道元さんの正法眼蔵の「有時」の一部に
「ある草も、ある現象も、みな時である。そして、それぞれの時に、すべての存在、すべての世界がこめられているのである。ときには、いまの時にもれる存在や世界があるかないかと考えるのもよかろう(正法眼蔵 増谷文雄 講談社学術文庫P255)。」
「いはゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず(道元住光子NHKブックP90)。」
「要をとって云えば、全世界にあるところの全存在は、連なりながら時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって我が実存はときである、吾有時である(正法眼蔵(2)石井恭二河出書房新社P140。」
の言葉があります。二冊の本から抜粋したのは訳の響きがとてもいいからです。
河出恭二先生は、「吾有時」について、このような注釈を書いています。
ハイデガーは「存在と時間」「現存在の分析論の主題」で次のように述べている。
「現存在(Daseinの<本質>はその実在Existenzのうちにひそんでいる。したがって、この存在者のもとでは、あれこれ具体的な、<形姿をとって>現前する<固有性>ではなく、この存在者がそのつど存在しうる仕方、それのみが明らかになるのである。」・・・・「この存在者にとって、自身の存在においてもんだいとなっている存在とは、そのつど自分自身の存在である。」
ものを見るにつけ、ものを考えるにつけ特に気にはしないことだが、天才と思われる人々は、ふと「存在」に疑念を抱くようです。「なぜ私があるのか」「なぜ私は今そのようなことを考えているのか」ととめどなくその存在する「われ」が気になるようです。
ウィトゲンシュタインは「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、<存在者が存在する>という驚異のなかの驚異を経験するのである。」とハイデガーに共感しこのような言葉を『形而上学とはなにか』という書籍の後書きに書いているそうです(ハイデガーの思想 木田元 岩波新書P80)。
ハイデガーの「存在と時間」という書籍は未完ではあるが、木田先生は<存在とは何か>という問いこそ西洋哲学を貫く根本問題だというのがハイデガー言わんとしたところではないかと言っています(上記書)。
「存在の謎」「存在了解」、時に人は、足下が地にしっかり「ある」ことに気がつく必要があるようです。最近の時勢を見ていると浮き草のような人がとても目立つような気がします。
今日は、昨年の今頃の写真です。梅雨がなかなかあけませんが、時々見える常念岳にはまだ雪が残っています。
「ある草も、ある現象も、みな時である。そして、それぞれの時に、すべての存在、すべての世界がこめられているのである。ときには、いまの時にもれる存在や世界があるかないかと考えるのもよかろう(正法眼蔵 増谷文雄 講談社学術文庫P255)。」
「いはゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず(道元住光子NHKブックP90)。」
「要をとって云えば、全世界にあるところの全存在は、連なりながら時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって我が実存はときである、吾有時である(正法眼蔵(2)石井恭二河出書房新社P140。」
の言葉があります。二冊の本から抜粋したのは訳の響きがとてもいいからです。
河出恭二先生は、「吾有時」について、このような注釈を書いています。
ハイデガーは「存在と時間」「現存在の分析論の主題」で次のように述べている。
「現存在(Daseinの<本質>はその実在Existenzのうちにひそんでいる。したがって、この存在者のもとでは、あれこれ具体的な、<形姿をとって>現前する<固有性>ではなく、この存在者がそのつど存在しうる仕方、それのみが明らかになるのである。」・・・・「この存在者にとって、自身の存在においてもんだいとなっている存在とは、そのつど自分自身の存在である。」
ものを見るにつけ、ものを考えるにつけ特に気にはしないことだが、天才と思われる人々は、ふと「存在」に疑念を抱くようです。「なぜ私があるのか」「なぜ私は今そのようなことを考えているのか」ととめどなくその存在する「われ」が気になるようです。
ウィトゲンシュタインは「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、<存在者が存在する>という驚異のなかの驚異を経験するのである。」とハイデガーに共感しこのような言葉を『形而上学とはなにか』という書籍の後書きに書いているそうです(ハイデガーの思想 木田元 岩波新書P80)。
ハイデガーの「存在と時間」という書籍は未完ではあるが、木田先生は<存在とは何か>という問いこそ西洋哲学を貫く根本問題だというのがハイデガー言わんとしたところではないかと言っています(上記書)。
「存在の謎」「存在了解」、時に人は、足下が地にしっかり「ある」ことに気がつく必要があるようです。最近の時勢を見ていると浮き草のような人がとても目立つような気がします。
今日は、昨年の今頃の写真です。梅雨がなかなかあけませんが、時々見える常念岳にはまだ雪が残っています。