青柳追分から入った「西郡路(にしこうりじ)」には、腰下が海鼠(なまこ)壁の2階建て白壁土蔵造りの商店がところどころに残っています。
左手に「御菓子司 やまもとや」があり、その看板に記されている住所が富士川町長澤。
その「山本屋」を過ぎてまもなく、右手に立派な石垣と赤い鳥居のある道祖神がありました。
石垣の前にはそれぞれ「奉」「納」の文字のあるコンクリート柱があり、石垣の上に楕円形の丸石を含めた自然石が10個以上乗っており、その一つには「道祖神」と刻まれています。
その自然石群の真ん中に石祠が据えられています。
その道祖神の前には屋根付きの石製線香立てが置かれています。
鉄製のフェンス(玉垣の代わり)がめぐらされている道祖神基台の背後にまわってみると、その背後の基台の上にも楕円形の丸石が置かれていました。
丸石道祖神と石祠が合体しているような道祖神でした。
線香立てが道祖神の前に置かれているのが、今まで見てきた道祖神とは異なっているところ。
その前を過ぎてあったバス停が山梨交通の「長沢三丁目」でした。
やがてぶつかった川が「旧利根川」。
その橋に「太鼓堂のある町」として「峡南地域の概況」の記された案内碑がはめ込まれていました。
それによれば、山梨県西部一帯は、中央に日本三大急流の一つである富士川が流れ、東側は毛無山地、西側は3000メートル級の山がそびえる南アルプスに囲まれた山あいの地形から「峡」と呼ばれ、その南にあるところから「峡南」と呼ばれているとのこと。
この峡南地方は地形条件が急峻である一方、白鳳石や楮(こうぞ)等の原材料に恵まれていたところから、多彩な伝統工芸が古くから盛んであり、とりわけ硯(すずり)・印章・和紙はそれぞれ日本を代表する産地として、今なお多くの職人が製品を造り続けているとのこと。
中央に富士川が流れるものの、川の両側には急峻な山々が迫っており、当然のことながら田畑面積は他地域に較べると少ない地域であり、豊かな原材料を活かした特産物の生産が盛んであった地域であることがわかります。
「長沢新町バス停」を過ぎ、「南アルプス市」の市域に入ってからぶつかった川が「坪川」で、その「坪川」に架かる橋が「甲西(こうさい)橋」。
『山梨県歴史の道調査報告書 河内路・西郡路』によると、調査当時、坪川には「大明橋」が架かっており、かつてはその大明橋より下流のところで「西郡路」は坪川を渡って、土手際から約90mのところで西側に直角に曲がり、20mほどで北に曲がって荊沢(ばらさわ)宿に入ったという。
これが荊沢宿「下の矩の手(しものかねのて)」でした。
坪川を渡ってから荊沢宿へと入って行く際に、宿の南側の入口が屈曲していたことがわかります。
坪川を北へと渡ってから、屈曲した道の先にあった街道筋の集落が荊沢宿であったことがわかります。
荊沢宿の下宿(しもじゅく)→上宿(わでじゅく)を経て「上の矩の手」へと入り、右にクランクして古市場・下宮地へと向かったと同書にあり、荊沢宿の出入り口は「矩の手」といわれる道が直角に屈曲する構造になっていたことがわかります。
これは多くの宿場町や城下町の出入り口に見られた道の構造で、軍事的な意味合いを持ったものでした。
私の母親の実家は、現在のJR北陸本線北陸トンネルの近くの北国街道沿いにありましたが、お盆のお墓詣りなどで武生駅からボンネットバスに乗ると、その北国街道沿いの小さな集落の手前で、バスは細い道筋を急角度に回って集落に入り、母の実家の前のバス停で停まったことを覚えています。
なぜあそこでボンネットバスは苦労して道を曲がるのか、なぜ道はまっすぐになっていないのか、子ども心に不思議に思っていましたが、あれは宿場入口の「矩の手」であったのです。
「矩」とは大工道具の「曲尺(かねじゃく)」のことであり、道が曲尺のように直角に屈曲していることをさす言葉。
甲州街道が甲府の城下町へと東から入っていくところにも「矩の手」があり、それは現在も残っています。
そのあたりにはかつて「金手町」という町があり「かねんてまち」と呼ばれました。
現在はJR身延線の「金手駅」にその地名が残っています。
私の母の実家があったところもそうですが、現在はそのような旧街道も車の通行に不便なところからバイパスが近くに出来たり、まっすぐな道へと拡大改修されたりすることによって、その姿は次第に消えつつあるのですが、この「西郡路」においても状況は同じであるものと思われました。
続く
〇参考文献
・『山梨県歴史の道調査報告書 河内路・西郡路』(山梨県教育委員会)
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