鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その7

2008-02-06 05:52:38 | Weblog
遊撃隊と小田原藩兵との戦闘は慶応4年(1868年)5月26日に山崎で始まりました。山崎は、入生田(いりうだ)と早川に架かる三枚橋との間、塔ノ峯の支脈が早川に向かって張り出した部分にあたり、東海道はその張り出した部分(山崎)を乗り越える形になる。遊撃隊がここに胸墻(きょうしょう・敵の射撃をよけ攻撃に便利なように胸まで土などを盛り上げたもの)を築いたのは地形的に当然のことであったでしょう。遊撃隊の激しい抗戦に小田原藩の戦果は上がらず、ついにしびれをきらした問罪軍が加勢して山崎の敵陣地を突破。遊撃隊は箱根の関所に退却していくことに。つまり箱根のあの石畳道を日没前後に関所に向かって歩んでいったことになる。退却していく遊撃隊の中には負傷者が多数いましたが、その中に第二軍隊長の伊庭(いば)八郎がいる。伊庭は三枚橋の上で腰に被弾してよろめいたところを背後から斬られ、左手首がぶらぶらの状態となる。左手首より血か迸(ほとばし)る状態で右手一本で奮戦。味方に助けられ戸板で石畳道を運ばれて畑宿にいた林忠崇(ただたか)ら第四軍と合流。そこでぶらぶらになった左手首の切断手術を受けたという。翌27日、遊撃隊は箱根の関所に入って軍議を行い、全軍退却を決定。その日九つ時(正午)頃より箱根から間道を通って夕刻に熱海に到着。ここから船3艘に分乗し相模灘を横断。房総半島の館山(たてやま)港に入り、そこで人数を縮小(およそ140名)して旧幕府海軍の長崎丸で奥羽に向かうことになりました。それが6月1日夕刻のこと。この「戊辰箱根戦争」で死んだものは、小田原藩および問罪軍側で34名(切腹した小田原藩家老2人を含む)、遊撃隊側で32名であったという。伊庭のように負傷したものも多かったと思われます。慶応4年(1868年)の初夏、上野の彰義隊戦争に呼応する形で、箱根旧街道を舞台にこのような戦争があったことを私はほとんど知りませんでしたが、小田原から箱根までを歩くことによって、それへの関心を深めることができました。脱藩大名林忠崇(ただたか)が、また左手首を失った伊庭八郎らがその後どういう人生をたどったかは、中村彰彦さんの『脱藩大名の戊辰戦争』をぜひお読みください。一点、興味深かったことを挙げると、林忠崇が明治13年(1880年)に座間の龍源院に住み込んでいたこと。昨年の秋に、ここを私は訪れたことがあったからです。 . . . 本文を読む