鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その12

2014-05-12 05:23:13 | Weblog
「まず奥の方へとお入り下さい」と崋山と梧庵を、奥の部屋に案内した兎来は、「平屋の小さな家ですから、わざわざお迎えできるような部屋もないのですが」と付け加えて、酒を買いに行き、肴(さかな)を設け、蕎麦を出すなどして懇ろに接待する。出された蕎麦は色がきたなくて味もよくない。麦飯を所望したところ、これはとてもうまかった、と味にうるさい崋山はわざわざ記しています。接待を受けていると、松五郎という名前の農民もやってきました。この松五郎とは街道の向かい側やや左手に住み、旅籠も営んでいる河原浅右衛門松五郎という者で、やはり太白堂孤月の門人でした。俳号は「琴松」(きんしょう)。嘉永7年(1854年)に亡くなっていますが、天保2年(1831年)当時何歳ほどであったかはわからない。崋山は「九月廿一日」の日記の冒頭に「箍(たが)掛りしばりあけけり萩の花 武長ツタ 琴松」の句を挙げ、「長津田の農松五郎、名ハ琴松とよぶ。余にこの句をおくる」と記しています。畑に麦をまきにいく途中、たまたま兎来宅に立ち寄って崋山と初めて会い、麦まきをした後で兎来宅にやってきて座をともにしたのでしょう。「はなしかけて麦蒔(むぎまき)に行ぞ世は豊(ゆたか)」と崋山は句を詠んでいます。同じ太白堂孤月の門人であることもあり、琴松と兎来は親しい友人であったのかも知れない。畑の麦まきに行く途中で立ち寄って、崋山を兎来から紹介されたものの、麦まきの仕事があるのでそれをやり終えてからまた来ますからという琴松に、崋山は一人の農民の旺盛な勤労精神を感じ取ったのかも知れない。それが「世は豊」に表されています。兎来については、崋山は「旭陽堂と号、万屋藤七、経師、行燈、たばこをなりわひとす」と記しています。「経師(きょうじ)」とは表具屋のことであり、たばこや行燈を販売するほかに、表具屋もやっていたようです。「大海や何所まで秋のとゞく音 兎来 草」と日記には記されています。兎来が自ら筆をとって、崋山の日記に自分の詠んだ俳句を書き込んだのでしょう。長津田宿は内陸部にあり、海からは遠い。江ノ島か鎌倉あたりの海に出掛けて、実際に海を見て詠んだ俳句であるようです。兎来にとって自慢の句の一つであったものと思われます。 . . . 本文を読む