランスの平均的な力が加わるだけです。
武士階級も基本はここにあります。武智鉄二の『伝統の断絶』からの興味深い引用文にがさらにあります。それは幕末の話です。
「農民を中心とした鎮台兵は、実践ではとうてい旧職業武士軍の敵ではなく、ことに戦いの帰結を決する白兵戦では、全く無能力にちかかった」その重要な欠点は、「集団移動が出来ない。行進ができない。駆け足ができない。突撃ができない。方向転換ができない。匍匐(ほふく)前進ができない」なだなどで、たとえば西南戦争のとき、動員された官軍は、「熊本鎮台のほか七旅団、五万八〇〇〇人に及んだが」、「一万五〇〇〇人の薩摩軍に歯が立たなかった」。明治政府はその対策として、ヨーロッパ式体操と西洋音楽によるリズム教育を義務教育に導入して強兵策をとり、国民の運動や姿勢をかえ、あげくに、伝統的な舞踊や劇の仕種との断絶を招いた、と述べている。(P33)
今は、伝統芸能の保存が行なわれていますが、明治維新における近代化は、人々の歩き方、姿勢に影響を及ぼしてきたわかります。
峠道から話を進めてきました。日本語に「心技体」という言葉があります。西洋思想教育が日本人の心と体と考え方にどのように影響するかを考えるときの参考になると思います。
峠道を見るときいろいろなことが見えてきました。