鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.10月取材旅行「小名木川」その1

2010-10-30 06:22:38 | Weblog

 インターネットで小名木川について調べてみた時、小名木川が中川と合流するところに「江東区立中川船番所資料館」というのがあることを知り、今回の取材旅行はその資料館を訪ねてみることから始めることにしました。

 小名木川が中川と合流するところというと、私が思い出すのは広重の『名所江戸百景』の「中川口」の絵。

 『広重「名所江戸百景」の世界』(川崎市市民ミュージアム)のP64にはその絵が出ていますが、その解説には、「ここは小名木川、中川、新川の合流地点で、水の都・江戸の物資輸送面での水運の要衝地であった」と記されています。

 手前の川が小名木川で、客が乗った1隻の荷足船が小名木川から中川へ出ようとしており、やはり客が乗った1隻の荷足船が中川から小名木川に入って隅田川方面へ向かおうとしています。

 中川を下るのは木材を組んだ筏(いかだ)が三つ。そしてその筏の向こうには釣り客を乗せた猪牙船が2隻見える。

 その左奥の新川には、航行する2隻の船とともに、川沿いに停泊している「べか伝馬」のような船が5艘ほど見られます。その「べか伝馬」は、手前の小名木川の岸辺にも1隻停泊しています。

 左下に見える柵は、中川船番所のもの。中川船番所は、小名木川が中川とぶつかる地点の北側にありました。

 広重は、その柵をわずかに描くことによって、中川船番所それ自体は描かれていませんが、その船番所の存在を強調しています。

 この船番所があったところの近くに、江東区が最近設立したのが「中川船番所資料館」ということで、ここから、万年橋近くの「江東区芭蕉記念館」まで、小名木川に沿って歩いてみることにしました。ついでに、広重の『江戸百』に描かれた「小奈木川五本まつ」の場所も確かめてみることに。

 都営新宿線の東大島(ひがしおおじま)駅に着いたのは8:15。その駅周辺マップで、中川船番所資料館の位置を確かめました。

 都営新宿線の東大島駅は、旧中川の真上に架かっている珍しい「河川橋上駅」。この駅の南にある公園が大島小松川公園(わんさか広場)で、その東を南北に流れるのが旧中川。

 その「わんさか広場」と旧中川の間の道を南へ進めば、中川大橋の西詰を越えた右手に、その「中川船番所資料館」はあることになっています。

 そこからさらに南に進むと、小名木川にぶつかり、その小名木川を右に入っていったところに「番所橋」が架かっています。

 中川大橋を東へ渡った右手(南側)には「大島小松川公園(風の広場)」があり、その通りをさらに東へ進むと荒川にぶつかります。

 駅周辺マップで、周辺の地理のおおよそを確認した後、大島小松川公園(わんさか広場)を右手に見て、中川船番所資料館へと向かいます。

 まもなく行く手に「江東区中川船番所資料館」という文字のある建物が見えてきました。その右隣には白い高層マンションが聳(そび)えています。

 中川大橋を左手に見て、通りを渡り、中川船番所資料館の前から旧中川の河原へと下りました。中川は幅が50m前後はありそうな川で、対岸は小高くなっており、先ほどの駅周辺マップからすればそこが「大島小松川公園(風のひろば)」となり、その公園の向こうが荒川ということになります。

 中川の下流を見ると橋が見えますが、それが「平成橋」で、その手前右側に小名木川が中川に合流する地点があることになる。

 ということで、中川の河原の遊歩道を南へとさらに歩いて行きました。

 
 続く


○参考文献
・『芭蕉二つの顔 俗人と俳聖と』田中善信(講談社選書メチエ/講談社)
・『総合芭蕉事典』(雄山閣出版)
・『悪党芭蕉』嵐山光三郎(新潮文庫/新潮社)
・『広重「名所江戸百景」の世界 江戸の人たちの名所感覚』(川崎市市民ミュージアム)



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