思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

信州古代の馬について

2009年07月25日 | 歴史

写真は、信濃毎日新聞社発行の「信州 馬の歴史 信州馬事研究会編」の本表紙です。今回はこの本を中心に参照掲出しました。 

 『和漢三才図会』に「安閑天皇の御代(530年代)に馬を望月の牧と霧原の牧に放牧した。」旨が記されています。

 「望月の牧」とは現在の佐久市の望月の東部、東御市の旧北御牧村の御牧ヶ原台地と推定されています。

 望月は、旧望月町でここには大伴神社があり、台地の南には渡来系神社である駒方神社があります。

 台地周辺には須恵土器が多く出土し、台地の東側を流れる千曲川を挟んだ東御市和(かのう)地区には爪工部という渡来系部民が定住していたことが、資料等から明らかにされています。

 「霧原の牧」については、諸説がありますが旧木曽郡神坂(みさか)村の湯船沢地籍とするのが妥当だろうと思います。
 
いずれにしても信濃国は、六世紀初め頃には馬の生産地であったことは事実であったようです。

 軍馬としての馬の生産と共に重要なことは、馬具についてです。古墳時代には墳墓から馬とともに多くの金属でできた馬具が出土しています。


 馬具が古墳の副葬品として一般化するのは、竪穴式石室が造られる古墳時代後期になってからのようです。須恵器と馬具の副葬は後期の葬送儀礼で、この風習と馬具の多様化は騎馬の普遍性を物語っています。また、馬具の多様化がみられ六世紀になると戦乱などがあって馬具の需要が増えたためと考えられます。(上記信州の馬の歴史参照)

 馬具と簡単に思ってしまいますが、技術が必要です。それ以前に鉄の原料が必要ですし、また加工の技術が確立していなければなりません。

 原料はどこから調達したか、鉄鋼への還元技術はどのようにしていたか等大きな問題が横たわっています。御坂峠を入り飯田市の古墳群地帯に駐屯している大和軍。飯田市を流れる天竜川には砂鉄が見られません。千曲川の流れる佐久の古墳群地帯。千曲川には今も砂鉄を見ることができます。

今後の出土と古代鉄研究に成果に期待したいところです。


仰天ニュースから

2009年07月25日 | こころの時代

 写真は、長野県精神保健福祉センター発行のパンフレット表紙です。 

 7月22日の仰天ニュースで「アスペルガー症候群」についての番組が放送されました。最近「知的障害・発達障害の理解」ということで講習会に参加していましたの「アスペルガー症候群」の患者さんの実際を見ることができ理解度を深めることができました。

 発達障害者支援法は、平成17年4月に施行され、今まで障害とみなされなかった、知的障害のない「発達障害」にも、支援が必要であることが明らかにされましたが一般の方に周知されるにはかなり時間がかかりそうです。

 番組の中で、1億人当り50万から60万人の方がおられるとの専門家のお話がありました。発達障害の理解が足りないと「変人」「異常者」などと差別的行為や思いがけないトラブルに遭遇する可能性もあり行政を中心にした周知徹底の活動が叫ばれるところです。

 テレビ番組でも、「理解」という点に重点をおいた番組構成で時々取り組んでいるようですので、今回の「仰天ニュース」という視聴率という点ではかなりの方が見ておられたのではないかと思われます。

 「発達障害」とは、さまざまな能力の発達に偏りがあり、従来の「知的障害」という枠だけでは支援対象になりにくい方で、主に「自閉症」今回の「アスペルガー症候群」「注意欠陥多動性障害」「学習障害」等をいいます。

 広汎性(こうはんせい)発達障害というといった場合は、「自閉症」と「アスペルガー症候群」が含まれ、知的障害とは上記の関係にあるのですが「自閉症」の場合は一部知的障害が含まれる場合があります。

 アスペルガー症候群は、2004年の厚生労働省資料では、

○コミュケーションの障害
○対人関係・社会性の障害
○パターン化した行動、こだわり
○不器用(言語発達に比べ)

と抽象的ですが、説明され、自閉症やアスペルガー症候群への支援の基本として、次の点を理解しておくことが大事です。

・耳からの理解よりも、目で見ることのほうが得意です。
 文字や絵で伝えるとわかりやすい。
・初めての場面やなれない行動は苦手です、前もって、やることやスケジュールを伝えて 安心感をもってるようにする。

 発達障害者の苦手な点についての説明が足りませんので、少し具体的に講習を受けた内容で紹介したいと思います。

○心・・・相手の心が読めない。
○空気・・・場の空気がよめない(いわゆるKY)
 学者のような言い回しで、一人で自分の興味を一方的に話す。
○メタメッセージ・・・言葉の言外の意味することがわからない。(表情・身振りに鈍
感)、言葉を言葉通り受け取ってしまう。(思ったとおりに口にする。例え話を本当にする)
○「人・人間」を喜怒哀楽を持った、生き物という時間が持ちづらいために、人を「物」的に扱ってしまうことがある。
○デジタル・アナログ・・・デジタル的処理は得意だが、アナログ的世界は苦手。
 
 仰天ニュースでは、夫婦間の会話が印象的でした。
 夫・・・今夜は飲み会があるので帰りは遅くなるよ。
と言って出勤するが、妻は夕食を作る。

 本来は暗黙の了解で、夫の話には「夕食はいらないよ。」という話が含まれるがアスペルガー症候群の妻には理解できない。
 解決法は、夫が「今夜は飲み会があるので、帰りは遅くなるし、夕食は入らないよ。」と具体的に言うことが重要となります

また番組では、妻からの夫への注文がありました。
 妻・・・わたしに何をしてもらいたいのか、具体的に話してもらいたい。
 夫・・・僕が帰宅したときに、笑顔で迎えてもらいたい。(※障害者の方の中には無表情、感情に関係がなくいつも笑顔等の症状があります。)
 夫・・・部屋の中が整理整頓されていること。(※障害者の方の中には整理整頓が苦手な方がおられます。)

以上対応も含めた話を掲載しました。発達障害でも上記は軽度の場合です。軽度の発達障害者は、発達障害者100人に対し6.3人という話でした。

  発達障害者は、知能指数とはあまり関係がありません。講習会では、優秀大学にも進学できるほど能力の高い人も多いという話でした。


ヤマトタケルと東国等について

2009年07月25日 | 歴史

 昨日のブログにコメントがありました。最近はあまり古代史の研究をしていない古い参考し概略ですがアップしました。

1 ヤマトタケルについて
 大和政権の東征というとヤマトタケルとその後の坂上田村麻呂の二つが大きく伝承及び歴史書に出てきます。

 古事記・日本書紀にはヤマトタケルの東征経路が記述されています。信濃古代文化研究発行の『信濃古代史の中の人々 松崎岩夫』に東征地図があるので参考使用しました。この本は信濃の古代史を研究する上において欠かせない貴重な研究書です。



上記の筆者は碓氷峠を信濃坂と推定していますが、信濃国の入り口をどちらにするかで異なる訳ですが、「凌雲集」は後の時代ですから入り口はヤマトタケルと異なると思われ、昨日のように御坂峠が信濃坂であると思います。


 ヤマトタケルというと「白鳥伝説」となります。各地に白鳥神社という祭神「ヤマトタケル(倭建命・日本武尊)である神社があります。

 神社の祭神研究は土地の古代史を研究する上においてとても重要なことで、その土地の神社がどのような神を祭神としているかによってある程度の歴史推測が成り立ちます。

 このことについて論及すると論文が書けてしまいますのやめますがなかなか楽しい研究課題です。さて、ヤマトタケルが祭神とされている神社について上記の『信濃古代史の人々』に各県の調査結果があるので参考に引用します。

日本武尊が祭神に入っている神社数(上書P36・35から抜粋)
①愛知県23
②千葉県16
③山梨県・埼玉県14
④神奈川県11
⑤静岡県・岐阜県10
⑥群馬県・茨城県9
⑦宮城県8
⑧長野県・栃木県・石川県7
⑨福島県6
⑩佐賀県5
⑪福岡県・山形県4
以下略


この本も中世とのつながりにおいて参考になります。


 白鳥伝説については、『白鳥伝説 谷川健一著 集英社』がとても参考になります。おびに「ヤマト政権成立以前に存在したヒノモトの国、東国に散在する白鳥の人名・地名が蝦夷との関係で参考になります。


2 古代の道
 縄文・弥生における鏃の研究において信濃の和田峠(県のほぼ中央)産出の黒曜石が信濃以外の地から出土しています。間違いなく道の存在があったわけで信濃路の古代東山道は、現在発掘等の調査もされ明らかになりつつあります。一部では年代によりコースの変更はあるもののほぼ完成したのが714年頃のようです。

 日本列島からの人々の流入は、大陸との分離後は、渡海による上陸、河川を利用した奥地への進出、その後の最短距離の確立による道の定型化で各地に人が住み着いていったと思われます。

3 古墳時代の関東地方と奈良盆地とを結ぶ道
 今は古代史研究はしていませんので、新しい書籍は知りませんが金沢大学教授の森田悌先生の『古代東国と大和政権 新人物往来社』『古代の武蔵』が関東と大和との関係を考察するにはとても参考になると思います。



 埼玉県行田市のの稲荷山古墳の辛亥銘鉄剣、関東における物部・大伴部の存在力関係、東国の駅路等大いに参考になります。上記の古代の道にもつながりますが、武蔵国の古代道について坂本太郎説、小野文雄説を掲載し考察されており、参考に私案(森田説)を転写拝借しました。


4 大伴氏、久米氏、丸子部
  大和政権の軍部は大伴氏を中心に進められ地名及び祭神研究をすると何かが見えてきます。信濃国、武蔵国における大伴氏の動き。大伴、久米、丸子部の民は当然東北東征に関係して行くわけです。

5 拠点駐屯地の設営
  東征も一度に一気におこなわれたものではなく拠点・駐屯地の設営があったわけで、その根拠が古墳の数であり、墳墓から出土する馬、馬具、鉄剣類になります(防人の軽減も含め次回のブログで)。