『甲州街道を歩く』(山口徹)によると、大月の地名は室町時代から見えるが、江戸時代に入り、寛文9年(1669年)の検地で駒橋村から分村され、甲州街道の大月宿が形成されたという。
大月市郷土資料館の「中央線の開通前」「中央線の開通」という解説によれば、中央線の開通によって、それまでの東海道の御殿場駅→〈御殿場馬車鉄道〉→籠坂峠→〈都留馬車鉄道〉→桂村小沼→〈富士馬車鉄道〉→大月という、3つの馬車鉄道を通じての物資の移入はなくなり、これまでのルートとは逆に、大月→谷村→瑞穂村(富士吉田市)へと物資が移送されるようになり、大月駅が中央線と馬車鉄道との連絡駅となったことから、開通以前に甲州街道の要衝として栄えた猿橋に代わって、大月が郡内地方における中心的な商業地として大いに発展していくことになったという。
つまり中央線開通以前においては、猿橋宿の方が大月宿よりも賑わっていたことになります。
駒橋宿は、その猿橋宿と大月宿の間にあった宿場。
かつての宿場の雰囲気が残る「駒橋」バス停あたりが駒橋宿の中心地であったと思われますが、道沿いの家並みはかつての大月宿とつながっていて、大月市街を形成しています。
まもなく「↑甲府 甲州 中央道 →小菅」の道路標示と、「60m先図書館入口←」の案内表示が現れました。
やがて国道から左斜めに分岐する道があり、それは赤い鳥居と鎮守の杜に向かって延びており、赤い鳥居には「三嶋大明神」の額が掛かっていました。
「おおつき観光ガイドマップ」によれば、この三嶋神社にはかつて4本の巨大なケヤキの木が聳えていて、そのケヤキの巨木を「大槻」と呼んだことが、現在の「大月」の地名の由来であるとのこと。
『甲州街道を歩く』によると、天保14年(1843年)の大月宿には、本陣が1軒、脇本陣が2軒あるものの、旅籠屋は2軒しかありませんでした。
ということは江戸時代の大月宿は、多くの旅人にとっては通過点に過ぎない宿場町であったということになります。
江戸時代においては、猿橋宿の方が街道の要衝地として大月宿より賑わっていたというのは、現在の大月市街の情況から考えると意外な感を覚えました。
中央線の開通が、その変化の決定的な要因であったようです。
考えてみれば、明治40年当時、国内最大の発電所であった駒橋発電所の建設も、中央線という鉄道の開通によってその資材の運搬が可能になったわけで、鉄道の開通が山梨県に流通・運送・経済上の大きな変化をもたらしたことが改めてよくわかりました。
終わり
〇参考文献
・『甲州街道を歩く』山口徹(吉川弘文館)