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鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.2月「元箱根~三島宿」取材旅行 その5

2008-02-29 05:53:42 | Weblog
 「下長坂」は別名「こわめし坂」ともいう。この「こわめし坂」をしばらく下ると人家が途切れ、右手の道端に案内板が倒れていました。この倒れた案内板を読んでみると、「こわめし坂」は西坂第一の難所であり、急勾配(三島方面から箱根峠に向かう場合)のために、背中に負った米も、人の汗や蒸気で蒸されてついに強飯(こわめし)のようになったからだという。たしかに振り返ると、かなりの急坂ではある。

 右手に「三ツ谷新田発祥の地」の案内板を見て道を進むと、三ツ谷区公民館の前に天神社という社。この地区の総氏神で80段近くの石段が続いている。その石段の途中を左手に入ったところに「出征馬供養塔」というのがありました。昭和16年(1941年)4月に建てられたもの。その右側には馬頭観音が並んでいました。「出征馬供養塔」というのは珍しい。この辺りの地域では、かつて馬が多数飼われていたのでしょうか。

 両側に家が並ぶ街道をさらに進むと、「松雲寺前」バス停があり、右手に「覚源山松雲寺」。日蓮宗のお寺で「明治天皇史蹟」という標柱が立っています。ということで境内に入ってみると、案内板に、「尾張・紀伊両大納言をはじめ、東海道を往還する参勤交代の大名たちの休息所となり、朝鮮通信使や14代家茂、15代慶喜などの『寺本陣』となる」とある。「寺本陣」という言葉は初めて目にしました。ここには明治天皇も「三ツ谷新田御小休所」として「度々(たびたび)御成り」になったとのこと。一角に「明治天皇御掛石」というのがあり、明治天皇がここに腰を掛けて富士山を眺めたのだという。

 腰を掛けるのに適度の高さの平たい石で、誰でも座ってよさそうなので、私も腰を掛けて持参の緑茶を飲みながら、北方向の富士山を眺めてみました(13:50)。富士山は、山中城跡でもそうであったように、上半分が雲で覆われていて全貌は見ることができませんでしたが、右側が白い雪で覆われているのが美しく見えました。その富士山の写真を、腰掛石に座りながら数枚撮影。

 右手に雲を被った富士山を見ながら、街道を進む。

 「花いっぱい運動」の花壇を右手に見て、道を右へと入っていく。三島市立坂公民館(かつての坂小学校の跡地で、その前はここに法善寺というお寺があったらしい)の裏手は、「三島市眺望地点」の一つとなっていて、愛鷹連山や富士山の眺めが美しいところ。

 左手に新しい「坂小学校」を見て進むと「坂幼稚園」にぶつかりますが、その手前の右手の道が旧東海道。

 「題目坂・三島宿」の道標がある。左手に足利尊氏建立の「七面堂旧址」の石碑と「箱根旧街道題目坂」の案内板。それによると「題目坂」というのは、玉沢妙法華寺への道程を示す題目石があったことから名付けられたものであるらしい。別名「法華坂」または「大時雨坂」とも。

 題目坂の石段を下ると、市の山新田の通りに出ますが、その右手角に、またまた「出征馬記念碑」というのがありました。先の三ツ谷の天神社にあった「出征馬供養塔」と共通するものでしょう。

 帝釈天「法善寺」(日蓮宗・かつては坂公民館のところにあった寺がここに移転したもの・題目石が2基、門前にある)を右手に見て、「市の山」バス停を過ぎ、六地蔵を右に見て、右手へ入っていくと「臼転坂・三島宿」の道標。この坂の名は、牛がこの坂道で転がったからとか、臼を転がしたから、とかいったところから由来しているらしい。

 「塚原」バス停を過ぎたのが14:40。

 道の突き当たりは道路工事の真っ最中。旧街道をたどっていくのは不可能になりました。ということで、右手の坂道を登っていったところが、この道もすぐに通行止め。やむなく道を戻ると、右下に「箱根路」と刻まれた大きな石と「箱根路・三島宿」の標示が見える。上水道工事が行われている眼下の道が、やはり旧街道であったことを確認。

 道を戻って右折。塚原新田交差点を渡って右折。この辺りは、「伊豆縦貫道路塚原IC」の盛土工事が大規模に行われているところでした。

 先ほどの旧街道の道路工事(上水道工事)も、その工事と関係しているもののように思われました。


 続く


○参考文献
・『象の旅』石坂昌三(新潮社)
・『江戸の見世物』川添裕(岩波新書)


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