鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その6

2008-02-05 06:13:40 | Weblog
 「旧街道資料館」はおそらく初めて訪れるところ。江戸時代の旅人の旅姿や持ち物の内容などを知ることができました。

 武士の場合は、ぶっさき羽織・手甲(てっこう)・脚胖(きゃはん)・菅笠・大小(大刀と脇差)・柄袋(つかぶくろ)。

 町人や商人の場合は、着流しで裾(すそ)をからげる。手甲・脚胖・草鞋(わらじ)・合羽(かっぱ)・道中笠・ちり紙・手拭(てぬぐ)い・財布・小財布(「早道」)・巾着(きんちゃく)・道中指(どうちゅうさし・護身用の刀)。肩に「振り分け荷物」。

 「振り分け荷物」というのは、手行李(てごうり)を三尺手拭いで結び、その2つを前と後ろに振り分けたもの。

 2つの「手行李」の中には、矢立(やたて)・扇子(せんす)・糸針・懐中鑑(かがみ)・日記(道中手控日記)・櫛(くし)・鬢付油(びんつけあぶら)・手拭い・着替え・腹巻・鼻紙・薬を入れた印籠(いんろう)・荷物をまとめる紐(ひも)・細縄・油紙・道中枕・提灯・ろうそく・火打ち石などが入っている。

 もちろん「往来手形」は欠かせない。

 「飛脚」についても説明がありました。江戸日本橋から京都三条大橋まで126里6町1間(495.5km)。飛脚(継飛脚〔つぎひきゃく〕)はその間を48時間で結びました。普通の旅人の場合、およそ10数日を要した距離です。

 飛脚でも普通の場合は90時間、急行は82時間、特急は60時間であったという。

 小田原宿から箱根宿までは4里8町(約16.9km)。この間には7ヶ所の「間(あい)の村」と9ヶ所13棟(江戸後期)の甘酒茶屋、そして施行所(一ヶ所)がありました。

 「間の村」は、街道の整備や荷物運びを行い、また旅人の松明(たいまつ)を提供した村。7ヶ所とは、板橋・風祭・入生田(いりうだ)・湯本・湯本茶屋・須雲川・畑宿。

 甘酒茶屋は休憩所。まんじゅう・餅・茶・うどん・そばなどを提供しました。

 施行所は、馬の飼葉(かいば)・焚き火(たきび)・粥(かゆ)などを無料で提供するところ。

 山駕籠(やまかご)の実物、旅人の衣服や持ち物、馬鈴、箱根の本陣の模型、箱根宿の景観と家並み(幕末期)を記した絵図など参考になりました。

 13:10に資料館を出る。

 旧街道を進むと、左手に「箱根旧街道 元箱根まで四十分」の道標と「史跡 箱根旧街道」の石碑。この地点から元箱根まで約1kmがふたたび石畳の道になります。しかし積雪のために石畳は全く見えず。両側に森を見ながら雪道を進みました(踏み跡がある雪道は幅40cmほど)。右手に「白水坂(しろみずざか)」の碑や「石畳の構造」の「二子山について」の説明板などを見ながら雪道を進むこと20分ほど、「元箱根まで15分」の道標。前方に芦ノ湖が見えてきました。

 しばらく行くと右手に「権現坂」の碑。「小田原から難所をあえいでたどりつき一息つく場所。目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が体に伝わってくるところ」との説明がありました。

 たしかに、やっとここまで来た、という安堵感がありました。途中の橿の木坂(かしのきざか)などは特に急な坂道で、ほとんど山登りに近い。江戸からずっと歩いてきた旅人にとっては実に難儀な道中であったことが察せられました。これは実際に歩いてみなければやはり実感できないことです。

 権現坂の上から望む芦ノ湖は、箱根連山に囲まれて静謐(せいひつ)そのもの。この眺めは旅人にとってなかなか感動的なものであったに違いない、と思われました。

 ここから芦ノ湖に向かって一気に下り坂。

 「杉並木歩道橋」を渡って右側に「箱根旧街道案内図」。

 左手に「杉並木について」と書かれた案内板。杉並木は樹齢300年ほど。現在は元箱根と箱根町に一部残されているのみだという。

 右手に「ケンペル バーニーの碑」。ケンペルはエンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)でドイツ人。1690年にバタビアから長崎に来航し、翌1691年にオランダ商館長に随行して江戸参府のため長崎から江戸へ。1691年3月11日(西暦)に箱根峠(関所も)を越えています。また1692年3月29日にも箱根を越えています。ケンペルは江戸参府紀行の中で、初めて箱根を世界に紹介しました。

 左手に瑞龍山興福院。「箱根七福神布袋尊」と白抜きで書かれた赤い幟(のぼり)が林立しているのを見て、通りに出て左折するとうどん屋さんがあったので、そこに入りやや遅めの昼食を摂ることに(13:57)。ここで靴にはめていたすべり止めを外しました。

 熱いうどんと汁をすすって体があったまったところで店を出ると、なんと通りを隔てた有料駐車場(第三駐車場)の西隣、朱の鳥居の湖側が「賽(さい)の河原」でした。

 この「賽の河原」にかつてあった「延命地蔵」の写真が、『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)のP84に載っていて、そこに「現在は小田原の徳常院に安置されている」と記してあったことから、小田原市内の徳常院を訪れ実物を見たことはすでに触れたところ。

 ベアトは幕末のある日、横浜から東海道に出て、小田原宿を過ぎ、早川に架かる三枚橋を渡り、箱根の石畳道を歩いて、あの険しい橿の木坂(かしのきざか)をよじのぼり、権現坂の上に出ました。この権現坂の上から芦ノ湖を見下ろした印象を、ベアトは次のように記しています。

 「あの美しい箱根山の湖が、最初に目に飛び込んでくる時の思いは、息をのむほどである。険しい山道を登ってきた旅人には、そのはげしい疲れもいやされるほどのすばらしい景観である。そして、海抜6~7,000フィートもあるこんな高地に、巾が1マイル長さが1マイル半もあり、深さといったらおよそ測深は不可能といわれる程の、さざ波一つたたないこんな湖が、どうしてできることになったのだろう、と不可思議の感に打たれるのである。」

 「道中の景色はすばらしい」「箱根路の旅は何ともいえず楽しい」としながらも、やはり箱根の急坂はベアトに「はげしい疲れ」を覚えさせるものでした。そのベアトの目に最初に映った箱根連山に囲まれた芦ノ湖の景色は、彼にとって相当に感動的てあったことがわかります。P86~87に彼が山の上から写した芦ノ湖の写真が載っています。P87の上の写真の中央には、当時の箱根宿が写っています。方角から考えて、この写真は権現坂の上からのものではない。どこから写したものか(おそらく箱根峠の相模・駿河の国境付近か)、次回の取材旅行で確かめたいと思っています。P83の「箱根宿」の写真とともに、幕末頃の箱根宿の様子がわかるたいへん貴重な写真であると言っていい。

 ベアトは、権現坂の急坂を下りてその芦ノ湖の湖畔に出ます。その出たところにあったのが「賽の河原」でした。東海道と芦ノ湖の間に広がっていた河原で、そこには多数の石仏や石塔が無数に並んでいました。

 現在の「賽の河原」とは比べものにならない広さで、その中にひときわ大きく目立った青銅製の地蔵が「延命地蔵」だったのですが、ベアトはその「延命地蔵」とそれを拝む町人2人、そしてバックに広がる芦ノ湖を被写体として写真を撮ったのです。


 続く


○参考文献
・『脱藩大名の戊辰戦争』中村彰彦(中公新書)
・『箱根と外国人』児島豊(神奈川新聞社)
・『外国人の見たHAKONE─避暑地・箱根の発見』(箱根町立郷土資料館)
・『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)

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