Sightsong

自縄自縛日記

キース・ティペット@新宿ピットイン

2013-03-17 23:22:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ピットインで、キース・ティペットのソロピアノを聴く。

定刻の20時きっかりに開始した。最初は、抑えめの抒情的なブルース。やがて、得意の低音の繰り返しを基調とした盛り上がりがあったり、まるで童歌のようなメロディーがあったり。

やはり、トレードマークのようなプリペアド・ピアノが効果的で、木のブロックや、でんでん太鼓のようなものや、オルゴールといったものを、弦の上に置き、すばやく移動させていた。ヒンドゥー寺院や曼荼羅が空間の埋め尽くしなのだとすれば、このプリパレーションによるノイズは、時間と意識の埋め尽くしのように思えた。

たいへんな緊張感が続き、きっかり1時間ののち、鍵盤を撫でるようにして演奏を終えた。そして、アンコールに応えて短い曲。素晴らしいパフォーマンスだった。

ツイードのジャケットをスタイリッシュに着こなし、観客とのコミュニケーションについて感謝のことばを述べるティペットは、やはり、英国紳士なのだった。声をかけてサインをいただくとき、1997年に観たことを云うと、「妻(ジュリー・ティペット)との共演か?」と訊かれた。いや、ソロだったのだが、別公演では一緒のステージだったのかどうか、まったく覚えていない。


演奏後、ティペットにサインをいただいた

●参照
キース・ティペットのソロピアノ
キース・ティペット『Ovary Lodge』


キース・ティペットのソロピアノ

2013-03-17 11:29:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

今晩、キース・ティペットのソロピアノを聴きに行く。何しろ1997年以来である。

1997年。法政大学でのパフォーマンスは素晴らしく、観客は皆興奮してアンコールの拍手を繰り返した。いちどは応えて短いソロを弾いたティペットだったが、二度目には、「ありがとう。しかしわたしはこのように老いた男だ」と誠実に言って、挨拶だけにとどめた。

しかし、そのとき、まだ50歳なのだった。いまは65歳。新宿ピットインで、どのような演奏を見せてくれるのか、楽しみである。

そんなわけで、期待しながら、手持ちのソロピアノを棚から出して聴く。

『Une Croix Dans L'Ocean』(Victo、1994年)は、非常に内省的なソロである。静かに、音と音との間をとり、考えながら即興を繰り出してくる。勿論、そのまま眠くなるようなソロではない。46分、休みはない。

『Friday the 13th』(NRL、1997年)は、その初来日時の仙台における記録である。法政大学より前だったか後だったか覚えていない。ここでは、打って変わって激しい轟音のようなソロを見せる。やはり1本勝負。

『Mujician I』(FMP、1981年)と『Mujician II』(FMP、1986年)との2 in 1盤は少し遡るが、10-20分の演奏それぞれがバラエティに富んだ大傑作だと思う(C.W.ニコル氏が、ティペットの音楽のことを「音楽曼荼羅」だと表現しており、言い得て妙である)。特に冒頭曲の「All Time, All Time」の迫力たるや凄まじいものがあり、絶え間ない低音の基調をベースに、その表情が次第に変っていく過程が素晴らしい。

今日はどのような演奏だろう。やはりプリペアドなのだろうか。

●参照
キース・ティペット『Ovary Lodge』


『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』

2013-03-16 21:53:12 | 政治

NNNドキュメント'13」枠で放送された『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』(2013/2/14放送)(>> リンク)を観る。

1972年、連合赤軍あさま山荘事件。その前に、彼らは「総括」と称し、ただ、武装闘争の純粋性を求めて、仲間12人を殺害した。

番組では、主犯のひとりとして逮捕され、懲役20年の刑を受けた植垣康博氏の現在の姿を、中心に据えている。氏は、ディレクターに誘われ、事件の現場となった群馬県沼田市の迦葉山(かしょうざん)を再訪する。もはや氏も64歳、汗だくになって雪のなかを歩き、「迦葉ベース」が設けられた場所まで辿りつく。いや、20代だったからといって、そのような場所で大勢が寝泊まりできる小屋を作り、特訓するなど、ただごとではなかっただろう。

パトリシア・スタインホフ死へのイデオロギー・日本赤軍派』において書かれたような、「間違ってはいたが、真摯に社会にぶつかった人々」への視線を棄ててはいけないのだろうと思う。勿論、まともではない。真摯に革命の実現を希求していたことなど、理由にはならない。いま表現するならカルトである。しかし、カルトという安易な言葉で片付けてしまうべきではない。

ところが、番組では、すべてを「狂気」という言葉で、この歴史や、生き残る人物を、曖昧なプールに沈めてしまっている。それどころか、ディレクター自ら、「酔った勢い」で、植垣氏に正直な疑問をぶつける場面を、入れてしまっている。本人の言葉遣いは呂律が回らないものだが、ドキュメンタリーそのものまで呂律が回らないものになっているのだ。

これでは駄目だろうと思う。せめて、曖昧なプールを言語化する懸命な努力をしなければならないのだと思う。

また、永田洋子への言及がわずかになされただけであり、永田とともに総括を主導した森恒夫に関する言及はまったくない。坂口弘『あさま山荘1972』では、本人の悔恨とともに、このふたりへの怒りが綴られている。それさえもなく、全体を居酒屋の浪花節にしてはならないのではないか。 

●参照
『田原総一朗の遺言2012』(『永田洋子 その愛 その革命 その・・・』)

●NNNドキュメント
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013年)
『沖縄からの手紙』(2012年)
『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
『鉄条網とアメとムチ』(2011年)、『基地の町に生きて』(2008年)
『風の民、練塀の町』(2010年)
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
『毒ガスは去ったが』(1971年)、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)
『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)


アリス・コルトレーン『Universal Consciousness』、『Lord of Lords』

2013-03-16 11:19:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

またもアリス・コルトレーンの2 in 1盤で、『Universal Consciousness』(impulse!、1971年)、『Lord of Lords』(impulse!、1972年)を聴く。

『Universal Consciousness』
Alice Coltrane (org, harp)
Jimmy Garrison (b)
Jack DeJohnette (ds)
Rashied Ali (ds, wind chimes)
Clifford Jarvis (ds, bells, perc)
John Blair, Leroy Jenkins, Julius Brand, Joan Kalisch (vl)
Tulsi (tamboura)
with strings

『Lord of Lords』
Alice Coltrane (p, org, harp, tympani, perc)
Charlie Haden (b)
Ben Riley (ds, perc)
with orchestra

『Universal Consciousness』は、翌年の『World Galaxy』と同様のウィズ・ストリングス盤。

曲によってドラマーが交替する面白さがあり、わたしにはやはり、ラシッド・アリとの2曲がもっともエキサイティングである(そのうち1曲のタイトルは「Battle of Armageddon」という大袈裟なものだが、他の曲のタイトルも負けず劣らず大袈裟)。どうもジャック・デジョネットが昔から少し苦手で、突き抜けないドラムスが、「苦しみながら寸止めにしている人」を想像してしまうのだ。

それにしても、アリスの世界と、切迫感が溢れるストリングスとの相性が良い。曲によって入ってくるタンブーラの音色も効果的。

『Lord of Lords』は、それに比べると、どうもパッとしない。オーケストラのせいかな。ストラヴィンスキーの「火の鳥」演奏なんか面白いんだけど。

●参照
アリス・コルトレーン『Huntington Ashram Monastery』、『World Galaxy』
藤岡靖洋『コルトレーン』、ジョン・コルトレーン『Ascension』
ラシッド・アリとテナーサックスとのデュオ(コルトレーンとの『Interstellar Space』)
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』


松本清張『点と線』と小林恒夫『点と線』

2013-03-16 00:10:15 | 九州

恥ずかしながら、初めて、松本清張『点と線』(新潮文庫、原著1958年)を読む。

福岡市香椎の海岸で「情死」した男女。官僚と料亭の女中であった。福岡署の古参刑事と警視庁の若い刑事は、出来過ぎた事件に違和感を覚え、執拗な捜査を続ける。同時に、男が働いていた「××省」では、業者との不正癒着事件が起きていた。

物語のはじめから、怪しい奴は、「××省」出入りの機械業者であることはわかっている。彼が福岡で人を殺めるには、同時期に北海道に出張していたというアリバイを崩さなければならない。その謎解きが、この小説の醍醐味である。

もう半世紀以上も前の時代設定ゆえ、このミステリーよりも、感覚のギャップのほうが面白い。

時刻表とにらめっこする鉄道の時代。東海道新幹線開業(1964年)の前であり、東京から九州や北海道へ行くにもひたすら長い時間を要した。青函連絡船もあった。飛行機は、メジャーな乗り物ではなかった。

役所と業者との癒着も、今とは比べものにならないほど大っぴらだったのだろう。「二号さん」だって、もはやありえない。

ついでに、録画しておいた映画、小林恒夫『点と線』(1958年)を観る。

小説が出版されたのと同年に作られたものであり、そのためか、粗雑にさえ思えるつくりである。もとよりたった85分間で、ひとつひとつのディテールを潰していくような面白さを創出できるわけがない。

嬉しい点は、志村喬加藤嘉の渋い演技だけ。

●参照
松本清張『ゼロの焦点』と犬童一心『ゼロの焦点』


アリス・コルトレーン『Huntington Ashram Monastery』、『World Galaxy』

2013-03-15 10:49:47 | アヴァンギャルド・ジャズ

アリス・コルトレーンの2 in 1盤で、『Huntington Ashram Monastery』(impulse!、1969年)、『World Galaxy』(impulse!、1972年)を聴く。

『Huntington Ashram Monastery』
Alice Coltrane (harp, p)
Ron Carter (b)
Rashied Ali (ds, perc)

『World Galaxy』
Alice Coltrane (p, org, harp, tamboura, perc)
Frank Lowe (sax, perc)
Reggie Workman (b)
Ben Riley (ds)
Swami Satchidananda (voice)
Leroy Jenkins (vl)
String section arranged by Alice Coltrane

『Huntington Ashram Monastery』はアリス初期のトリオ作。掻きならすハープも、結構まともなピアノも悪くない。ラシッド・アリの絡みついて登りつめるようなドラムスも、いつものことながら良い。

インパクトが大きい作品は、『World Galaxy』である。

冒頭曲は「My Favorite Things」。これがまたカッコ良い。アリスのオルガンに、焦燥感を覚えるスピードのレジー・ワークマンによるベース(やっぱり、前の盤におけるロン・カーターのたるんだ音とは段違い)。オルガンは、盛り上がるストリングスの中を走っていく。最後のクライマックスでの「ぎゅわわ~」音を、ついつい何度も聴いてしまう。

そして極めつけが、最後を締めくくる「A Love Supreme」。勿論、夫ジョンの名曲なのではあるが、そこで打ち出された精神性を、ここではヤバい領域にまで持ち上げる。

まずは、スワミ・サッチダナンダというヨガ行者により、「Love! Love is a sacred word! Love is the name of God!」などという朗読がなされる。60年代から、米国においては、インド哲学やヨーガなど東洋への憧憬が高まり、ビート詩人たちの活躍もその流れの中にあった。スワミは、ニューヨークで伝導活動を行っていたのである。アリスの作品群は、そのような東洋哲学や宗教への傾倒とは切り離せない。

ヤバいなどと言っておきながら実はこれもなかなか良い演奏なのだ。スワミの朗読後、アリスのオルガンによるテーマ曲演奏がおもむろに始まり、やがて、フランク・ロウのサックスがめきょめきょという感覚で突入してくる。実はこれまで聴いたことのあるヴァージョンは、インパルス・レーベルのコンピレーション盤に収録された編集版だけで(それで、このアルバムは買わずにおこうと怖れていた)、ロウのソロはカットされていた。しかし、大きな聴きどころのひとつはロウなのである。勿体ないことをした。

●参照
藤岡靖洋『コルトレーン』、ジョン・コルトレーン『Ascension』
ラシッド・アリとテナーサックスとのデュオ(コルトレーンとの『Interstellar Space』)
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』


フィリップ・K・ディック『空間亀裂』

2013-03-13 00:12:29 | 北米

フィリップ・K・ディック『空間亀裂』(創元SF文庫、原著1966年)を読む。

近未来。ある医師が使う超高速移動機の修理中に、代理店は、内部の亀裂を見つける。くぐって入ってみると、そこは大量移住ができそうな別世界。実は、パラレル・ワールドの地球だった。そこでは、ホモ・サピエンスではなく、北京原人が進化を遂げていた。

米国初の黒人大統領。売春が自由にできる人工衛星。「シャム双生児」。臓器売買。人種差別。

何だか出鱈目に、思いつきそのものじゃないかと確信できるほど、さまざまな要素が詰め込まれている。しかも、支離滅裂に、唐突に、脈絡なく。ストーリーは最後に慌てたように急展開する。何だこれは。

世評は低いらしい。それももっともである。(実は面白かったが。)

●参照
フィリップ・K・ディック『ヴァリス』
フィリップ・K・ディックの『ゴールデン・マン』と映画『NEXT』


馮小剛『一九四二』

2013-03-10 08:19:41 | 中国・台湾

馮小剛『一九四二』(2012年)を観る。

昨年中国で公開されたばかりの映画だが、既にDVD化されている(中国ではいつも早い)。写真家の海原修平さんが紹介されていて(>> リンク)、観たがっていると、先日買ってきてくださった。(ありがとうございます。)

1942年、河南省。戦時中であることに加え、大変な飢饉が襲い、住民たちは食うや食わざるやの生活に陥る。食糧を求めて、互いに争い、娘を売り、飼い猫やロバを殺し、それでも次々に命を落としていく。多くの者は難民となり、極寒のなか、隣りの陝西省へと歩いていく。まさに地獄絵である。

故郷からの移動のとき、ユダヤ人の歴史と重ね合わせるように、同じ馮小剛(フォン・シャオガン)の『戦場のレクイエム』(2007年)(>> リンク)にも登場していた張涵予(チャン・ハンユー)が、人びとに教えを説く神父の役で登場する。相変わらず一癖ある存在感だが、何だかミスマッチ感がある。それはともかく、中国におけるキリスト教の受容に、このような過酷な環境も無関係ではなかったと思わせる展開だ。陝西省のカトリック教徒たちを撮った楊延康(ヤン・ヤンカン)の作品群(>> リンク)を観たことがあるが、外界と隔絶された地での信仰にみえた。

この大飢饉に対し、蒋介石(妻の宋美齢も登場する)は、形だけの心配とわずかな食糧支援を行う。ここで描かれる蒋は、体面ばかりにこだわる偽善者の姿である。何しろ、消極的だった食糧支援を決めたのは、日本軍が河南省に入り、人びとに食べ物を与えたことを聞き、それでは自分の立場が危うくなると判断してのことだった。

その日本軍は、決して人道的な観点から行動したのではなかった。映画には、岡村寧次(陸軍大将)が登場し、住民を軍隊の増強に使うためにそうしろと命じている場面がある。戦後、国民党に協力し、戦犯となることを免れた人物である。『大決戦 遼瀋戦役』(1990年)(>> リンク)においても典型的な悪人として描かれている岡村だが、歴史的には妥当なところだろう。

蒋介石は当然、連合国の一員としての中国を代表とするのは、自分を首班とする国民政府だと考え、日本軍に対して国民政府以外のものには絶対降伏してはならないと命令した。岡村はこの命令を忠実に実行し、中国共産党・八路軍による武装解除の命令には、武力による「自衛」権を発動しても従わないとして拒絶した。このため戦後になってから数千人の日本人が八路軍と戦って死んだのである。
 
中国共産党はこの岡村大将を中国戦線における第一の戦争犯罪人として、戦後ずっと追求しつづけた。彼は敗戦時の最高指揮官であっただけでなく、華北での「三光作戦」の最高責任者(北支那方面軍司令官)であったからである。しかし蒋介石=国民政府は37年の「南京大虐殺」の責任者として松井石根大将はじめ数人を戦犯として追及したが、ついに岡村を追求することはなかった。彼の利用価値が高かったし、実際彼はよく蒋介石に協力したからである。この蒋介石の処置にはアメリカも同意していたのである。こうして戦後から今日に至るまで、日本人は「三光作戦」についての日本の戦争責任を感ずることもなく過ごしてきた。
」(姫田光義他『中国20世紀史』)

ところで、映画において、蒋介石は、河南省の支援に際して、国民党の山西軍閥である閻錫山にやらせろと命じている。のちに、日本の敗戦後に残留兵を利用して八路軍(人民解放軍)と戦わせた人物である(池谷薫『蟻の兵隊』)(>> リンク)。ここでも、上の引用でわかるように、日本軍の意向が反映されている。また、日本軍の行動を警戒する蒋に対し、側近は、汪精衛(汪兆銘)の仕業でしょう、などと言う。国民党と日本に対する評価が、すべて、相互にリンクしていることがわかる。

日本兵として登場する俳優をどこかで観たと思っていたら、やはり、陸川『南京!南京!』(>> リンク)に日本兵として登場してきた木幡竜だった。調べてみると、『南京!南京!』以降、中国で俳優として認められてきているのだという。悪辣な役ばかりだと気の毒だが、アクション映画なんかに良いかもね。

小道具も面白い。『タイム』誌記者として登場する米国人(セオドア・ホワイト)が持っているのは、バルナック型ライカとローライフレックスである。ライカIIIcにエルマーあたりだろうか(ところで、ファインダーを覗いてピントグラスで焦点を合わせるという、レンジファインダーではありえない描写がある)。

風景描写もドラマ性も歴史描写も優れた映画。賛否が分かれるかもしれないが、日本公開してほしい。

●参照
馮小剛『戦場のレクイエム』
楊延康の写真
陸川『南京!南京!』
中国プロパガンダ映画(7) 『大決戦 遼瀋戦役』
池谷薫『蟻の兵隊』


ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』

2013-03-09 08:21:26 | 北米

ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』(ちくま文庫、原著2001年)を読む。

どこにでもあるように、違和感を覚えていた男女。その男が突然自殺し、女は古い家にとどまる。夫のオーラが残る部屋には、存在するのかしないのかわからない男が出現する。

女は舞踏家のように身体を他の視線に晒す「ボディ・アーティスト」。贅肉だけでなく、皮膚や舌の表面などからも、すべての老廃物を取り去っていく。その身体への執拗な確認の表現が凄まじい。まるで、存在を、研ぎ澄ませた身体感覚でのみ感知しようとするかのようなのだ。感知機能だけの存在とは想像すらしなかった。

それが外部に感知した存在、あるいは創りだした存在たる男には、時間機能も、言語機能も欠落していた。極大化した感知機能が、感知の前提である時間と言語とを欠いているとは、何という設定か。

こうなると物語は抽象になり、読後は、痛みのようなものが残る。

●参照
ドン・デリーロとデイヴィッド・クローネンバーグの『コズモポリス』


ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』

2013-03-08 07:38:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

Weasel Walter (ds)
Mary Halvorson (g)
Peter Evans (tp)

ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』(Thirsty Ear、2009年録音)を聴く。

3人とも確信犯というのか、変態というのか、正面から攻めたと思えばかわし、横を向いて妙なことをやっていたり笑っていたりするような印象である。

それぞれが様々な貌を見せる。ハルヴァーソンの多彩な音は繊細で、テクもある。ウォルターはひたすら遊んでいる。エヴァンスは押したり引いたり。循環呼吸奏法も披露する。3人の組み合わせは限りがない。

これは琴線に触れる。

いや琴線に触れるのだが、中心もない、王の道もない、コード(音楽の、ではなく、脳内の)を勝手に適用することを許してくれない。ずっと、琴線にさわさわと微妙に触れ続けて、じらされる感じである。我慢できずにウヒヒヒヒと笑ってしまいそうだ。ライヴを観たらこれは愉しいだろうね。

●参照
ピーター・エヴァンス『Ghosts』
ピーター・エヴァンス『Live in Lisbon』


細田衛士『グッズとバッズの経済学』

2013-03-07 07:32:00 | 環境・自然

細田衛士『グッズとバッズの経済学 循環型社会の基本原理(第2版)』(東洋経済新報社、2012年)を読む。

初版は1999年に出版された。その頃、わたしも廃棄物・リサイクルの調査研究にも足を突っ込んでいたこともあり、興味深く読んだ本である。

当時は、容器包装リサイクル法、家電リサイクル法、食品リサイクル法、建設リサイクル法、自動車リサイクル法という個別製品のリサイクルに関する法制度が整備されていた時期であり、それが現実にどのように適合していくのかというプロセスも、その限界も見ることができ、新鮮でもあった。OECDによるEPR(拡大生産者責任)という概念も、受容されてきていた。(ところで、パリのOECDにおけるEPRの会議に黒子として参加した。そのときの厚生省の担当者が、その後、もろもろの経緯があり、瀬戸内の島の町長になっていることを知り、驚いた。)

本書は、その後12年間の変化を踏まえ、改訂されたものである。改めて読んでも、非常に具体的な事例をもとに解説しており、良書である。

グッズとは従来概念の経済取引でプラスの価値が付けられるモノ、バッズとはマイナスの価値(逆有償)となるもの。古紙のように需給の関係でグッズからバッズに移行するモノもあれば、その逆もありうる。

従って、著者は、経済学の中にもマイナス値のバッズを取り入れるべきだとする。また、グッズとは異なるメカニズムで動くバッズフローを制御するためには、そのためのコストを、グッズフローの中に内部化しなければならないと繰り返し説く。そして、コストを内部化しても、バッズフローを完全に市場に任せてはならず、政府や製造者(技術を持つ者)による全体と個別の制御が必要不可欠とする。

至極真っ当な主張である。しかし、それを現実化することはまた別問題である。

また、特にバッズに関して、情報が共有されず、また制約がないため市場メカニズムが機能せず、折角の技術が「顕在技術」とならず、「潜在技術」にとどまることが多いのだとする議論も、興味深いものだった。

いわゆる廃棄物だけではなく、バッズには、例えば大気に排出されるガスも含まれる。視野を広くすれば、現在の環境政策に関するさまざまな言説に、強弁や的外れなものが多く見られることがよくわかる。


チャベス大統領が亡くなった

2013-03-06 08:27:30 | 中南米

ベネズエラ、ウゴ・チャベス大統領逝去の報。

強烈な個性と政治ゆえ賛否両論が喧しい存在だったが、ひとつの旗であったことは事実である。

野球好きで知られていた。WBCのベネズエラチームについても気にかけていたのだろうか。

ウーゴ・チャベス&アレイダ・ゲバラ『チャベス ラテンアメリカは世界を変える!』(作品社) ・・・ ゲバラとチャベス
本間圭一『反米大統領チャベス・評伝と政治思想』(高文研) ・・・ 貧困、軍隊、エネルギー資源、メディアなど日本との違い
伊藤千尋『反米大陸』(集英社新書) ・・・ 南米の政治的な動向
『情況』の、「中南米の現在」特集 ・・・ 太田昌国+足立正生という対談に注目
廣瀬純『闘争の最小回路 南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン』(人文書院) ・・・ 南米の地殻変動が持つ意味
太田昌国『暴力批判論』(太田出版) ・・・ 米国や日本を歴史的現実という鏡で視る、その手掛かりとして
モラレスによる『先住民たちの革命』  ・・・ チャベス政権と共通する側面
酒井啓子『<中東>の考え方』(講談社現代新書) ・・・ イランのアフマディネジャド大統領の評価においてチャベスを参照


万年筆のペンクリニック(3)

2013-03-05 00:40:26 | もろもろ

日本橋丸善の「世界の万年筆展」。中屋万年筆のブースで、プラチナの「#3776 センチュリー ブルゴーニュ」のペン先調整をお願いした。中屋万年筆は、プラチナ萬年筆の職人さんたちが立ちあげたところなので、このような形が可能なのである。

さて、同じペンをこうして診てもらうのは4回目くらいではなかろうか。どうも書き出しが渋いことも、いつも同じ。

調整してくださった方の話によれば、最近の万年筆は、筆圧が強い人向けに少しシフトしている。そのために書き出しを強くタッチするため、インクの出具合も問題ないのだという。自分は楽にさらさらと筆記したいから万年筆を使うのであり、それは困る。

ついでに、インクフローを多めにしてもらった。日本の中字は海外の細字程度なのではないか。翌日、手帳にちょっと書いてみると実に実に気持ちが良い。こうでなくては。

●参照
万年筆のペンクリニック
万年筆のペンクリニック(2)
行定勲『クローズド・ノート』(万年筆映画)
鉄ペン


ハイナー・ゲッベルス『Stifters Dinge』

2013-03-03 21:39:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

ハイナー・ゲッベルス『Stifters Dinge』(ECM、2012年)を聴く。

19世紀オーストリアの作家アーダルベルト・シュティフターの世界をモチーフにし(米国のレビューでは、タイトルに括弧書きで「Stifter's Things」と付している)、イメージを増幅させた、劇場でのパフォーマンスである。その、音声のみの記録であるから、こちらも、せめて想像力を膨らませようとしながら聴く。

パフォーマンスには、5台のピアノ、水、風、霧、雨、金属、石、氷、そしてさまざまなテキストが使われている。ピアノは、おそらくは精巧かつ奇妙に組み合わされた、動くインスタレーションとでもいったものだろう。映像を探して観ると、ゲッベルス自身が登場してピアノを弾いたのではなく、メカニカルに計画通り駆動されている(>> リンク)。

それらのアナログな音世界が創られるなかには、パプアニューギニアやコロンビアの先住民たちが発した声も貢献している。

やがて、シュティフターの作品(英訳)の朗読がなされる。「I had never seen such a thing like this before...」といった言葉から始まり、奇妙な音に包まれる男のエピソードを語っている。次に、バッハのチェンバロ曲に続き、クロード・レヴィ=ストロース自身のインタビューにおいて、もはや世界に完全未踏の地などないのだ、といった諦念のような感情の吐露がなされる。

そして、ウィリアム・S・バロウズが低い声で、精神と身体に固有のものなどないのだと、預言者のように告げる。マルコムXは、テレビインタビューで、ヨーロッパ人のみのための世界について怒りを放つ。

これは何だろう。まるで、『アギーレ・神の怒り』や『フィツカラルド』などの映画においてヴェルナー・ヘルツォークが描いた、ヨーロッパ人支配の歴史を想起させるものだ。ヘルツォークだけでなく、時代は違えど、ニコラス・エチェバリーアホルヘ・サンヒネスといった中南米の映画作家たちも、やがて先進国と呼ばれることになる蛮人たちの侵略を描いている。そのような、血塗られた歴史の絵巻である。

ゲッベルスの演奏を一度だけ観たことがある。かつて六本木にあったロマーニッシェス・カフェにおいて、ゲッベルスは、デイヴィッド・モス、大友良英、巻上公一、ジャンニ・ジェビアというメンバーと一緒に、ピアノを弾いた。これほど愉しく頭が麻痺するようなライヴもそう無かった。ここで、ゲッベルスは、普通のプリペアドだけでなく、ピアノの弦から紐を張って、それにドリルのような小道具を接触させては奇妙な音を発して愉しんでいた。

この盤でのインスタレーションから発せられる様々な異音も、それを思い出しながら聴いた。

パフォーマンスを体感できたならもっと納得できたのかもしれないが、視えないからこそ想像力もあらぬ方向に飛んでいくというものだ。

●参照
ニコラス・エチェバリーア『カベッサ・デ・バカ』
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』
ジョン・ゾーン『Interzone』 ウィリアム・バロウズへのトリビュートなんて恥かしい
コンラッド・ルークス『チャパクァ』(バロウズ出演)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像(バロウズ出演)


ビル・エヴァンス『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』

2013-03-02 23:58:18 | アヴァンギャルド・ジャズ

Bill Evans (p)
Scott LaFaro (b)
Paul Motian (ds)

1961年6月25日、ヴィレッジ・ヴァンガードにおける、あまりにも有名なセッション。『Waltz for Debby』『Sunday at the Village Vanguard』という、Riversideの2枚として別々に出されていたが、このCD 3枚組は、録音をすべて順番に並べたものである(午後のセット2回、夜のセット3回分)。

その2枚は何度も何度も聴いたものだが、こうして順番に聴いてみると、いろいろな発見がある。少なくとも、『Waltz for Debby』において受けるような、「My Romance」と「Waltz for Debby」が中心のセッションではない。

ビル・エヴァンスのあやうい和音、ポール・モチアンの伸び縮みするドラムスは、当然素晴らしい。しかし、それにも増して、スコット・ラファロの過激に自由なベースの凄さ。

特に、夜の3回目のセットにおいて、2曲目の前にベースを弄び、とてもテンションが高くなっていると思える後の「Gloria's Step」(テイク3)は、アンバランスなほどベースが暴れ、圧倒される。終わった後も、興奮冷めやらぬ雰囲気が伝わってくる。演奏の間の音も、貴重なドキュメントとなっているわけである。


『Waltz for Debby』

●参照
『Stan Getz & Bill Evans』
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン
キース・ジャレットのインパルス盤(モチアン参加)
70年代のキース・ジャレットの映像(モチアン参加)