
世の中には不思議なことがあるもので、共時性という減少があります、偶然という現象で、「偶然は偶然ではない」というC・G・ユングの世界の話です。
そのような現象に意味を求めようとなると、大変難しくなってしまいますが、そういうこともあり、何か示唆するものではないか、とどちらかというといわゆるプラス思考で自分のものにする方が得策に私自身は思っています。
何がわが身に起こったかといいますと、パスカルの「神の存在と意思決定」という話で、昨朝のブログで神の存在に対する有名な「パスカルの賭け」を引用しました。
この「パスカルの賭け」についてなのですが、5月8(土曜日)松本市内で開かれた信州岩波講座で経済評論家内橋克人先生と小説家の加賀乙彦先生の講演会がありました。私はちょうどその時間帯に哲学の会がありそれと重なりこの講演会を聞くことができませんでした。
非常に残念に思っていたところ、この岩波講座の内容が、昨日の信毎(信濃毎日新聞社)に掲載されていました。そこには「加賀乙彦さん講演要旨」が掲載されて、その加賀先生のお話の中に「パスカルの賭け」が掲載されていた訳です。
昨日の朝刊ですからブログを書くにあたり朝刊に目を通せば知り得る機会があったのですが、その日は不思議に読んでいませんでした。
今朝はその不思議な共時性もあり、この「パスカルの賭け」を別の視点から読みとる加賀先生の話を、信毎の中からその部分だけ紹介します。
人間の一生は長い。「老年と死」は大切な問題です。パスカルは「パンセ」でこんなことを書いてます。
人間は死んだら天国に行くのか、それとも地獄に行くのか、それとも何も起こらないのか。私は答えられない。しかし、私は天国がありそうな気がする、もしあるとして死んだらまだ先があっておもしろい人生がつながっていくのだし、その方がいいと思う。そこでいろいろ考えた末「賭け」をすることにしたと。
死んだら地獄に行って責め苦を受け浮かばれないと毎日悲観するよりも、私は悪いことをしていないし天国に行くと賭けた方が、安心だし、面白いし、人生が豊かになる。これが「パスカルの賭け」という話です。
「不幸な時代の幸福論」という講演会で語られた言葉です。連日知らされる死体遺棄事件や殺人事件。何かおかしい社会が見えます。また自殺者(自死者)が3万人を超えたということです。
われわれ庶民をバカにしています。いうことが、お手軽すぎます。
ニーチェではないが、最悪の生の情況においてもなお生きることができて、最悪の死に方でもなお入滅涅槃できる思考と出会いたいと思っています。
われわれ日本人は、「天国があるような気がする」などというようなおちゃらけたイメージを持てるような民族ではないと思っています。
天国(浄土)という概念をわれわれがすでに持ってしまっていることをひとまず受け入れ、その上で、自分は天国(浄土)には行けないと思い定めてもなお入滅涅槃できる思考を日本列島の住民は模索してきたのだろうと思っています。
一休や良寛や道元や親鸞や一遍や最澄は、そういうところから登場してきたのだろうと思っています。
パスカルのパンセ然りで、視点のおき方で何を心の中においているかで、照らし出されるものが異なります。
ちょっと違う話になりますが、カントを読んでいるとどうしてもヘーゲルが次にきます。この人が面白い人生が面白い、哲学は難しいが、人妻に私生児を産ませたり、倫理、道徳なんかと言ってもいいのかと思うと、そうじゃないんだなあ~。面白い。すごい。
返事になっていないと思いますが直観で書きました。
それにしても最近つまらないコメントが多く当面この状態にしています。