鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その14

2014-05-14 06:07:12 | Weblog

 国道16号線を横断したのが14:15。

 「厚木15km 大和4km」の道路標示を見上げて、「大ヶ谷戸(おおがやと)」という「神奈中」(神奈川中央交通)のバス停を過ぎたのが14:20。

 しばらくして右手に見えてきたお寺が、「圓成寺」

 (えんじょうじ)という浄土真宗のお寺。石碑に刻まれている縁起によると、北条氏綱の家臣であった山中修理亮貞信が遁世して天正年間に開いたお寺であるらしい。もともとは厚木の飯山にあったが、三代か四代の頃に当地に移り住み移転したと伝えられているとのこと。

 「五貫目道祖神」を見掛けたのが14:33。

 案内碑があり、それによるとこの道祖神は、徳川中期に旧青山街道(旧国道246号)の現所在地より約300m西方の境川鶴瀬橋手前に祀られていたもので、北は世田谷青山、西は伊勢原小田原、南は戸塚鎌倉に通ずる三方分離点として旅人の道標としての役割を果たした道祖神であるとのこと。

 現在の道祖神は徳川後期の安政三年丙辰八月と印され、二代目道祖神と言い伝えられているらしい。

 明治時代より今日まで、地域住民の手により、毎年1月14日に道祖神地先にて左義長別名ダンゴ焼きの行事が実施されている、といったことも記されていました。

 この「鶴瀬橋」は、「目黒」交差点を過ぎてしばらくしてあり、その「鶴瀬橋」で境川を越えました。

 境川を越えてまもなく右手にあったお寺が「鶴間山 観音寺」。

 石碑の「縁起」によると、このお寺の宗派は真言宗で、開山開基は不詳とのこと。

 下鶴間村の領主は旗本の江原氏であるということも、この「縁起」から知りました。

 本尊は十一面観音菩薩。

 「観音寺前」交差点で八王子街道を横切ると、そのあたりからがかつての下鶴間宿でした。

 そのかつての宿場町に入ってすぐ右手に「大山阿夫利神社御分霊社」という立て看板が現れ、この道筋がたしかにかつて大山詣の人々が盛んに行き交ったところであることを実感しました。

 しかし、こういう施設は今まで大山街道をここまで歩いてきて見掛けたことはありませんでした。

 右折して境内に入ってみると、「関東総鎮護 大山阿夫利神社御分霊鎮座 大山祇大神 大雷神 龗神」と記された立て札があり、小ぶりの社が建っていました。

 また「大黒天開運神社」というものもあり、その案内板によると、この地はかつて相州鶴間村宿場であって、江戸方面からの旅人等は当地に一夜を明かしたり休んだりして、わらじを取り替えて身を清め、関東の霊山大山阿夫利神社の参拝詣の行には、必ず財布をなぜ清めて金運にあやかるように祈願していたとのこと。

 「金運 長命 大國主大神 出世 太閤豊臣秀吉公霊」と記された立て看板もありました。

 「太閤豊臣秀吉」が祀られているというのが面白い。

 また境内入口左手には、「新田軍の鎌倉進撃路 新田氏関係地名」が記された看板や、「元新田氏の歴史と其の由来」と刻まれた石碑もありました。

 この道筋は、新田義貞軍の鎌倉進撃路でもあったのです。

 進撃路を示した看板地図には、「生品神社」や「岩松」、「徳川」などといった懐かしい地名なども記載されており、上州地方から鎌倉に至る最短路を、新田軍は鎌倉に向かって進んで行ったことがよくわかりました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)



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