茂木健一郎先生は、本をたくさん出される。わたしのような貧乏人にはきつい現実である。しかしやむに止まれぬやまと魂ではないが、本題を見ただけで惹かれてしまう。
2月に「今、ここからすべての場所へ 筑摩書房」が出版されている。「森羅万象が輝きはじめる。祈りのようなエッセイ集」などとかかれていると2000円ほどがわが身を離れてゆく。
脳科学がさらに進めば、「意識の相対性理論が完成した暁には、人間の意識を生み出し、やがて解消する原子のネットワークの本性があきらかになるだろう。」と先生はいう。そして、
「わたしという意識の絶対性から離れた時に見えてくるものは、あるものの死が次の世代の生のために様々な物を残していくことを意味する豊穣な図式である。宇宙という物質の生態系の多様性は、間違いなくその構成員の生と死のサイクルによって支えられている。宇宙全体のビックバーンによる誕生からビッグクランチ(宇宙の最後に来る可能性のある、全ての物質が一つの特異点に凝縮していく終焉)による死へのサイクルについてさえ、同じような事がいえるのではないだろうか?」
とも言っている。
人間時には、覚めた目で現実を見つめることや、視点を大きく変えることが必要である。
昨夜松本サリン事件の被害者で、元長野県公安委員の河野義行さんの経過15年のドキュメンタリー番組を見た。
昨夜のうちにそのときの感想を掲出したが、今朝あらためて思うに、河野さんは宗教の世界を超えた人のようにみえる。
朝のニュース番組を見ると「地方自治・選挙」「マイケルの死」・・・世の中には「何がこれによって広がるのだろう」「出来事は流れの中で、相依(あいよ)りてどのように行(ゆ)きつつ、何を求めているのだろう」と思う。
素粒子の世界における「神の手抜き」と称される動的な現象が、全ての始まり。それは「なぜなぜなぜ」なのである。
ある人の信仰や信心は、イニシエーションとして人格性の向上に、ある意味では「善」に止揚しているのであろうか。
「愚かさ」の気づきにない者が、「愚かさ」の導きによって「愚かな」答えを出してしまう。
「ニーチェの超人思想には、ルサンチマンを生む人間の弱さを乗り越えるような強い人間たろうとするニュアンスがある(竹田青嗣)。」という視点を変えることは重要ではないだろうか。
「力の意思」ある面では、人は強烈なエネルギーの産物である。肉体的な弱さ、精神的な弱さは負の思考ともいえないだろうか。
死に行(ゆ)く人の「死後の世界に残した物」に「力の意思」感ずることがある。言葉として残したもの、行(おこな)いとして残したもの。よりよいものを「死後の世界」に残したいものです。