青柳に入って行くと「砂糖店」と記された店の看板をいくつか見掛けました。
現在は「手づくり・焼きたてパンの店」になっていたり、「もろきび」や「もち米」、「こんにゃく粉」などを売る店になっていたりします。
塩は富士川舟運によって甲斐に運ばれ「甲州三河岸」に陸揚げされ、とりわけ鰍沢は塩問屋が多く、「鰍沢塩」と呼ばれて内陸各地に流通したほどですが、塩とともに砂糖も入って来ていたことをうかがわせます。
しばらく進むと左手のお寺の入口に大きな鬼瓦があり、それにはめ込まれた銘文によると、この鬼瓦は当山庫裏(寿命山昌福寺─日蓮宗)の大屋根を葺き替える際におろされたもので百有余年の間風雪に耐え、全山の鎮護の役を果たしてきたものだという。
「甲州三河岸」も含めてこのあたりの地域は、日蓮宗の壇信徒たちの多い地域であり、この寿命山昌福寺の境内の規模もそれを物語るもの。
「甲州青柳香」と記された線香屋さんの看板があるのも、それをうかがわせるものでした。
山梨交通の「青柳」バス停の看板を見ると、次のバス停は「追分」になっています。
しばらく進むと「青柳二丁目」交差点があり、そこを右折すると「道の駅富士川」を右手に見て富士川大橋を渡ることになります。
この富士川大橋が架かるあたりにかつて「青柳河岸」があったというから、この「青柳二丁目」交差点のあたりは街道(西河内路・身延道・駿州街道)から折れて青柳河岸へと向かう地点であったと推測されます。
「青柳二丁目」交差点を過ぎると、右手に海鼠(なまこ)壁と白壁が目立つ大きな蔵が見えて来ます。
「春鶯囀」(しゅんのうてん)と記された大きな看板や屋根付きの杉玉が掛かっており、看板には「株式会社萬屋醸造店」と記されていることから、これが酒の醸造元であることがわかります。
「天保騒動」の際、鰍沢で「打ちこわし」を受けた商店の中に酒屋が多く含まれていることから鰍沢に酒造店が多くあったことを知りましたが、この青柳においても酒造店が多数あったのではと思われました。
「甲州三河岸」は信州・甲斐地方からの年貢米など莫大な量の米の集積場であったからです。
米穀店とともに酒造店も多かったのです。
左手「あおやぎ宿 追分館 やなぎ亭」という料理店があり、「小さな資料館 蔵」と看板にありました。
しかし開館前の時刻なので立ち寄らず。
そこからほんの先にあったバス停が「追分」で、その少し先で道が二手に分かれました。
道路標示には左の道が「諏訪 韮崎」と記され、右の道が「甲府 市川三郷 増穂IC」と記されています。
ここ「追分」で、甲府へと向かう道(西河内路〔にしかわうちじ〕)と、韮崎宿へと向かう「西郡路(にしこうりじ)とが分岐することになります。
甲府方面からやって来た場合、巨摩郡中郡筋を南下して布施村で西に折れて釜無川を浅原村へと渡り、東南湖(ひがしなんご)村→大椚(おおくぬぎ)村を経てここ青柳追分へと至ることになります。
これが「西河内路」(「身延道」とも呼ばれる)であり、天保12年(1841年)の初夏に歌川広重が甲府城下から身延山久遠寺へと向かった道筋。
広重はこの青柳追分を通過してその南にある鰍沢宿へと向かったはずです。
広重は、鰍沢宿を過ぎてから以下のコースをたどったものと思われます。
鰍沢口留(くちとめ)番所→西島→切石→八日市場→飯富→早川の渡し→下山(しもやま)→山中の上り道→身延の久遠寺。
広重は身延の久遠寺から甲府城下に戻ったはずですが、その経路はわかりません。
この広重の旅は、久遠寺の参詣というよりも、急流として知られていた富士川沿川風景のスケッチが目的であったようです。
この青柳追分は、甲府城下から身延参詣へと向かう「身延詣」の人々が通過するところであり、また青柳河岸や鰍沢河岸へと米などの諸物資を運ぶ人馬が通過するところでもあり、また鰍沢河岸や青柳河岸から塩などの諸物資を運ぶ人馬が甲府方面や信州方面へと通過するところでもありました。
諸物資を運ぶ多数の人馬や旅人が行き交う交通の要衝であったのです。
この「追分」交差点で、左へとカーブする道、すなわち「西郡路」へと入って行きました。
続く
〇参考文献
・『山梨県歴史の道調査報告書 第七集 河内路・西郡路』(山梨県教育委員会)
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭調査研究報告書』(山梨県立博物館)
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