鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その9

2012-04-26 05:33:33 | Weblog
 昼食と休憩をとってからふたたび荒川土手上(サイクリングロード)を歩き始めたのが13:38。土手の斜面に咲く菜の花は、サイクリングロードの両側に黄色く長々と延びています。

 途中、「荒川スーパー堤防(久下地区)」と記された案内板があり、「ここ久下地区は水防拠点の機能を持つスーパー堤防として整備されました」とありました。

 「計画緒元」によると、位置は埼玉県熊谷市久下地先(荒川左岸約70.8km付近)、工期は平成9~18年度、面積は約1.5ha、延長約150m、幅約50m、盛土高最大10m、関連事業は水防拠点整備事業(事業者:国土交通省)とあり、図からは、旧堤防の外側に幅50mの盛土をして新堤防を築いたことがわかります。

 比較的最近に10年間をかけて築造された「スーパー堤防」であることがわかります。

 右手下を見ると、堤防下の菜の花の向こうに水路があり、その向こう側に水路に沿って満開の桜樹が長く連なっています。

 スーパー堤防の盛土高は最大10mだから、密集する人家の屋根が土手の右側に広がり、ところどころに高層のビルやマンションなどが見えます。密集する市街は、もちろん熊谷市街。土手下の桜の下では、ブルーシートが敷かれて観桜の宴が展開されています。

 まもなく、先ほどの案内板にも写真として掲載されていた「決潰の跡」碑がサイクリングロードの右手に現れました(13:49)。

 そばに「荒川の水害」と記された案内板が立っており、それには、古来、荒川は「荒れる川」として洪水により沿川の住民を苦しめてきた川でもあり、近年では特に、昭和22年(1947年)9月のカスリーン台風による洪水のため、熊谷市久下地先のこの場所で濁流が堤防を越え決壊したために、流れ出た洪水は埼玉県北部の村々を次々と襲撃し、おりしも利根川の決壊した濁流とも合流し、はるか東京まで達し多くの犠牲者を出すとともに、付近一帯に甚大な被害を与えた、といったことが記されていました。

 「決潰の跡」碑があるところが決壊地点であり、その石碑の左前には、「こ 洪水の怖さ伝える決壊碑」と、カルタのカードのような大きな文字盤が立てられています。

 右手の土手の傍に、高層マンションが壁のように建ち並んだりしていますが、これらはスーパー堤防の建設の後に建てられたものであるように思われました。しかし、その3階ぐらいまでは、巨大堤防のために、荒川方向の展望は効きません。

 そこから10分ほど歩くと、カルタのカードのような文字盤がふたたび立っており、それには、「な 長土手に 馬子唄のどか 春の風」とあり、この長土手(といってもかつての久下の長土手ですが)は、馬を曳いた人足たちの「馬子唄」がのどかに聞こえる街道(中山道の一部であったことがわかります。

 さらに、「し 『下に下に』は大名行列 中山道」、「む 昔栄えた 新川の 河岸」、「や 屋敷森のみが 残りて 昔を語る」、「を 輪型の坂を 行き交う大八」といったカードが次々と現れました。

 「や 屋敷森のみが 残り手 昔を語る」のカードと、その向こうの河川敷にある島のような森を見て、今までずっと左手の河川敷に点在する島のような樹木の密集地が、「屋敷森」であったことに気付きました。

 新しい堤防ができるまでは、左側の河川敷には村があったのであり、樹木に囲まれた農家などが点在していたのです。

 「新川の河岸」(江戸時代においては江川河岸)が、この河川敷の向こうのどこかにあったということであり、それに通ずる道も村の中を走っていたということです。

 そのことを具体的に示す案内板が、堤防を下りたところの「久下公民館」前に立っており、それには、「荒川の恵みをうけて 100年前の久下新川村は舟運と養蚕で栄えました!!」とあり、わかりやすい案内マップが描かれていました。


 続く


○参考文献
・『やさしい熊谷の歴史』中島迪武
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『渡辺崋山 優しい旅人』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)


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