鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その16

2014-09-19 05:46:36 | Weblog

 「鰺ヶ沢町奉行所跡」と記された案内板には、以下のようなことが記されていました。

 ①ここに町奉行所が置かれたのは、寛文年間から明治2年6月まで。

 ②西廻り航路が開かれてから、年間7万石の米を積み出す藩御用湊として諸国の船で賑わった。

 ③湊の管理やこの地方の治安維持のために町奉行所が設置された。

 ④跡地は、現在は保育所と裁判所になっている。

 ⑤すぐ下は湊に面し船着き場であった。

 ⑥奉行所の建物は約160坪の堂々たるもので,御仮屋(藩主来時の宿泊所)も兼ねていた。

 ⑦藩主がたびたび西海岸を巡見した時に使用されたので、「御仮屋」や「御城」と呼んだ。

 その案内板に掲載されている絵図によると、御仮屋の正門は、現在の鰺ヶ沢警察署との間にある通り(「本町一丁目」の弘南バスのバス停がある通り)ではなくて、東側にある通りに向けて設けられていたことがわかります。

 「本町一丁目バス停から鰺ヶ沢保育所(町奉行所跡)へと上がって行く石段は、かつてはなかったものであることになります。

 石垣の下が通り(西浜街道)になっていて、その通り隔てた向こうが海となっています。

 現在、鰺ヶ沢警察署があるあたりはかつては海であり、そこに船着き場があったことになります(⑤の説明から)。

 階段を上って保育所の正面ゲートから内部を一瞥した後、通りを隔ててある鰺ヶ沢警察署を右手に見て通りを進むと、石垣の下に「城の下の井戸」というのがありました。

 案内板の説明によると、この井戸は、津軽百助信隆(津軽藩二代藩主信枚の弟)が、天童山の長松館にいた時に、町内に七つの井戸を掘らせたと伝えられ、その一つに「城の下の井戸」があっとのこと。

 水質が大変良かったため、藩政時代に諸国往来の船が湊に入ると、ここの井戸水を汲んだという。

 鰺ヶ沢町に水道が普及した後の昭和40年代まで、付近住民のお茶の水として利用されていたらしい。

 「城の下」の「城」とは、「町奉行所」(御仮屋)のこと。

 船着き場から、通り隔ててほんの近くにあった井戸であったことになります。

 そこから3分ほど通りを歩いて左手に、目指す白八幡宮(しろはちまんぐう)はありました。

 「北前船と津軽西浜」(昆政明)には、「鰺ヶ沢の白八幡宮には、廻船によって運ばれた石材によって建造された玉垣、石段、鳥居、廻船問屋や船頭をはじめ乗組員が奉納した船絵馬などが伝えられている」と記されていました。

 白八幡宮は、通りに面した石鳥居を潜ってから右手にある石段を上がっていったやや高台のところにありました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『北前船と津軽西浜』桜井冬樹監修(鰺ヶ沢町古文書学習会編)所収「北前船と津軽西浜」(昆政明)



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