鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その7

2012-04-24 05:15:06 | Weblog
『やさしい熊谷の歴史』(中島迪武)によれば、荒川堤(久下の長土手)は、大曲(おおまがり)から久下(くげ)宿(ここに立場があった)を経て、そこからまた堤に上がって三町(約300m)ほどで「みかりや」と呼ばれる休茶屋に到着。そこから堤を下り、東竹院の前を通過し、熊久橋を渡れば熊谷宿に至りました。前に触れたように、この長土手の上り口(江戸方面から歩いてきて)と下り口にそれぞれ一軒の茶店があり、下り口にあったのが「みかりや茶屋」でした。渓斎英泉の「岐阻道中熊谷宿八丁堤ノ景」は、やはりこの本の記述によると、「みかりや」茶屋の付近を描いたものであるという。久下村には荒川に面した河岸があって(久下河岸)、江川村の河岸(江川河岸)とともに大変繁盛した河岸であり、船主の屋敷や河岸問屋、宿屋などがあったという。特に荒川沿岸で最も栄えた河岸は「江川河岸」であり、忍(おし)藩の御用船は主にこの「江川河岸」を使用していた、とも記されています。この「江川河岸」は江戸までおよそ36里(約144km)。早船で2日、短い時で4、5日。普通は15日~20日ほどであったという。明治7年(1874年)、下久下村と江川村が合併して新川村となり、「江川河岸」は、「新川河岸」と呼ばれて、明治になっても荒川水運の要衝地であったようです。崋山は、この長土手を「熊谷の土手」と記し、「其長さおよそ三里もありぬらん」としていますが、その「三里」とは、大曲の上り口(ここに崋山が盥の中で泳ぐカジカを写生した茶屋があった)から「みかりや茶屋」のあった「下り口」までの距離であったろうか。英泉の浮世絵の左半分にはその「みかりや茶屋」、そして右半分には荒川の長土手(久下の長土手)が描かれています。 . . . 本文を読む