写真は、信濃毎日新聞社発行の「信州 馬の歴史 信州馬事研究会編」の本表紙です。今回はこの本を中心に参照掲出しました。
『和漢三才図会』に「安閑天皇の御代(530年代)に馬を望月の牧と霧原の牧に放牧した。」旨が記されています。
「望月の牧」とは現在の佐久市の望月の東部、東御市の旧北御牧村の御牧ヶ原台地と推定されています。
望月は、旧望月町でここには大伴神社があり、台地の南には渡来系神社である駒方神社があります。
台地周辺には須恵土器が多く出土し、台地の東側を流れる千曲川を挟んだ東御市和(かのう)地区には爪工部という渡来系部民が定住していたことが、資料等から明らかにされています。
「霧原の牧」については、諸説がありますが旧木曽郡神坂(みさか)村の湯船沢地籍とするのが妥当だろうと思います。
いずれにしても信濃国は、六世紀初め頃には馬の生産地であったことは事実であったようです。
軍馬としての馬の生産と共に重要なことは、馬具についてです。古墳時代には墳墓から馬とともに多くの金属でできた馬具が出土しています。
馬具が古墳の副葬品として一般化するのは、竪穴式石室が造られる古墳時代後期になってからのようです。須恵器と馬具の副葬は後期の葬送儀礼で、この風習と馬具の多様化は騎馬の普遍性を物語っています。また、馬具の多様化がみられ六世紀になると戦乱などがあって馬具の需要が増えたためと考えられます。(上記信州の馬の歴史参照)
馬具と簡単に思ってしまいますが、技術が必要です。それ以前に鉄の原料が必要ですし、また加工の技術が確立していなければなりません。
原料はどこから調達したか、鉄鋼への還元技術はどのようにしていたか等大きな問題が横たわっています。御坂峠を入り飯田市の古墳群地帯に駐屯している大和軍。飯田市を流れる天竜川には砂鉄が見られません。千曲川の流れる佐久の古墳群地帯。千曲川には今も砂鉄を見ることができます。
今後の出土と古代鉄研究に成果に期待したいところです。