安曇野平から一望できる常念岳。すっかり雪が融けました。
さて今朝の「日めくり万葉集」は、昨年7月に死去された国語学者の大野晋先生が選者として、万葉歌を紹介していました。東歌巻14-3521
烏とふ 大をそ鳥のまさでにも 来まさぬ君を ころくとそ鳴く
カラスという大まぬけ鳥が、本当にも、おいでになるはずもない君を「ころく」あの児(こ)が来るって鳴いているよ
という一首を先生は選び紹介しました。
特に歌の意味について、また先生のお考えになついて何か言いたいということではないのですが、つくづく思うのは、人とは何かにつけ意味をもたせたくなる動物だなあと思ったことです。
「コロク」今でいえば「カアーカアー」が「児が来る、児が来る(恋人が来る、恋人が来る)」と鳴いているように聞こえる。
ウグイスが「法華経」と鳴くように、この場合は鳥の声ですがそのように意味をもたせています。自分の内や外に起こることに、己が感ずるままに意味を創造する。
人の持つ一つの機能だと思うのですが、自然現象ばかりでなく、身に起きる、身の回りに起きる出来事も意味として苦楽等の感情を持ちます。意味付けるという意味ではどちらも同じではないだろうか、ふとそう思うのです。
起こっていることはそのままなのに、そこに複雑な感覚が重なり、そのままとは異なる意味の感覚、感情に変化して行く。
自分を非難する声を聞き、「あれがまずかったかなあ、あれがいけなかったかなあ。」「別に非難されることではない。」などと思う。これも一つの意味づけではないか。
そのように考えると、人は意味づけの連続で毎日を生きているのではないか。「非難」を受けたことを主題にすれば、それは反省、悔悟にもなり、また反対に攻撃、反撃の感情の意味づけにもなる。
意味づけを意識してばかりいると病気にもなるが、しかし時には、今おかれている立場を考えればしっかり意味づけを行なう必要があるのではないか。
世の中どうも意味づけを忘れた人が多すぎるような気がします。